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フライング・コード ~遺伝子の胎動~  作者: 地熱スープ
第二部:大分への旅と真実の片鱗
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第8章:試験管の子

料亭「鶏冠亭」の裏口へ向かう途中、清六はまだ混乱していた。頭の中では断片的な記憶が次々と浮かんでは消えていく。白い部屋、白衣の人々、そして幼い自分自身の泣き声。


それは冷たい金属のベッドに横たわる自分と、それを見下ろす無機質な視線――彼が生まれてから5歳までに失われていた記憶の欠片だった。


「清六くん、大丈夫?」


沙織は心配そうに清六を覗き込む。彼女の声には微かな震えがあった。


「うん…なんとか」


清六は戸惑いながら答えた。その言葉には自信が欠けている。


「博士の言っていたこと…すべて本当なんですね」


「ああ」


霧島は前を見たまま短く答えた。その表情には険しいものが浮かんでいる。


「GFOは3年前からこのプロジェクトを監視している。人間の遺伝子操作と、それを政治利用する計画は国際法違反だからな。」


「でも、僕が『とり天の遺伝子』を持っているなんて…」


清六は自分の手を見つめた。その手は微かに震えている。先ほど料理をした時、自分でも信じられないほど自然に動いた手。それが遺伝子操作によるものだと考えると、背筋が冷たくなる思いだった。


湿った空気と足元の砂利道が、不安定な彼らの心情を映し出しているようだった。


「すごい能力だよ」


沙織は清六を見つめながら優しく微笑んだ。


「私、清六くんの作ったとり天、食べてみたかったな。絶対おいしいに決まってる。」


彼女の言葉に、清六は微かに笑みを浮かべた。その笑みには少しだけ救われた気持ちが込められていた。どんな状況でも、沙織はいつも彼を支えてくれる。それが彼にとってどれほど大きな支えになっているか、言葉では表せないほどだった。


***


「出口だ」


霧島が前方を指した。暗闇の中、錆びた金属製の扉が不気味な音を立てて揺れている。安全を確認してから二人を呼んだ。


「大丈夫だ、付いて来い」


三人は裏口から細い路地へ出た。湿った空気と遠くで響く犬の鳴き声だけが静寂を破っている。その路地には凪子が緊張した面持ちで待っていた。三人を見るなり駆け寄り、大きく息を吐いた。

「無事で良かった!」

凪子は安堵の表情を見せながらも、その目にはまだ警戒心が残っているようだった。


「何があったの?店内が突然騒がしくなって…」


「別府理事長の部下たちが来た。おそらく我々を捕らえるためだろう。」


霧島は低い声で説明した。その言葉には冷静さと共に隠しきれない焦りが滲んでいた。


「奴らは武装していた。時間稼ぎはできたが、ここも長くは安全じゃない。車はどこだ?」


「この通りの先に停めてあるわ」


凪子が先導し、四人は急いで路地を進んだ。しかし、メインストリートに出る直前、霧島が全員を壁際に押さえつけた。


「待て。」


彼の声は低く緊迫していた。


通りを見ると、黒いスーツ姿の男たちが数人立っていた。無線機で何か話しながら周囲を警戒している。その動きは訓練された者特有のものだった。


「他のルートは?」


霧島は凪子に尋ねた。


「裏の細い道を通れば…」


凪子は小声で言いながら指差した。


「あそこから抜ければ、メインストリートを避けて車まで行けるかもしれない。」


その時だった。料亭から女性の悲鳴が響き渡った。ガラスが割れる音とともに夜空にこだまし、続いて何人かの客が恐怖に駆られたように店から飛び出してきた。その顔には青ざめた表情と汗が浮かんでいる。


「何が…」


清六は困惑した表情で呟いた。胸の奥で不安と恐怖が渦巻いている。自分たちに何か関係しているのではないかという疑念が頭をよぎり、心拍数が上がるのを感じた。


「見に行くぞ。」


霧島は慎重な足取りで路地を引き返し、料亭へ視線を向けた。店内では黒服の男たちが客や店員を制圧している。その中央には一人の女性が立っていた。


長い黒髪と鋭い目つきを持つその女性は、不気味なほど堂々としており、その存在感だけで場全体を圧倒していた。


「あれは…」


長い黒髪は蛍光灯に照らされて青白く光り、切れ長の瞳はガラス玉のように感情を反射しない。肌の色は陶器のような不自然な白さで、呼吸のリズムさえ機械の作動音のように規則的だった。


「九重千尋だ…」


霧島の声に、金属片を嚙んだような苦味が混じる。


「FCT-2…」


清六は千尋の包丁さばきに目を奪われた。銀色の刃が残像を描き、食材は分子レベルで分解されるかのように整形されていく。油の跳ねる音すら規則的で、調理工程が完全な工業プロセスのように見えた。


「覚醒度98%以上だ。神経接続率が限界値を超えている」


霧島は小型端末の数値を睨みつけながら呟いた。


「この状態で調理を続ければ、彼女の自我は3時間以内に崩壊する」


清六は喉元で冷たい塊を感じた。彼女の動きは自分と酷似しているのに、そこには人間の温もりが欠落している。これは自分の未来形なのか?


千尋の作ったとり天は瞬時に完成した。客たちは箸を握る指先から震えが伝わり、瞳が濁っていくのが見て取れた。幸福そうな笑みを浮かべた次の瞬間、突然涎を垂らし始める者まで現れた。


「おいしい…もっと…」


呻く声が店内にこだました。黒服の男たちが無表情で追加の料理を運ぶ中、客たちの眼球はゆっくりと充血していった。


「何が起きてるの?」


沙織が恐怖に震える声で尋ねた。


「神経伝達物質を乗っ取る合成ペプチドだ!」


霧島が歯を食いしばった。


「舌下粘膜から瞬時に吸収され、扁桃体を直接刺激する。食べた者は快楽と服従を刷り込まれる」


清六は自分の掌を見つめた。この手からも同じ毒が生まれるのか?指先が無意識に震え始める。


「逃げろ!」


黒服の男たちが一斉に振り向いた。その眼球が不自然に赤く光るのが見えた瞬間、霧島は三人を路地裏に引きずり込んだ。


行き止まりの壁にぶつかり、凪子が叫んだ。


「あそこ!」


凪子が細い隙間を指さした。建物と建物の間の、かろうじて人が通れそうな空間だ。


一人ずつ隙間を抜ける間も、背後からは追手の足音が近づいていた。四人が何とか反対側の通りに出ると、黒いセダンが止まっていた。車の窓が開き、女性の顔が見えた。


車窓から現れたのは、白衣の袖から青白い腕を覗かせた女性だった。左頬に電子タトゥーのような光の紋様が浮かんでいる。


「椎葉彩乃…!」


霧島の声はどこか苛立ちが滲む。彼女は清六の遺伝子解析報告書に認証コードを刻んだ張本人だった。


「急いで!私の車に!」


彩乃は手を大きく振りながら叫んだ。焦りから顔に冷や汗が伝い、視線は追手と清六たちを絶えず行き来させている。


しかし、四人はその場に立ち尽くした。彩乃の声には切迫感があったが、彼女の過去を知る霧島は眉間に深い皺を寄せていた。


「信じるな。」


霧島の低い声には警戒心と怒りが混じっていた。


その時だった――。


背後の路地から、重い足音が響く。次の瞬間、雷鳴のような声が辺りに響き渡った。


「清六!」


その声に清六は瞬時に凍りついた。幼い頃から何度も聞いたその声――紛れもなく養父・誠司だった。


「お父さん…!」


誠司は息を切らせながら現れ、迷いなく彩乃の車へ駆け寄ると、彼女を車から引きずり出すように押しのけた。その動作には容赦がなく、一瞬だけ彩乃が驚いた表情を見せた。


「早く逃げろ!山に向かえ!」


その声には切迫感と決死の覚悟が込められていた。


「なぜここに…」


清六が問いかける。しかし誠司は振り返らず叫んだ。


「説明している時間はない!」


彼は追手の方へ鋭い視線を向けると、「彩乃、お願いだ。彼らを止めてくれ」と短く命じた。


彩乃は一瞬だけ彼を睨むような目つきを見せた。しかし、その瞳には次第に決意が宿り、無言で頷いた。そして黒服の男たちに向かって走り出した。その背中から漂う気迫は、一瞬だけ追手たちすら躊躇させるほどだった。


誠司は清六たちに車のキーを投げた。


「この車は、もしもの時のために近くに隠しておいた。これで山に向かえ。宇佐美玲を探すんだ。彼女なら助けてくれる。」


キーを受け取った霧島が素早く車へ向かう。


「早く乗れ!」


背後では追手たちの足音と怒号がさらに近づいていた。


路地の奥、雑居ビルの影に目立たないように停められていた黒い車――誠司が万一に備えてあらかじめ用意しておいたものだ。エンジンはすぐにかかるよう、すでにアイドリング状態になっている。


「お父さん、一緒に…」


清六は震える声で言った。しかし、誠司は首を横に振り、その肩に力強く手を置いた。


「私は彩乃と共に、彼らを引き付ける。お前たちが逃げ切れる時間を稼ぐんだ。」


その目には揺るぎない決意と父親としての深い愛情が宿っていた。


「お父さん…」


清六は喉元に熱い塊がこみ上げるのを感じた。それでも涙を堪えて頷くしかなかった。今ここで泣いてしまえば、父親の覚悟を無駄にしてしまう気がしたからだ。


「行け!」


誠司の叫び声と共に、霧島が運転席へ滑り込み、凪子が助手席へ座った。清六と沙織も後部座席へ急いで乗り込む。


「気をつけて!」


清六が窓から叫ぶと、誠司は微笑みながら手を振った。その笑顔は優しく、それ以上何も言わず背中を向けた。


「必ず会おう、息子よ。」


車はエンジン音を轟かせながら通りを駆け抜けた。バックミラーには、小さくなっていく誠司と彩乃の姿が映っている。誠司は黒服たちに立ち向かいながらも、一瞬だけこちらに視線を向けて微笑んだ。それは清六への最後の励ましだった。


「お父さん…」


清六は涙を流しながらその姿を見つめ続けた。その隣で沙織が静かに彼の手を取った。その手は冷たく汗ばんでいたが、それでも力強く握りしめていた。


「大丈夫。」


沙織は清六の目を見つめて言った。


「あなたのお父さんは強い人だわ。私も信じてる。だから…あなたも信じて。」


彼女の言葉には震えながらも確かな決意が込められていた。それに応えるように、清六も震える手で彼女の手を握り返した。この危機的状況下で、沙織だけが彼にとって唯一無二の安定点だった。


「ありがとう…」


沙織は少し頬を赤らめたが、手を離さなかった。


***


「山道に入るぞ。」


霧島が言い、車は急勾配の山道を登り始めた。ヘッドライトが闇を切り裂き、木々の影が不気味に揺れている。窓の外では街の明かりが遠ざかり、代わりに山奥の静寂が広がっていた。


凪子はスマホで地図を確認していた。


「この先に『天ぷら屋みれい』があるはず。でも、かなり山奥よ。」


車内にはエンジン音だけが響き渡り、誰も口を開けようとはしなかった。清六は沙織の手を握ったまま、窓の外に広がる闇を見つめていた。その胸にはまだ重い疑念と恐怖が渦巻いている。


「僕は…試験管の子。」


清六は窓越しに見える暗闇へ呟いた。その言葉には、自分自身への否定と戸惑いが込められていた。彼は自分という存在について答えようもない問いを抱え続けている。


「違うわ。」


沙織は静かだが力強い声で言った。その目には涙が滲んでいた。彼女は清六の手をさらに強く握りながら続けた。


「あなたは天野清六。私の大切な友達。」


その言葉には揺るぎない信頼と深い思いが込められていた。沙織は目線を逸らさずに続けた。


「生まれ方なんて関係ないわ。それでもあなたはあなた。それだけは絶対に変わらない。」


清六は沙織の瞳を見つめ返した。その瞳には、自分自身への疑念すら包み込むような温かさと信頼が宿っていた。彼女から伝わる手の温もりは冷え切った彼の心にじわじわと広がり、その痛みと恐れを少しずつ溶かしていくようだった。


車は山の深さへと進み続けた。ヘッドライトが闇を切り裂き、木々が密集する森が道を覆い隠すように迫ってくる。遠くで聞こえる風の音は、まるで何かが囁いているかのようだった。


先には未知の宇佐美玲という女性と、自分自身について新たな発見が待っている。その予感は清六に不安と期待を同時に抱かせていた。


しかし今、彼の心に最も強く渦巻いていた感情は、両親—養父の誠司と、報告書に名前があった椎葉彩乃—への複雑な思いだった。


誠司は自分を守ろうとして命を賭けた。一方で彩乃は、自分という存在を生み出す計画に深く関与していた人物だ。彼らは敵なのか、それとも味方なのか。その答えはまだ霧の中だった。


清六は窓越しに広がる闇を見つめながら、自分自身に問いかけた。「僕は何者なのか?」その答えを見つけるためには、恐れず前へ進むしかない。胸の奥で小さな炎が灯り、それが彼の迷いを少しずつ焼き尽くしていくようだった。


沙織の手から伝わる温もりは、彼が前へ進むための唯一の支えだった。彼女が隣にいる限り、自分はどんな困難にも立ち向かえる気がした。


清六は沙織を見ると、その目には揺るぎない信頼と優しさが宿っていた。それだけで彼の心は少しずつ落ち着きを取り戻していった。


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