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23:幸せのゆりかご


 いつも通りの朝の風景。変わらない日常の一コマ。そのはずだったのに、あれから数日経った今朝の空気はいつもより砂糖を多めに含んでいるものだったらしい。


「おはよう、橙」

「はよ。昨日病院行ってきたんだろ? どうだった?」


 タイミングよく空いた席に並んで座りながら、俺は千蔵の耳の調子を尋ねる。万が一にも悪化するようなことにはならず、ストレスを取り除く生活を心がけ始めたからか、着実に聴力は戻ってきていると聞いていた。


「順調に良くなってきてるって。橙の声もよく聞こえるよ」

「ッ……!」


 後半はわざと耳元で囁いてきた男のせいで、俺は隣に座っていたサラリーマンにぶつかってしまい、謝罪をしてから千蔵の方へと身を寄せる。


「ったく、すっかり調子取り戻しやがって。もう少し殊勝な態度でいても良かったんだぞ?」

「オレはいつでも殊勝でしょ」

「泣きべそかいてたクセによ」

「泣きべそはさすがに誇張じゃない?」


 軽いやり取りを繰り返す合間も、俺を見る千蔵の瞳が以前にも増して甘ったるく感じるのは、多分気のせいではない。心なしか距離だって近いのだから。教室に到着した千蔵は早速女子に話しかけられているのだが、左側からの急な声かけにはまだ反応しきれないことを知っている。


「千蔵くん、今日高橋くんが欠席だから日直変わってほしいんだけど大丈夫かな?」

「え……っと」


 やはり聞き取れなかったらしい千蔵は、僅かに困った様子でちらりと俺の方へ視線を向けてくる。


――――今日、日直。


 日直なんて手話を知るはずもないので、黒板に書かれた日直の方を指差したりと簡単なジェスチャーで伝えてやる。それでも内容を理解したらしい千蔵は、女子に向かって「大丈夫だよ」と返していた。


 小さなことでも役立てるのは嬉しい。いずれ千蔵の耳が回復したら必要なくなるものなのだろうが、俺はさらなる学びのために電子サイトで手話に関する本を購入していた。


(どんな手話覚えたらびっくりさせられっかな……あ)


 スマホでページを捲りながら思考を巡らせていた俺は、廊下の向こうに今しがた登校してきたらしい紫乃の姿を見つける。


「紫乃……!」


 教室を抜け出して声をかけると、少しだけ怪訝な顔をされるが彼女は立ち止まって俺に向き直ってくれる。


「紫稀の件、上手くやってくれたみたいね」

「ああ……一応、甘えさせることはできた……ハズ」


 俺が切り出す前にそう話し出す紫乃は、やはり俺たちの状況をある程度把握しているのだろう。それに彼女がそう感じているということは、家の中での千蔵にも変化があったのかもしれない。


「力を貸してくれてありがとう」

「……おう。こっちこそ、色々教えてくれたり、ありがとな」


 少しだけ微笑んでくれた彼女は、やはり顔立ちが千蔵と似ているだけあって美人なのがわかる。自分の教室へ戻る紫乃を見送ってから俺も引き返そうと振り返ると、すぐ後ろに立っていた人物にぶつかってしまった。


「うわっ!? 悪い……って、千蔵?」


 まさかこんな近くにいるとは思っていなかったのだが、千蔵はなんだか面白くなさそうな顔をしているように見える。


「紫乃となに話してたの?」

「え、なにって……おまえの話?」


 別に嘘は言っていないというのに、「フーン?」と俺を見る千蔵はもの言いたげな様子だ。


「な、なんだよ……?」

「いつの間にそんなに仲良くなったの?」

「仲良くってほどじゃ……」


 千蔵の考えていることがわからず、俺がどうしたものかと考えていると、不意に千蔵が耳元に顔を寄せてくる。


「……今日、橙の家に行ってもいい?」

「え……? いいけど……」


 突然どうしたのかと視線で問いかけるが、約束を取り付けた千蔵は満足そうに教室へと引き返してしまった。


(あ、きなこに会いに来んのか)


 勉強場所探し以外の目的でアイツがうちに来ることがあるとすれば、それが理由かと納得する。放課後になると千蔵と共にまっすぐに俺の家へと向かう。電車の中でも道中でも他愛のない話をしていたはずなのだが、千蔵に変化が現れたのは家に着いた時だ。


「お邪魔します」

「ニャオン」


 声に反応して千蔵を出迎えに現れたきなこは、久々に構ってもらえるのだと期待の眼差しで客人を見上げている。しかし千蔵はニコリとしてきなこをひと撫ですると、そのまま猫に構わず俺の部屋へと移動してしまった。


(え、なんだ……? なんか怒ってる……?)


 そんな風には見えなかったのだが、取り残されたきなこの頭を申し訳程度に撫でてから、俺も千蔵の後を追いかける。部屋に入った途端、他者の侵入を拒むみたいに扉が閉められる。その扉を背に何故だか千蔵の両腕の間で逃げ場を失った俺は、見たことのない男の顔に戸惑いつつ恐る恐る名を呼んでみる。


「ち、千蔵……?」

「文化祭の時から気になってたんだ。名前で呼んでるよね?」

「え……?」


 問いの意味がわからなくて必死に思考を巡らせていくと、辿り着いたのは今朝の紫乃とのやり取りだ。会話を終えた直後に後ろに立っていた千蔵には、会話の内容までは把握できなくとも、おそらくその一部は聞こえていたのだろう。


「いや、だって、どっちも千蔵だしわかりづらいって……」

「オレは恋人なのに、苗字で呼んでる」


 怒っている、というよりも拗ねているという形容の方が適切に思える千蔵の反応に、俺の頭が大混乱する。


(え……えっ、え? もしかして……)


「おまえ……妬いてんのか?」


 だって、まさか、妹に? 頼れる兄でいたいなんて話していたコイツが、嫉妬してるのか?


「……めちゃくちゃ妬いてるよ」


 不服そうに肯定した千蔵が頬にキスしてきたかと思うと、こめかみや鼻先にも次々と唇が落ちてきて、俺の気持ちが追い付かない。


「ちょっ……ち、千蔵……っン」


 苗字で呼んだことが気に食わなかったのか、今度は唇を塞がれてしまう。それだけではなく、閉じた唇の隙間を濡れた感触がなぞっていく。驚いて開いた口の中に熱が潜り込んできて、それが千蔵の舌なんだと認識したのは小さな硬い感触があったから。


「んっ……ぅ……!」


 控えめに響く水音が隙間からこぼれて、俺は呼吸の仕方もわからないまま千蔵の舌に翻弄される。こんな深い口付けは知らないのに、口の中にピアスが当たる度に全身がぞわぞわするのを感じた。


「ッ……ん、……し、き……っ」


 キスの合間に息も絶え絶えになりながら、俺はどうにか下の名前で呼ぶ。ようやく唇が離れていく。腰に回された腕に力の抜けた身体を支えられながら、未だ吐息の触れる距離にある千蔵の瞳が甘くとろけているのが見えた。


「……真宙(まひろ)


 そんなに砂糖をまぶしたら胸焼けしちまう。そう感じるくらいの甘い声が、俺の名前を口にする。


「大好き。真宙、もう逃がさないから」


 首元に腕を回して触れるだけのキスをすると、千蔵――紫稀から倍のキスが返ってくる。


「……逃げるつもりねえよ。俺にとっての猫ちぐらはここなんだから」


 幸せに満たされすぎた空間で、俺にだけ向けられる紫稀の独占欲が心地良い。触れた箇所から伝わってくる自分のものではない体温に、隣にいることを諦めなくて良かったと心の底から実感する。


「そういやおまえ、褒美ってなに欲しかったんだよ?」

「……え、もしかしてまだ試験の時の話してる?」

「だって結局聞けてねえだろ」


 引きずり続けていると思われるかもしれないが、ずっとはぐらかされてきたのだから、いい加減教えてくれてもいいだろう。


「いいよ、教えてあげる」


 甘やかしたくてたまらない。そんな顔をして、紫稀はもう何度目かもわからないキスを落とす。


「オレが欲しいのは、ずっと真宙だよ」


 どんな場所よりも安心できる腕の中に閉じ込められて、俺はゆっくりと瞼を伏せる。


(そんなの……とっくに全部、おまえのモンだ)



 こんなにも呼吸のしやすい場所があるなんて、あの頃の俺は……俺たちは知らなかった。知らずに過ごすところだった。


 互いというゆりかごの中で、俺たちはようやく安心できる居場所を見つけたんだ。


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