第9章:山の賢者
車は薄暗い山道を進んでいた。ヘッドライトが闇を切り裂き、木々の影がまるで生き物のように揺れている。窓から吹き込む冷たい夜風には湿った土と枯葉の匂いが混じっていた。霧島は慎重にハンドルを操りながら、一瞬たりとも気を抜けない様子だった。
清六は後部座席で黙り込んでいた。この数時間で知った真実――自分が「試験管ベビー」であること、「とり天の遺伝子」を持つ存在であること。
そして、それら全てを守るために養父や椎葉彩乃が命を懸けているという現実。それら全てが彼の心に重くのしかかっていた。
***
「大丈夫?」
沙織は小さな声で尋ねた。その声には優しさと不安が混じっていた。彼女はまだ清六の手を握ったままで、その温もりだけが彼に少しだけ安心感を与えていた。
「うん…なんとか」
清六は弱々しく微笑んだ。その笑顔にはまだ迷いや戸惑いが残っている。
「一体どこまで行くんだ?」
霧島は運転しながら尋ねた。凪子はスマホの地図アプリを確認している。
「あと15分くらいかしら。かなり奥まった場所だわ。」
「本当にこんな山奥に食堂なんてあるのか?」
霧島は疑わしげな声で言った。その目には警戒心とわずかな期待が宿っているようだった。
「あるんだ。」
後部座席から清六が静かな声で言った。
「鳥栖博士が言っていた…FCT-0、宇佐美玲のいる場所だって。」
「彼女について、もう少し話してくれないか。」
霧島はバックミラー越しに清六を見る。その視線には警戒心と興味が交差しているようだった。
「私も知りたいわ。」
凪子も振り返りながら言った。その声には焦りと疑念が滲んでいる。
清六は一瞬黙った後、小さく息を吐いて答えた。
「鳥栖博士によれば、宇佐美玲も僕と同じ…『料理遺伝子人間』だそうだ。でも、それ以上詳しく聞く時間はなかったけど…」
清六は記憶を辿りながら、言葉を選ぶように口を開いた。
「彼女はFCTシリーズの最初の成功例で、僕より前に作られたんだって。でも、研究所の倫理違反に気づいて、15年前に脱出したらしい。」
「15年前…」
霧島は眉をひそめ、しばらく黙り込んだ。
「それはちょうど、プロジェクト・ガストロノミックマターが公式に中止された時期だな。」
「どうして中止になったの?」
沙織が不安そうに尋ねた。
「国際倫理委員会の調査があったからだ。」
霧島が説明する。
「人間の遺伝子操作に関する倫理違反の疑いがかけられた。GFOの前身組織も関与していた。」
「でも実際は…」
霧島は一瞬、言葉を切った。
「表向きは中止され、FCTシリーズの子供たちは一般社会に統合されることになった。……清六君のように。」
清六は窓の外の暗闇を見つめていた。自分もまた、その“闇”の一部なのかもしれない――そんな思いが胸をよぎった。
「でも本当は、別府理事長と由布厚生の密約によって、プロジェクトは秘密裏に継続されていたんだ。」
「そして今、彼らは『料理遺伝子人間』を使って何かを企んでいる…」
凪子は低く呟いた。その声には、かすかな震えが混じっていた。
「次の曲がり角を右だ。」
霧島が言うと、車はさらに細い山道へと進んだ。タイヤが砂利を踏む音だけが響き、両側には密集した木々が迫っていた。ヘッドライトが照らす範囲以外は真っ暗で、不気味な静けさが周囲に広がっている。
やがて木々の間から薄い明かりが見えてきた。
「あれかな?」
沙織が前方を指さした。小高い山の斜面に、小さな木造の建物が佇んでいる。古びた軒先には柔らかな光を放つ提灯が吊るされ、『天ぷら屋みれい』と筆で書かれた看板が風に揺れていた。
車は建物手前で停まり、四人は慎重に周囲を確認した。追手の気配はないようだった。
「本当にあったんだ…」
清六は驚きと安堵が入り混じった表情で呟いた。胸の奥で何か重いものが解けるような感覚を覚えた。この山奥に、自分と同じ『料理遺伝子人間』がいるという事実が、ようやく現実味を帯びてきた。
***
四人が建物に近づくと、入口の障子戸が音もなく開いた。一人の女性が現れる。短い黒髪と鋭い眼差しは闇夜でも際立ち、その存在感には圧倒されるものがあった。
シンプルな着物姿で立つ彼女は静かだが威厳に満ちており、その左手には火傷の跡が見えた。その傷跡は彼女自身の過去と、この場所の秘密を物語っているようだった。
霧島は警戒心から無意識に拳を握りしめた。凪子は驚いた表情で女性を見つめ、沙織は息を呑んだ。そして清六だけは彼女から目を逸らせず、その鋭い眼差しに吸い込まれるような感覚を覚えていた。
「あら、新しい子羊が迷い込んだわね」
女性は薄く笑いながらも、その瞳にはどこか試すような光が宿っていた。特に清六の顔に視線が集中する。清六は玲の視線に射抜かれるような感覚を覚え、思わず息を呑んだ。
「あなたが…FCT-0…」
清六が言葉を絞り出すと、玲は一瞬だけ目を細め、低い声で言った。
「その呼び方はやめて。ここでは宇佐美玲。ただの天ぷら職人よ」
その声には強さと、過去への距離を置くような冷たさがあった。
「ごめんなさい…玲さん」
清六は慌てて頭を下げた。
「まあいいわ」
玲は視線を他の三人に移す。
沙織は少し緊張しながらも、はっきりと名乗った。
「水谷沙織です。清六くんの友達です」
凪子は記者らしい観察眼で玲を見つめながら自己紹介した。
「春日凪子。食品ジャーナリストよ」
霧島は警戒を解かぬまま、短く名乗った。
「霧島剛。GFOの調査官だ」
「GFO?」
玲は少し警戒した様子で霧島を見た。
「世界食品監視機構だ。安心してくれ。私は君たちを保護するために来た」
霧島の声は落ち着いていたが、どこか緊張が滲んでいた。
「ふうん」
玲は半信半疑の表情を浮かべたが、やがて諦めたように肩をすくめた。
「まあいいわ。とにかく中に入りなさい。外は危険よ」
***
四人は「天ぷら屋みれい」の中に案内された。店内には揚げ油の香ばしい匂いがほのかに漂い、カウンターの奥からは油のはぜる小さな音が聞こえてくる。
内部は意外にも広く、清潔で落ち着いた空間だった。壁には大分の風景画が飾られ、窓からは満天の星空が見えた。
「座って」
玲はカウンター席を指さした。四人が腰を下ろすと、玲はカウンター越しに静かに天ぷら鍋に油を注いだ。油が鍋肌に触れると、かすかな音とともに香ばしい匂いが立ち上る。
「お腹が減ってるでしょ?何か作るわ」
その言葉に、誰も断る余裕はなかった。皆、この数時間の緊張と疲労で、空腹を感じていたことに気づく。
「玲さん…」
清六は緊張で喉が渇くのを感じながら、静かに呼びかけた。
「僕のことを知っているんですか?」
玲は油の温度を確認しながら、ちらりと清六を見た。
「ええ、ついに来たのね、私の弟分」
「弟分…」
清六は戸惑いとどこか安堵が入り混じった声を漏らす。
「同じ『とり天遺伝子』を持つ者同士、そう呼んでもいいでしょ?…なんて、ちょっとお姉さんぶってみたくなるのよ」
玲は野菜を衣につけ、油に滑らかに投入した。衣をまとった野菜が油に沈むと、ぱちぱちと小気味よい音が弾ける。その動きには無駄がなく、まるで踊りのように美しかった。
「あなたの名前は鳥栖博士から聞いていたわ。FCT-1、天野清六」
「博士とは…」
清六が問いかけると、玲は少しだけ懐かしそうに微笑んだ。
「時々連絡を取り合ってたの。彼は本当はいい人なのよ。…でも、時々、科学者としての好奇心が強すぎて、周りが見えなくなるの。私も何度か困らされたわ。」
玲の手さばきは無駄がなく、衣をまとった野菜や鶏肉が油に沈むたび、ぱちぱちと小気味よい音が弾けた。揚げ油の香ばしい匂いが食堂内にふわりと広がり、空気まで美味しく感じられる。
清六は玲の所作に見入った。同じ能力を持ちながら、玲はそれを恐れず、堂々と自分の意志で使いこなしている。その姿に、羨望と畏敬、そして自分へのもどかしさが入り混じった。
「でも、なぜ博士は僕たちを作ったんですか?」
「最初は純粋な動機だったのよ」
玲は一瞬だけ遠くを見るような目をした。
「大分の郷土料理、特に『とり天』の技術を永久に保存したい。失われゆく伝統を科学の力で救おうとした。それが彼の本心だったわ」
「でも、それが…」
「由布厚生と別府理事長によって歪められたのよ。彼らは『料理遺伝子人間』を使って、食品市場と政治を支配しようとしている」
玲はきれいに盛り付けた天ぷらの皿を四人の前にそっと置いた。黄金色に揚がった衣はサクサクと音を立て、湯気とともに食欲をそそる香りが立ち上る。
「食べて。安心して、これには変な効果はないから」
四人はありがたく天ぷらに手を伸ばした。一口食べた瞬間、清六は目を見開いた。驚くほど美味しい。だが、先日のフライドチキン店で感じたような頭痛や「活性化」の兆候はまったくなかった。純粋に料理の美味しさだけが、心と体に染み渡っていくのを感じた。
「どうやって…」
清六は驚きと戸惑いを隠せず、玲を見つめた。自分の手がわずかに震えているのに気づく。
「どうやって『活性化』に抵抗してるんですか?僕は…コントロールできなくて…」
玲は静かに微笑んだ。その瞳には、長い葛藤を乗り越えてきた者だけが持つ静かな強さが宿っていた。
「抵抗するんじゃない。受け入れるの。これも私自身だって」
彼女は調理スペースの奥から、もう一皿の天ぷらを持ってきた。
「さあ、食べてみて。同じ『とり天遺伝子』を持つ者同士、何が違うか分かるでしょ?」
清六は恐る恐る手を伸ばし、その天ぷらを口に入れた。口に入れた瞬間、衣の軽やかな食感とともに、複雑で奥深い旨味が広がる。先ほどの天ぷらとは明らかに違い、どこか懐かしさと新しさが同時に押し寄せてきた。
その味の奥に、玲の覚悟や生き方までもが込められているような気がした。しかし、やはり頭痛などの症状はなかった。
「どうすれば、あなたのようになれますか?」
「訓練よ。そして自分自身を受け入れること」
玲は一瞬だけ遠い目をしてから、油を切る手を止めた。
「私が最初に活性化した時、恐ろしかった。自分の体が勝手に動く感覚。でも、それは拒絶すればするほど強くなるの」
「受け入れる…」
「そう。これも私自身の一部なんだと」
玲の手さばきは見事だった。衣をつけ、油の温度を確かめ、完璧なタイミングで揚げる一連の動作が、まるで芸術のようだった。
清六は玲の一連の動作に目を奪われていた。自分もいつか、こんなふうに能力を受け入れ、自由に使いこなせるのだろうか――そんな思いが胸をよぎる。
「清六くん?」
沙織の声に、清六は我に返った。彼女は唇を尖らせ、ちらりと清六を睨んでいる。
「あ、ごめん…」
「もう、ずっと見とれてるじゃない…」
沙織の頬はほんのり赤く染まっていた。
そんな二人のやり取りを見て、凪子はクスリと笑った。
「まあまあ、プロの技を観察するのは勉強になるわよ」と場を和ませる。
沙織はさらに赤くなり、「そ、そうね…」と小さく呟いた。
玲はそんな様子を見て、静かに微笑んだ。その笑顔には、どこか家族のような温かさがあった。
「あなたたち、いい友達ね」
玲は清六の目をじっと見つめ、火傷の跡がある左手を無意識に握りしめた。
「大切にしなさい。私たちのような存在にとって、理解者とは…」
その声には、孤独な年月を生きてきた者の切実さが込められていた。
清六は沙織を見て、微かに頷いた。沙織が無意識に清六の袖を掴む指先に、温もりを感じる。
「ところで、由布と別府の計画について知ってるのか?」
霧島が真剣な表情で尋ねた。
「断片的にね」
玲は天ぷら鍋から離れ、カウンター越しに四人と向き合った。
「彼らは『国際食品フォーラム』で参加者の舌下粘膜に特殊ナノ粒子を仕込むの。FCT-2、九重千尋の料理を食べた者は、72時間以内に特定の企業への投資を支持するようプログラムされるわ」
「どうして彼女だけ?」
「完全に『活性化』された状態では、料理の催眠効果が300%増幅されるの。代わりに自我は…」
玲の言葉が途切れる。清六は料亭で見た千尋の無機質な瞳を思い出し、背筋が冷たくなる。
「彼女を救わなきゃ…」
拳を握りしめた掌に爪が食い込む。
「そう思うなら、まず己と向き合うことね」
玲の声が厳しく響く。
「明日から『活性化』と共存する方法を教える。あなたの才能を、獣ではなく武器にするのよ」
清六は深く息を吸い込んだ。
「お願いします」
その声には、初めて明確な決意が宿っていた。
廊下の窓からは満天の星空が見えた。部屋に向かう途中、清六はふと振り返った。
「玲さん、僕たちは…何のために生まれたんですか?」
玲は夜空を見上げ、長い沈黙の後で答えた。
「元々は文化を守るためよ。でも今は…」
窓ガラスに映る彼女の表情は、未だ答えを見出せない者の曇りを含んでいた。
山奥の食堂で聞いたその言葉は、清六の胸に重くも熱いものを残した。自分と同じ傷を背負いながら、なお立ち続ける玲の背中が、彼に初めて「希望」という名の影を落としていた。