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01:意外な顔

 途端に世界が色づいた、なんてことはなかったけれど。


 あの瞬間から俺は、少しだけ呼吸がしやすくなったんだ。




「か~ぶちっ、何聴いてんの!」

「うわっ!?」


 教室の後ろで気を抜いていた俺は、装着していたヘッドホンを奪い取られて声を上げる。


「あれ、音出てねーじゃん」

「今終わったトコだったんだよ、返せ!」

「あー、もしかして! 金髪頭の(かぶち) 真宙(まひろ)がエロいの聴いてま~す」

「塚本シメるからちょっとそこに立て」


 高校入学から約二か月。最初にできた友人で何かとつるむ機会の多い塚本は、度々俺をからかいにやってくる。やましいものなんて聴いてない。というか、その質問に対する答えを俺は持ち合わせていない。塚本から取り返したヘッドホンは、基本的に音を流すことはないからだ。


(別に、勝手に納得してくれんならそれでいいんだけど)


 ただこれ以上この場で騒がれるのも迷惑なので、俺は帰り支度を始めることにする。


千蔵(ちくら)くん! 先生が職員室まで来てほしいって」


 ふと、耳に届いた女子の声に視線がそちらへと向く。正確には彼女の口にした名前に反応してしまったのだが。


「ああ、わかった。知らせてくれてありがとう」

「ううん、役に立てて良かった!」


 愛想良く微笑む男を前に白い頬を色づかせた彼女は、教室の後ろで待つ友人たちのもとへと駆け出していく。


王子(・・)、やっぱ今日もかっこよかったねー!」

「顔面が国宝級すぎ。尊い。一生推せる」

「わたし喋っちゃったけど、今年の運使い果たしたかも」


 黄色に近い悲鳴と共に興奮気味の会話を交わす彼女たちは、何度か王子――千蔵紫稀(しき)を振り返りながら姿を消していった。


「ツラのイイやつはいいよなあ、笑っただけであんな騒がれんの」


 不満そうな塚本の呟きは、おそらくクラスの男子の総意に近いものがあるだろう。同じクラスの千蔵という男は、同性から見てもとにかく顔がいい。穏やかな物腰も相まって王子というあだ名で親しまれている。ハーフアップの黒髪に右の目元にある泣きボクロがまた色っぽいだとか、女子が話しているのを聞いたことがあった。


「そうかあ? 俺は別に騒がれたいと思わねーけど」

「おいおい、負け惜しみはよせって橙クンよぉ。おまえもコッチ側の男なんだからさ」

「ただの事実だっての。さっさと帰るぞ」


 もの言いたげな塚本を無視して鞄を持つと、俺は廊下へ向かって歩き出す。


(……?)


 一瞬千蔵と目が合った気がしたけれど、おそらく勘違いだろう。同じクラスにいたってタイプが違いすぎて、言葉を交わしたことすらないのだから。





(……ミスった)


 帰りの電車内は中途半端に混み合っていて、吊り革を握った俺は不規則な揺れに身を任せている。最寄り駅まで約一時間。本来ならもっと近場に通える高校があったのだが、この距離を選んだのは俺自身だ。塚本が帰り際にカラオケに行こうなどと言い出さなければ、空いた電車で帰ることができたのに。


(結局付き合う俺も悪いんだけど。あいつの音痴はもうちょっとどうにか……)

「おい」


 十数分前の出来事を思い返していた時、向けられた声に気がついて俺は隣を見る。分厚い眼鏡をかけたスーツ姿の中年男性が、眉間に深い皺を刻みながら自分の耳元を指でトントンと叩いて示していた。


「音漏れしてるぞ」

「え……いや、音出してないスけど」


 あくまで装着しているだけの機械はなんの音も流してはいない。だから音漏れなどしようはずもないというのに、俺に反論されたことが面白くなかったのか目の前の男はますます不快そうに声を荒げる。


「言い訳はいい。公共のマナーも守れないくせに口先だけは一丁前か!」

「いや、だから出してねえって……ッ」


 事実を証明して見せようとヘッドホンを外したところで、俺は周囲から向けられている視線に気がつく。途端に喉に蓋をされたみたいに言葉が詰まってしまい、冷たくなる指先にじんとした痺れを覚える。


(あ、ヤバイ……)


 慌ててヘッドホンを元に戻すが、意識をしてしまった今ではそんなものは意味を成さない。ドクドクと脈打つ心臓の音がいっそ遮ってくれたらと思う男の声は、どうしてだかヘッドホン越しにも鮮明に聞き取れてしまう。


「そのバカみたいな色の頭じゃ、他人の迷惑も考えられないか!」


 男が騒ぐほどに何事かとこちらに向けられる視線の数は増えていき、俺の額に冷や汗が滲んでいくのがわかる。


(どうしよ、息の吸い方わかんね……っ)


 唇が震える。次の駅にはまだ着かないのか。この場でしゃがみ込んだら余計に注目を浴びてしまうだけなのに。

 ぐるぐると回転する思考の中で必死に打開策を探し出そうとしていた俺は、不意に暗転した視界に呼吸が止まりかける。


「っ、え……?」

「このヘッドホン、本当に音は出してないですよ」


 次いで耳元の圧迫感が消えたかと思うと、すぐ近くから覚えのある声が聞こえてくる。混乱する頭で顔を上げた先にあったのは、至近距離でも驚くほどに整った千蔵紫稀の顔だった。ああ、コイツのデカい手が後ろから俺の顔面を掴んで引き寄せたのか、なんてどこか他人事の思考。


「そっ、そんなわけがないだろう……!?」

「なら聞いてみてくださいよ、ほら」

「しっ、知るか知るか知るかっ!!」


 あくまで穏やかな笑顔でヘッドホンを差し出す千蔵に対し、男はようやく自分の勘違いに気づいたらしいが、己の非を認めようとはしない。電車が駅に到着したかと思うと、男は転がるみたいな慌てぶりでホームへと姿を消していった。


「あーあ、行っちゃった」

「え……っと、千蔵……?」

「オレたちも一旦降りようか」


 未だ混乱状態の俺を背後から抱き締めたままだった千蔵によって、自然な動作で電車の外へと連れ出されていく。ホームの隅に設置されたベンチに腰掛けると、千蔵は自販機で買ってきたお茶の缶を差し出してきた。


「……どーも」

「ふふ、災難だったね」


 笑いながら隣に座る千蔵の手には、コーヒーの缶が握られている。こいつもここで休憩していくつもりなのか。貰った缶のプルタブを起こして口をつけると、胃に流れ込む温かさに少しずつ落ち着きを取り戻していく。


「あのおじさん、たまに出没する有名人だよ」

「そうなのか?」

「知らない? 音漏れ警察とか呼ばれてるの」

「知らねえ……つーか、よく声掛けたな」

「ん?」

「ああいう時、普通は見て見ぬふりすんだろ」


 一般的にはトラブルに関わりたくない人間の方が多いと思うのだが、さすがは王子といったところなのだろうか。


「橙がすごい顔してたから」


 自分はそんなにひどい顔をしていただろうか。言葉を発する余裕もなかったのだから、どんな顔をしていたかなんて覚えているはずもない。


「……なら、スゲー顔しといて良かった。助かったし」


 現状の素直な気持ちではあるのだが、それを聞いた千蔵は意表を突かれたみたいな顔をした後に数度瞬きを繰り返す。


「っはは、なんだそれ……!」

「……!?」


 珍しく大きな口を開けて笑った千蔵の表情に、俺の心臓がドキリと跳ねたのがわかる。いや、正確にはその表情に対しての反応ではなかったのかもしれない。なぜなら、優等生で王子の千蔵紫稀という男にはあまりにも似つかわしくないものが、俺の視界に飛び込んできたからだ。千蔵の舌の上に見えた、小さくて異質な存在。


(し、舌ピ……!?)

「……あ、バレちゃった?」


 そう言って口角を持ち上げた千蔵の笑みは、またしても見たことのない悪い色をしていた。


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