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異世界恋愛短編集

妹に譲った婚約者、私だけが幸せになった話

作者: 百鬼清風

 広々としたサロンに並んだ視線が、私たち姉妹に向けられていた。ただひとり、私を除いて、誰もがこの空気を当然だと受け入れている。


「お姉様……ごめんなさい……」


 細く、頼りない声。病弱な妹、リゼットは、今にも消え入りそうな表情で私に謝った。


 そんな顔をされても、私にできることなんて、もう何もない。


 ソレイユ子爵家は、目立った富も力もないが、妙に歴史だけは長い古い家系だ。その家に生まれた私、クラリスと、病弱な妹リゼット。


 そんな私たちに、突然、縁談が舞い込んできた。


 相手は王都騎士団第二連隊、司令官と副司令官という、非常に地位の高い騎士たちだった。


(どう考えても、裏があるわよね……!)


 父から話を聞いた時、私がまず思ったのはそれだった。


 仲介人は、なんと王妃陛下の姉君だという。権力者がしゃしゃり出てきた以上、ろくでもない事情があるに違いない。


 調べてみれば、王都では騎士団の独身率の高さが問題視されているらしかった。若い騎士たちに縁談を押し付けるプロジェクトが立ち上がり、今回の見合いもその一環というわけだ。


 もちろん、騎士たちも嫌々だろう。だが、私たちだってたまったものではない。


 気が付けば、顔合わせの日程まで決められていた。


 私、クラリスの相手は、司令官にして公爵家次男のヴェイル=エヴァレット様。リゼットの相手は、副司令官で男爵家出身のカミル=ロシュ様。


 私の結婚話がこれまでまとまらなかったのは、リゼットの存在が大きかった。


 妹が「お姉様がいなくなったらどうして生きていけばいいの……」と泣くたびに、父は私の婚約話を断ってきたのだ。


(……知らないわよ、そんなこと)


 心の中では何度も悪態をついた。けれど、私は家族に逆らうことはできなかった。


「ごめんなさい……」


 また謝るリゼットに、私は微笑みを浮かべる。


「いいのよ、リゼット」


 本心を押し隠し、私は形だけの姉を演じ続けた。


 そして迎えた、顔合わせの日。


 ヴェイル様は、無表情に近い顔で、だが礼儀正しく私に接してくれた。


 一方、カミル様は明らかに戸惑っていた。なにしろ、リゼットは最初からヴェイル様にばかり甘えていたのだから。


(いやいやいや、あなたの相手はカミル様でしょう……!)


 思わず額を押さえたくなったが、誰も彼も見て見ぬふりを決め込んでいる。


 ヴェイル様は黙ってリゼットを抱き上げ、庭園を散歩しはじめた。もちろん、普通なら使用人か、せめてカミル様がするべき役目だった。


 隣に立つカミル様は、困ったように私を見た。


「カミル様」


「……はい?」


「よろしければ、あなたのお仕事について少しお聞かせ願えませんか?」


「お仕事……ですか?」


「ええ。こんな機会でもなければ、騎士団の日常など知ることはできませんもの」


 ちらりと、リゼットを抱えたヴェイル様に目をやる。


「話題がある方が、お互い気が紛れるでしょう?」


「……なるほど、確かに」


 そう頷き、カミル様はぎこちなく笑った。


 見合いの初日は、こうして奇妙な空気の中、静かに幕を閉じたのだった。


 数日後、二度目の顔合わせが行われた。


 今回はリゼットの体調を考慮し、郊外の別荘地でのピクニックだ。移動は馬車。到着してからも、リゼットはヴェイル様に抱き上げられ、まるで宝物のように扱われていた。


 いや、むしろ"過剰"とすら言いたくなるほどだった。


「ここでしばらく休んでいてください。リゼット様」


「はい、ヴェイル様……」


 ヴェイル様はリゼットを大事そうにベッドへ寝かせると、カミル様に声をかけた。


「では、俺たちは狩りに行こうか」


 そう言ってカミル様の肩を叩く。カミル様はちらりと私に視線を向けたが、私は微笑んで頷き返した。


「お気をつけて」


「……はい、行ってきます」


 どこか釈然としない表情を浮かべながらも、カミル様はヴェイル様に従い、森へと消えていった。


 残されたのは私とリゼット。


 ただ、リゼットはすぐに目を伏せた。弱々しいふりをしながら、心の奥でどんな感情を抱えているのか、私はよく知っている。


「リゼット、体調はどう?」


「……大丈夫」


「そう。なら、少し眠った方がいいわ」


 促すと、リゼットは渋々と目を閉じた。寝顔を確認した私は、彼女のそばを離れ、広場の端で小石を蹴った。


(……これでいい。これで、いいのよ)


 リゼットはヴェイル様に夢中だ。私に対する執着心は、徐々に薄れていくはずだった。


 そんな中、森の奥からヴェイル様たちが戻ってくる気配を感じた。


「リゼットは?」


「寝ています」


 私の答えに、ヴェイル様は満足げに微笑む。


「なら、よかった」


 その笑みは、どこか常軌を逸したものに見えた。


 カミル様は、何かを察したように微妙な表情を浮かべている。私と目が合うと、すぐに目を逸らした。


 気まずい沈黙が流れた。


「ヴェイル様。リゼットが起きるまで、少しお話でもいかがでしょう?」


 私が切り出すと、ヴェイル様は興味なさげに頷いた。


「そうだね。カミル、君も座れ」


「はい……」


 私たちは簡易テーブルを囲み、世間話を始めた。話題は当たり障りのないものばかりだったが、カミル様はどこか上の空だった。


 やがて、リゼットが目を覚ます。


 彼女が起きると、ヴェイル様はすぐに傍へ駆け寄り、その手を取った。


 私はその様子を、静かに見守る。


(――これでいい)


 そう思ったのに。


「クラリス様」


 隣にいたカミル様が、小さく私に囁きかけた。


「……あなたは、それでいいんですか?」


「なにが、でしょう?」


「本当に……それで」


 言いかけて、彼は口をつぐんだ。


 私は微笑む。


「大丈夫です。すべて、私の望んだことですから」


 小さく、聞こえるか聞こえないかという声でそう告げた。


 この場にいる誰も、私の本当の気持ちなんて、知るはずがないのだから。


 顔合わせを重ねるたび、周囲は既成事実のように私たち二組を扱うようになった。


 ヴェイル様とリゼット。

 カミル様と私。


 すでに婚約者同士であるかのような空気の中、形式だけの最終確認が行われる日がやってきた。


「改めて、双方の意思を問う」


 仲介役である王妃陛下の姉君が、優雅に宣言する。


 当然、断れる雰囲気ではない。リゼットはヴェイル様の腕にしがみつき、うっとりとした表情を浮かべている。


 私が断る理由も、もはやない。


「異議ありません」


 私は静かにそう答えた。


 そして、カミル様もまた、短く頷いた。


「……異議はありません」


 これで、私たちの婚約は正式に決まった。


 式典の後、別室に通され、家族だけのささやかな祝宴が開かれた。


 食事を終えたあと、リゼットがふいに私に近づいてくる。


「お姉様……本当に、ごめんなさい」


「気にしないで」


 心にもない言葉を、私は平然と口にする。


 だが、リゼットはなおも続けた。


「私、本当は……お姉様の隣にいたかったの。でも、ヴェイル様が……」


「……わかってるわ」


 リゼットは、泣きそうな顔をしていた。


 それを見た瞬間、私はようやく心の奥底で、冷たく決意する。


(これが、私の答え)


 もう、私は二度と、妹に振り回される人生を送らない。


 この婚約を機に、私は私自身の人生を歩くのだ。


「リゼット、あなたはヴェイル様と幸せになって」


「……はい」


 リゼットは頷いたが、その表情はどこか不安げだった。


 その夜。


 誰もいない別室で、私はこっそりカミル様と向き合った。


「カミル様」


「はい……クラリス様」


「これから、よろしくお願いいたしますね」


「……こちらこそ」


 カミル様は、どこか硬い表情をしている。


「そんなに緊張なさらないで。私は、あなたに不満などありません」


「それは……光栄ですが」


「ええ。それに、私はあなたとなら、穏やかな人生を送れる気がしますから」


 少しだけ、カミル様の頬が赤くなった。


 不器用な人。でも、誠実な人。

 派手なものは何もないけれど、堅実に生きてきたのだろう。


 私には、そういう人が必要だった。


「クラリス様は……本当に、これでいいのですか?」


 ためらいがちに問うカミル様に、私は柔らかく微笑んだ。


「ええ。私はあなたと、幸せになりますわ」


 それだけを告げた。


 それで、十分だった。


 結婚式は、控えめながらも格式ある形で執り行われた。


 リゼットは、ヴェイル様に抱きかかえられるようにして式に臨み、私はカミル様と並んで誓いの言葉を交わした。


 すべては滞りなく進んだ。


 式後、すぐに私たちはそれぞれの新居へと向かうことになった。

 私はカミル様と共に、割り当てられた小領地へ。


 リゼットは――ヴェイル様と共に、公爵家の別邸へ。


 別れ際、リゼットが私にすがりついた。


「お姉様……行かないで……」


「大丈夫よ、リゼット」


 私は彼女の手をそっと外した。


「これからは、ヴェイル様があなたを支えてくださるわ」


「違うの……違うの!」


 リゼットは必死に何かを訴えようとしたが、ヴェイル様に優しく抱き寄せられ、その声はかき消された。


 ヴェイル様の表情は、あまりにも穏やかで――それが、かえって恐ろしかった。


「リゼットを必ず、幸せにします」


 ヴェイル様はそう言った。


 その言葉に、誰も疑いを抱かなかった。


 私だけが、ほんの少しだけ、心に冷たいものを覚えた。


 新居に向かう馬車の中で、カミル様がそっと尋ねる。


「……あれでよかったのですか?」


「ええ」


 私は頷いた。


「これで、私はようやく、私の人生を生きられる」


 窓の外には、まぶしいほどに広がる新しい世界。


 誰にも縛られない、私だけの未来。


 それを掴み取ったのだと、私は自分に言い聞かせた。


 けれど、耳の奥ではまだ、リゼットの泣き声がかすかに響いていた。


 カミル様との新生活は、穏やかなものだった。


 領地は広くはないが、豊かな畑と小さな村を抱えている。特産品となる果実もあり、うまくいけば、今後発展させていくこともできるだろう。


 私は思った以上に、この場所が気に入った。


「クラリス様、これ、今朝届いた村人たちからの贈り物です」


 カミル様が抱えてきたのは、色とりどりの果実のかごだった。


 私は微笑んで受け取る。


「まあ、嬉しいわ。ありがたいことね」


「……皆、あなたのことをすぐに好きになったみたいです」


「そんな、大げさな」


 笑いながら、私はかごからひとつ果実を取り上げた。


 かじれば、じゅわりと甘酸っぱい香りが広がる。


「美味しい」


「でしょう? ここの特産なんです」


 誇らしげに語るカミル様を見て、私はふと思う。


(この人となら、本当に、穏やかで幸せな日々が送れるかもしれない)


 最初はただ、逃げ出すためだけに望んだ結婚だった。けれど、今は少しずつ、違う感情が芽生えている気がした。


 カミル様は派手な言葉を口にしない。けれど、行動で示してくれる。


 朝の散歩に付き合ってくれたり、私の好きな花を探してきてくれたり。小さな優しさの積み重ねが、胸に温かい灯をともしていった。


 そんなある日。


「クラリス様、よろしければ、明日の朝市に一緒に行きませんか?」


「朝市?」


「はい。村の人たちが集まる小さな市です。特別なものはありませんが……賑やかで楽しいですよ」


 私は少し考え、頷いた。


「ええ、行きましょう」


 カミル様が、ぱっと顔を明るくした。


 その表情を見て、私は胸がふわりと熱くなる。


(きっと、私はこの人と幸せになる)


 あの日、あの場所で、すべてを振り切った私の選択は、間違っていなかった。


 少なくとも、今はそう信じている。


 朝、まだ日が昇りきらないうちから、私はカミル様と共に村へ向かった。


 空気はひんやりと澄んでいて、草花から立ち上る朝露の香りが心地よい。


「寒くないですか?」


「ええ、大丈夫」


 心配そうなカミル様に微笑み返す。


 村の中心に設けられた広場には、すでにいくつもの露店が並んでいた。果実、野菜、手作りの布地や陶器。どれも素朴で、けれど温かみを感じさせるものばかりだった。


「クラリス様、あちらに新しい織物が入ったようです」


「まあ、見に行ってもいいかしら?」


「もちろんです」


 手を引かれるようにして、私はカミル様についていった。


 織物の店には、色鮮やかなストールやスカーフが並んでいる。村の織り手たちが丹精込めて作った品だという。


「これなんて、クラリス様に似合いそうですね」


 カミル様が差し出したのは、薄いラベンダー色のストールだった。


「……ありがとう」


 照れ臭くなりながら、それを受け取る。


 気づけば、周囲の村人たちがこちらをちらちらと見て、にこにこと笑っていた。


「領主様と奥様、お似合いだねぇ」


「うんうん。若いっていいねえ」


 そんな囁きが耳に届く。


 私は思わず頬を染めた。


 こんな風に、誰かに祝福される自分がいるなんて、以前の私には想像もできなかった。


 リゼットの隣で、ただ"いい姉"を演じるだけだった頃。


 自分の人生を生きるなんて、許されないことだと、どこかで諦めていた。


 でも、今は違う。


 私はここで、私だけの物語を紡いでいく。


「クラリス様、これも……」


「まあ、そんなにたくさん買ってしまって大丈夫?」


「ええ。村の皆さんの励みにもなりますし、私もあなたに喜んでほしいですから」


 不器用に笑うカミル様の手には、すでにいくつもの包みが抱えられていた。


 ふふ、と小さく笑いながら、私は彼に近づいた。


「ありがとう、カミル」


「っ……!」


 呼び捨てにされたことがよほど嬉しかったのか、カミル様は耳まで真っ赤になっている。


 そんな彼の様子を見て、私は心から思った。


 ああ、本当に――この人と出会えてよかった。


 そんな穏やかな日々が続いていたある日のことだった。


 一通の手紙が、私たちのもとに届いた。


「クラリス様、王都から急ぎの書簡が」


「王都?」


 珍しいこともあるものだと、私は封蝋を割った。


 そこに記されていたのは、ソレイユ子爵家、つまり私の実家からの連絡だった。


 内容は簡潔だった。


『リゼットの体調が思わしくない。至急帰郷を願う』


 それを読んだ瞬間、心の中に冷たいものが広がった。


 あれほど、もう二度と関わらないと決めたはずなのに。


 それでも、妹の名を見れば、動揺せずにはいられない。


「……クラリス様?」


 心配そうに見つめるカミル様の声で、私は我に返った。


「リゼットが、倒れたみたい」


「……行きますか?」


 カミル様の問いに、私はほんの少しだけ、迷った。


 だが、答えは決まっている。


「ええ。行かなくては」


 たとえ、心のどこかでわかっていても。


 これは、また何か面倒なことに巻き込まれる予感だとしても。


 私は、リゼットの姉だから。


 出発の支度を整えながら、私はカミル様に問いかけた。


「カミル、無理に付き合わせてごめんなさい」


「そんなこと、言わないでください」


 カミル様はきっぱりと言った。


「あなたが行くなら、私はどこへだってついていきます」


 その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられる。


(本当に、いい人ね)


 私にはもったいないくらいの、優しすぎる人。


「ありがとう」


 小さくつぶやき、私は荷馬車に乗り込んだ。


 王都へ向かう道は、どこまでも真っ直ぐに伸びている。


 その先に待つものが、たとえどんな結末であったとしても。


 久しぶりに戻った実家は、かつてとはまるで違う空気を纏っていた。


 重苦しい沈黙と、どこか怯えたような使用人たちの視線。


 私は不安を押し隠して、リゼットの部屋へと向かう。


 扉を開けると、そこには――


「お姉様……」


 ベッドに横たわるリゼットの姿があった。


 顔色はひどく悪く、まるで別人のようにやつれている。


「リゼット……!」


 思わず駆け寄る。


 だが、その腕をそっと押しとどめたのは、ヴェイル様だった。


「驚かせてしまって、すまない。リゼットは、少し情緒が不安定でね」


 そう言いながら、彼はリゼットの細い肩を優しく撫でた。


 リゼットは震えていた。


 ただの病気ではない。

 何かが、壊れてしまっている。


 私はすぐに察した。


「リゼット……何があったの?」


 問いかける私に、リゼットは弱々しく手を伸ばした。


 けれど、その手はヴェイル様に包み込まれ、引き戻される。


「リゼットには、私がついている。だから心配はいらないよ、クラリス嬢」


 ヴェイル様の声は、どこまでも優しく、甘い。


 けれど、私はその奥にある冷たいものを感じ取っていた。


「……そう、ですか」


 無理に微笑み、私は一歩下がった。


 後ろではカミル様が、じっと事態を見守っている。


「リゼットは……もう、以前とは違う」


 ヴェイル様の言葉が、鋭く突き刺さる。


「これが、彼女の望んだ未来だ。そうでしょう?」


 リゼットは、答えなかった。


 ただ、かすかに震える唇を噛み締めていた。


「……わかりました」


 私は静かに頭を下げた。


 もう、手出しはできない。


 リゼットは、彼のものなのだ。


 どんなに哀れでも、どんなに痛ましくても。


 私は、もう、リゼットを助ける立場にはいない。


「帰りましょう」


 カミル様にそう告げて、私は部屋を後にした。


 背後で、リゼットのすすり泣く声が聞こえた気がしたけれど、振り返ることはしなかった。


 帰り道、カミル様はずっと無言だった。


 私もまた、口を開かなかった。


 馬車の中に流れる沈黙は、決して心地よいものではない。けれど、それを破る気にもなれなかった。


 窓の外を流れる風景を眺めながら、私は思う。


(これでよかったのよ)


 リゼットを手放した。

 もう、あの妹のために涙を流すことも、心を痛めることもない。


 代わりに私は、自分のために生きる。


 カミル様と、共に。


「クラリス様」


 ふいに、カミル様が口を開いた。


「……本当に、よかったんですか?」


 私は少しだけ笑った。


「よかったかどうかなんて、誰にもわからないわ」


「でも、あなたは……悲しそうに見えました」


 優しい言葉に、胸がじんと熱くなる。


「そうね。少しだけ、悲しかったかもしれないわ」


 それは、あの日々への哀悼だ。


 誰よりも大切にしていた、妹との絆。


 それが、こんな形で終わってしまったことへの、かすかな痛み。


 でも、それはもう、過去の話。


「もう振り返らないわ。前を向くの」


「……はい」


 カミル様は、ぎゅっと私の手を握った。


 その温もりが、ひどく心強かった。


「ありがとう、カミル」


「いえ……私は、あなたの隣にいたいだけですから」


 不器用な言葉だけれど、私はそれがとても嬉しかった。


 リゼットのいない未来。


 私たちだけの、静かで穏やかな未来。


 それを、守っていくのだと、私は心に誓った。


 たとえ、どんな嵐が訪れたとしても。


 季節は、春へと移り変わった。


 村の畑には新しい芽が顔を出し、川沿いには小さな花が咲き誇っている。


 領地の生活にもすっかり慣れ、私はようやく本当の意味で、ここが自分の居場所だと思えるようになっていた。


「クラリス、少し休もう」


 畑仕事を手伝っていた私に、カミルが声をかける。


「うん、ありがとう」


 日陰に置かれた椅子に腰掛けると、カミルが水差しを手渡してくれた。


 こうして、さりげなく気遣ってくれるところが、本当に好きだ。


 私たちは並んで座り、しばらく無言で空を見上げた。


「平和だな」


「ええ、本当に」


 王都で過ごしていた頃には考えられなかった静かな日々。誰にも邪魔されない時間。

 それがどれほど贅沢なものか、今は身に染みてわかる。


 ふと、カミルがこちらを見つめた。


「……クラリス」


「なあに?」


「……もし、君が望むなら……子どもを迎える準備を始めてもいいと思ってる」


 少し照れたように、でも真剣な眼差しで言う。


 胸が、熱くなった。


 私たちの未来を、もっと広げようとしてくれている。


「うん。私も、そう思っていたところ」


「……本当に?」


「ええ。本当に」


 ふっとカミルの表情が緩み、そして私の手をそっと握る。


 あの日、すべてを捨てて選んだ道。

 後悔は、ひとつもない。


「これからも、あなたと一緒に、歩んでいきたい」


「もちろんだ。ずっと、君と共に」


 交わした言葉は、指輪の誓いよりも、ずっと確かだった。


 春の風が、二人の間を優しく通り抜ける。


 私たちの物語は、これからだ。


 ゆっくりと、けれど確実に、幸せを紡いでいく。




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― 新着の感想 ―
うん、めっちゃ良かった……ってまず呟いちゃった。クラリスの静かな強さが、読んでるうち、気づいたら応援してた。言葉少なめなのに、感情はちゃんと伝わってくる。こういう話、すごく好き。
同じ流れで細部が違う話を少し前に読んだのですが、改稿されたのでしょうか?細部が違うというかこの話だと省略されているところが描写されているというか。
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