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フライング・コード ~遺伝子の胎動~  作者: 地熱スープ
第二部:大分への旅と真実の片鱗
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第7章:鶏冠亭の老人

朝日が窓から差し込み、清六は目を覚ました。一瞬、隣で寝息を立てている沙織の存在に驚いたが、すぐに昨夜の出来事を思い出した。


彼は静かにベッドから抜け出し、窓際に立った。大分の街が朝の光に照らされ、静かに目覚めていく様子が見える。その穏やかな光景は、一時的に彼の不安を和らげるようだった。


「おはよう…。」


背後から沙織の声がした。彼女は髪を軽く整えながら、ベッドの端に座っていた。その表情にはまだ少し眠気が残っているものの、どこか安心した様子も見て取れた。


「おはよう。よく眠れた?」


「うん、意外と…。」


沙織は少し照れたように微笑んだ。二人は昨夜の緊張を忘れたかのように自然な会話を交わしていた。しかし、その穏やかな空気は突然鳴り響いたスマホの着信音によって破られた。


清六のスマホが突然鳴り、二人は驚いて顔を見合わせた。画面には「Unknown Caller」とだけ表示されている。その番号には何の情報もなく、不気味な静けさが部屋に漂った。


「誰だろう…。」


清六は眉をひそめながら呟いた。その言葉に沙織も不安そうな表情を浮かべた。


「出るつもり?」


清六は一瞬迷った後、小さく首を振った。


「いや…知らない番号だし、怪しいかもしれない。」


二人は画面を見つめながら沈黙したまま、清六は迷い続けていた。その短い時間が妙に長く感じられる。着信音が鳴り響く中、部屋にはどこか重苦しい空気が漂っていた。


「出た方がいいかな…。」


清六はスマホを見つめながら呟いた。その声には迷いと不安が滲んでいた。沙織は彼の様子をじっと見つめていたが、何も言わず、その判断を彼に委ねたようだった。


意を決したように清六は通話ボタンを押した。


「もしもし、天野です。」


一瞬の沈黙の後、低く落ち着いた男性の声が聞こえた。その声には年齢を感じさせる重みと、不穏な雰囲気が漂っている。


「天野清六君だね。」


その言葉に清六は思わず息を呑んだ。


「あなたは…誰ですか?」


「私だよ。待っていたんだよ、君が大分に来るのを。」


その言葉に清六の胸中で疑念と恐怖が膨れ上がった。


「どうして僕のことを…。」


「友人だと思ってくれていい。君の正体を知りたければ、別府の『鶏冠亭けいかんてい』という料亭に来なさい。今日の正午に。」


「どうして僕のことを…。」


「すべては会えば分かる。一人で来るのは危険だろうから、友人を連れてきてもいい。でも、多すぎると目立つからね。」


通話は突然切れた。その無機質な切断音が部屋に響き渡り、清六は呆然とスマホを見つめていた。


「誰だったの?」


沙織が不安そうに尋ねた。その目には彼への心配と、この状況への不安が入り混じっていた。清六は通話内容を説明した。


「『鶏冠亭』…どこだろう。」


沙織は眉をひそめながら言った。「凪子さんに聞いてみよう。」


***


二人は急いで凪子の部屋に向かった。清六が電話の内容を説明すると、凪子は驚きながらもすぐにノートパソコンを開き、「鶏冠亭」についてインターネットで情報を調べ始めた。


「『鶏冠亭けいかんてい』は別府市内の高級料亭よ。地元の有力者や政治家が利用する老舗だと言われているわ。」


凪子は画面を見つめながら続けた。


「こういう場所で会合が設定されるということは、何か特別な意図があるはず。単なる偶然ではないわね。」


「罠かもしれませんね。」


沙織が不安そうに言った。その声には彼女自身の恐れと清六への心配が滲んでいた。


「その可能性は否定できないわ。」


凪子は真剣な表情で答えた。


「でも、こちらから接触を試みるよりも、向こうから呼びかけてきたことには意味があるはず。慎重に行動すれば、重要な情報が得られるかもしれない。」


清六は深く息を吸い込みながら頷いた。


「分かった。でも…本当に大丈夫かな。」


凪子は冷静な声で続けた。


「万が一の場合に備えて、私が別の席から様子を見守るわ。君たち二人だけで行動する方が目立たないし、安全よ。」


沙織も清六に向き直りながら言った。


「一緒に行こう。何かあっても、私たちなら乗り越えられるよ。」


その言葉に清六は少しだけ安心しながら微笑んだ。


「ありがとう。沙織。」


三人は相談の結果、正午の会合に行くことを決めた。


***


別府市内は観光客で賑わっていた。温泉街特有の湯気が至る所から立ち上り、街全体に独特の温かみと活気を与えている。路地を歩く人々の笑い声や、湯けむりに包まれた街並みが、春の日差しに照らされていた。


三人はレンタカーを路地の奥に停め、静かに「鶏冠亭」を目指した。清六は周囲の喧騒とは対照的な自分たちの緊張感に気づきながらも、足を進めた。


「あれが鶏冠亭ね。」


凪子が指さした先には、風情ある日本建築の料亭があった。木造二階建ての建物は、周囲の現代的な建物の中で一際存在感を放っている。入口には「鶏冠亭」と書かれた古風な看板が掛けられ、その文字は長い歴史を感じさせた。


「私は別の入口から入るわ。」


凪子は二人に小型の通信機を渡した。その小さなデバイスは、緊急時に備えた彼女の冷静な判断力を象徴しているようだった。


「何かあったらすぐに連絡して。こちらから様子がわかるようにしておくから。」


凪子が別ルートで移動する中、清六と沙織は料亭の正面に立った。その瞬間、清六は自分の胸中で渦巻く不安と期待を感じ取った。


「行こう。」


清六が深呼吸して言った。その声には決意と緊張が入り混じっていた。沙織は彼の手を軽く握り、優しく微笑んだ。


二人は静かに料亭の門をくぐり、建物に足を踏み入れると、落ち着いた雰囲気の玄関ホールが広がっていた。和の趣を大切にした内装には、磨き抜かれた木の床や淡い照明が心地よい陰影を作り出している。漂う上品な香りは、お香のような穏やかな香りだった。


着物姿の女将らしき人物が二人を出迎えた。その立ち振る舞いには、長年培われた品格が感じられる。


「ようこそいらっしゃいませ。ご予約は?」


「あの、電話で来るように言われたのですが…天野と申します。」


清六が少し緊張した声で答えると、女将は理解したように頷いた。


「お待ちしておりました。こちらへどうぞ。」


女将に導かれ、二人は廊下を通って奥の個室へと案内された。廊下には掛け軸や生け花が飾られており、その一つ一つが洗練された空間を演出している。障子戸の前で女将が立ち止まり、静かに言った。


「お客様がお待ちです。」


女将が障子を開けると、部屋の中には二人の男性が座っていた。一人は白髪の長髪を後ろで束ねた高齢の男性。その鋭い目つきには長年積み重ねてきた経験と威厳が宿っている。もう一人は40代前後の体格の良い黒髪の男性で、その姿勢には警戒心と力強さが感じられた。


「さあ、どうぞお入りなさい。」


高齢の男性が穏やかな声で言った。その声には威圧感こそないものの、不思議な力強さを感じさせるものだった。清六と沙織は緊張しながらも部屋に入り、二人の男性と向かい合って座った。


女将が静かに退室すると、室内には微かな沈黙が流れた。その沈黙は短くも重く、清六は無意識に喉を鳴らした。沙織も隣でわずかに息を詰めている様子だった。


「君が天野清六君だね。」


高齢の男性が、清六をじっと見つめながら言った。その眼差しには親しみとともに、何か深い感情が混ざっているようだった。それは単なる挨拶ではなく、彼自身の過去や秘密を含んだ重みを感じさせるものだった。


「はい…あなたは?」


清六は緊張した声で尋ねた。その声には戸惑いと警戒心が入り混じっていた。


「私は鳥栖だ。かつてソラティア研究所の創設者だった男さ。」


その言葉に清六は驚いて息を呑んだ。目の前にいるこの男性が、あの謎めいた研究所を作り上げた張本人だというのか。


「こちらは霧島剛君。世界食品監視機構、GFOの調査官だよ。」


鳥栖が隣の男性を紹介すると、黒髪の男性は軽く頭を下げた。その表情には厳しさがありながらも、目には誠実さと冷静な判断力が宿っているようだった。


「なぜ僕に会いたかったんですか?」


清六は緊張した声で問いかけた。その問いには、自分自身への疑念と、この場面への不安が滲んでいた。


「君の本当の姿を見るためさ。」


鳥栖は穏やかに微笑んだ。その微笑みにはどこか含みがあり、清六はその意図を測りかねた。


「まずは食事をしよう。この店の『とり天』は大分一と言われているんだ。」


鳥栖が軽く手を挙げると、料理が運ばれてきた。テーブルの上には黄金色に揚がった「とり天」の盛り合わせが置かれる。その香ばしい香りが部屋中に広がり、一瞬だけ緊張感を和らげるようだった。


清六はその香りに思わず心を奪われた。しかし同時に、フライドチキン店で起きた出来事が脳裏によぎる。『とり天』という料理――それは彼自身の謎とどこか深く繋がっているように思えた。


「どうぞ、食べてみたまえ」


鳥栖の勧めに、清六は箸を握る手に汗を滲ませながらとり天を口に運んだ。歯が衣に触れた瞬間、頭蓋骨の内側を金槌で叩かれるような激痛が炸裂した。


「う…っ!」


コップが転がり落ちる音。清六は椅子の肘掛けにしがみつき、視界が金色の閃光に塗りつぶされる。耳朶の奥で電子ノイズのような高音が共鳴し、脊髄を伝って全身の筋肉が痙攣する。


「清六くん!」


沙織が駆け寄る腕を、清六は無意識に振り払った。


今回は違う――前回のフライドチキン店での発作とは次元が異なる。意識の9割が深淵に沈みながら、残り1割が冷徹に状況を観測している。


記憶の断片が硝子片のように突き刺さる。


—白い部屋。白衣の人々。小さな自分が何か実験をされている—


—「FCT-1、順調です」という女性の声---


---「鳥栖先生、彼の反応は最も安定しています」---


---強い光。そして恐怖---


清六の身体が自動起動した。関節が油圧ポンプのように滑らかに動き、部屋の隅にある調理スペースへ向かう。流し台の包丁が月のように冷たい光を放っている。


「始まったか…」


鳥栖の低い声が部屋に響いた。その瞳には研究者としての狂気と達成感が混ざり合っている。霧島はタブレットを握る手に力を込め、生体データの変動を記録し続けていた。


清六の手指が不自然な速度で動き始めた。冷蔵庫から取り出した鶏肉を空中で捌き、包丁の刃先が3ミリ間隔で震える。その動きには無駄がなく、まるで何千回も修行を積んだ料理人のような完成度だった。


包丁の刃先が材料に触れるたびに、微かな音が部屋中に響き渡る。その音はリズムのようでありながら、不気味さも感じさせるものだった。


「彼は意識があるのか?」


霧島が初めて口を開いた。その声には冷静さと警戒心が宿っていた。


「半分は。」


鳥栖は清六の様子を見つめながら答えた。その目には観察者としての鋭さが宿っている。


「彼はFCTシリーズの中でも特異な存在だ。通常、活性化すると意識は完全に抑制されるはずだが、彼は部分的に自我を保っている。」


その言葉通り、清六は料理をしながらも断片的な記憶のフラッシュバックと戦っていた。幼い頃の自分、実験を受ける自分、そして…誰かに連れ出される記憶。それらは鮮明ではないものの、彼の心に深い影響を与えていた。


包丁が動くたびに彼自身の存在が揺らいでいく感覚――それは単なる料理ではなく、自分自身のアイデンティティへの問い掛けだった。


「何が起きているの!?」


沙織が叫んだ。その声は悲鳴に近かった。


「彼のDNAに埋め込まれた調理プロトコルが起動したのだ。まさに生きるレシピブック…我々が20年かけて完成させた作品だ」


鳥栖は冷静に説明しながら、清六の動作を貪るように観察していた。


「遺伝子レベルで『とり天』の調理技術を保存する。それが『プロジェクト・ガストロノミックマター』の目的だった。」


「お願い…止めて!」


沙織が清六に近づこうとするが、霧島が素早く制した。


「触るな。今は神経接続が最も敏感な状態だ」


清六の網膜には仮想の調理画面が投影されている。

視界の隅に「CT-09:プロトコル実行中」の文字が点滅する。

彼の舌は無意識に味覚センサーとなり、空中で衣の粘度を計測していた。


鳥栖が囁く。


「見ろ…これが食の進化形だ。人間という器に究極の料理技法をインストールするんだ」


天井の換気扇がうなりを上げる。揚げ油の温度が182度に達した瞬間、清六の手が突然静止した。完成したとり天の表面には、数学的に計算された最適気泡が均一に分布している。


「…完了だ」


清六が機械的な声で告げる。その目には、深い闇に飲まれた人間の影が見えた。


***


とり天が完成し、清六は皿に盛りつけた。黄金色に輝く完璧な料理からは、香ばしい香りが妖しく漂っている。その瞬間、彼の虹彩が収縮し、拡散していた瞳孔が徐々に焦点を結び始めた。


「僕…何を…。」


清六は自らの手のひらを見つめ、指先に残る微かな震えに戸惑う。頭蓋の内側で記憶の破片が衝突し、耳鳴りが低く響いていた。


「素晴らしい出来栄えだよ、清六君。」


鳥栖が掌を合わせ、料理を眺めながら言った。その目には科学者が傑作を鑑賞するような陶酔感が浮かんでいる。


「君は私の最高傑作の一つだ――『人間』と『レシピ』の完璧な共生体。」


清六は足元がふらつき、テーブルに手をついた。沙織が駆け寄り、彼の背中を支える。その手の温もりが、冷え切った皮膚に染み渡る。


「何が起きたんですか…頭の中が…。」


清六が嚙みつくように問う。前頭葉に埋め込まれたナノチップの残響か、幻聴のように「FCT-1 安定稼働中」という電子音が鳴り続けている。


「座りなさい。」


鳥栖が水晶のグラスに水を注ぎながら優しく言った。


「君の誕生の物語を話そう。遺伝子に刻まれた真実を。」


清六と沙織がテーブルに戻ると、霧島は黙って窓際に移動した。カーテンの隙間から差し込む光が、彼の拳銃ホルスターのバックルをかすかに光らせている。


「『プロジェクト・ガストロノミックマター』が始動したのは、平成の終わり頃だった。」


鳥栖の指がテーブルを撫でる。木目に刻まれた年輪のように、その声には歴史の重みが滲んでいた。


「食文化が消えゆく時代に、私は気付いたんだ。真の料理の極意は、書物でも動画でもなく――ここに」


彼は自分のこめかみを指差した。


「人間の遺伝子こそが、究極のレシピ保存媒体だとね。」


清六の喉が軋んだ。


「それで…僕を?」


「君は最初の成功作だ。『とり天』という文化遺産を、生きたDNAに転写した初めてのホモ・ガストロノミクス。」


鳥栖の目が炎のように輝く。


「大分の郷土料理、特に『とり天』の調理技術を永久に保存したいと考えたんだ。失われゆく伝統を科学の力で救おうとしたんだよ」


「でも、なぜ人間に…!」


清六が拳を握りしめると、沙織がその手の甲に触れた。彼女の指先が、清六の皮膚下で光る遺伝子マーカーCT-09をかすかに感知している。


清六の問いに、鳥栖は目を伏せた。


「最初は量子コンピュータによる味覚データベース構築だった。だが、料理は単なるレシピではない。職人の指先の感覚、香りを嗅ぎ分ける鼻、味の微妙な違いを感じ取る舌…。それらを保存するには、人間の体そのものが必要だったんだ」


「そこで生まれたのがFCTシリーズ」


霧島が冷たい声で遮った。


「要するに、生体ニューラルネットワークが必要だった。人間という生きた培養器が。」


「FCTシリーズの本質だ。」


鳥栖の瞳が青白く発光する。


「フライドチキンテスター。『とり天』の遺伝子を98.7%の純度で発現する人間の製造プロジェクト。」


清六の喉が軋んだ。


「僕は…培養槽で作られたんですか?」


「君はFCT-1。受精卵段階でCRISPR-Cas27を投与された、最初の完全成功体。」


鳥栖の言葉に、沙織が息を呑んだ。その目には驚きと恐怖が入り混じっている。清六の腕に浮かぶ血管が突然青白い蛍光色に輝き始めた。その脈動は皮膚の下で不気味な光を放ち、まるで彼自身の体が何か異質な存在へと変貌しているかのようだった。


霧島がタブレットを叩く。画面には清六の幼少期の脳波図が表示されていた。それらは暴走するように乱舞し、β波とθ波が異常な共鳴を起こしている。


「5歳まで…あの白い部屋で…。」


清六の声は震えていた。その言葉には、自分自身への疑念と恐怖が滲んでいた。


「毎日12時間の調理訓練と神経接続学習。」


霧島が冷静な声で続けた。タブレットには幼い清六が無機質なベッドに縛り付けられ、頭部に無数の電極が貼り付けられている映像が映し出されている。その小さな体は研究者たちによって操作される実験体そのものだった。


「海馬に直接焼き付けた300万回分の調理データ。」


鳥栖は清六をじっと見つめた。その瞳には研究者としての誇りと、どこか父親のような悲しみが宿っていた。


「君の遺伝子には、大分が誇る『とり天』の技術が組み込まれている。特定の刺激を受けると、その能力が目覚めるんだ。」


鳥栖の声は静かだったが、その言葉には重みがあった。それは単なる説明ではなく、彼自身が背負ってきた罪悪感にも似たものだった。


「でも、僕には記憶がない…5歳以前の。」


清六は机に手をついて問いかけた。その声には怒りと悲しみが入り混じっていた。


「記憶消去処置が行われたからだ。」


鳥栖は深く息を吐きながら答えた。その表情には悲しみと後悔が浮かんでいる。


プロジェクトが公式に中止された時、倫理委員会は『人間性の回復』を条件に掲げた。君たちFCTシリーズの子供たちを社会に統合するためには、前頭葉の記憶神経を選択的に破壊し、研究所での記憶を完全に消去する必要があったんだ。


窓の外で雷鳴が轟く。清六の瞳孔が突然収縮し、網膜に「PROTOCOL_ERASE」の文字が浮かび上がる。


清六の指先が無意識に首筋へと伸びた。その皮膚の下には、微かな突起が感じられる。5センチほどの線状瘢痕――それは幼少期に施された手術の痕跡だった。彼はその感触に触れるたびに、胸中で何かがざわめくのを感じた。


突然、記憶の断片が脳裏に再生される。無機質な白い部屋、天井から吊るされた蛍光灯の冷たい光。そして、自分自身がベッドに縛り付けられている姿――その光景が鮮明に浮かび上がった。


「電子メス…。」


清六は呟いた。その言葉には恐怖と絶望が滲んでいた。今ならわかる。この瘢痕は単なる傷ではない。彼自身のアイデンティティを刻んだ証拠であり、彼を実験体として作り上げた痕跡だった。


「僕の養父は…」


「天野誠司だね。」


「彼は元ソラティア研究所の警備責任者だった。プロジェクトの危険性を知り、君を実の息子として引き取ったんだ」


清六は混乱し、頭を抱えた。これまでの人生が、すべて嘘だったのかと思うと、胸が締め付けられるような感覚だった。


「他にも…僕のような人間が?」


「FCT-0 宇佐美玲。」


霧島がタブレットを叩く。赤外線画像に映る少女が廃墟を駆け抜ける。「プロトタイプ故に制御不能に。14年前に施設から失踪。」


「FCT-2 九重千尋。」


今度は病院ベッドで痙攣する女性の映像。「『だんご汁』の遺伝子が暴走。現在植物状態。」


清六の視界がゆがむ。沙織が彼の手を握りしめる。彼女の掌から伝わる体温が、自分がまだ人間であることをかすかに保証している。


「あなたは特別よ。」


沙織の声が震える。彼女の瞳に清六の顔が映る――その目蓋の裏に、かすかに「FCT-1」の透かし加工が浮かび上がっていることに、彼はまだ気づいていない。


「なぜ今、僕に会いたかったんですか?」


清六が眉をひそめながら問いかけた。その声には疑念と不安が滲んでいた。


「危険が迫っているからだ。」


鳥栖の表情が厳しくなり、その声には警告の響きが込められていた。


「別府理事長と由布厚生は、私の研究を政治的に利用しようとしている。『料理遺伝子人間』を使って食品市場と政治を支配する計画だ。」


「どういうことですか?」


清六は椅子に座り直しながら問い返した。その胸中で恐怖と疑念が渦巻いている。


「君たちが作る料理には特殊な効果がある。」


霧島がタブレットを操作しながら冷静に説明した。


「異常な美味しさを持ち、食べた人の判断力や感情に影響を与える可能性がある。それは、脳内でドーパミン分泌を誘発し、特定の意思決定を促進することもある。」


「それを政治的に利用すれば…。」


鳥栖が言葉を継ぎながら深く息を吐いた。


「恐ろしいことになる。食品市場だけでなく、選挙や政策決定にも影響力を及ぼすことができる。まさに食文化の武器化だ。」


清六は言葉を失った。自分自身の存在が、このような危険な計画に組み込まれているという現実に直面していた。


「私は純粋に文化保存のために始めたプロジェクトだった。」


鳥栖は拳を握りしめながら続けた。


「しかし今や、その目的は歪められ、危険な方向に進んでいる。だからこそ、君に会いたかったんだ。」


清六はテーブルに置かれた自分が作ったとり天を見つめた。その黄金色に輝く料理は、単なる郷土料理ではなく、自分自身の存在そのものを象徴しているようだった。彼の体に眠る能力と、それがもたらす危険性――それらが今ようやく理解できた気がした。


「僕は…何をすればいいんですか?」


清六は小さな声で問いかけた。その声には戸惑いと恐怖、そしてわずかな決意が滲んでいた。


「まずは君自身の能力を理解し、コントロールする必要がある。」


鳥栖は優しく言った。その目には研究者としての冷静さと、どこか父親のような温かさが宿っていた。


「そして、彼らの計画を阻止するんだ。しかし、それは簡単ではない。彼らも君を探しているからね。」


その言葉に清六は息を呑んだ。自分が追われる存在であるという現実が、胸に重くのしかかった。


「この地図を。」


鳥栖は清六に小さな紙片を手渡した。その紙には手書きで山間部の地図と「天ぷら屋みれい」の名前が記されている。


「そこにFCT-0――宇佐美玲がいる。」


鳥栖は清六の肩に手を置きながら続けた。


「彼女なら君を助けてくれるだろう。彼女もまた、この計画によって生まれた存在だ。そして、君以上にこの計画について知っている。」


清六はその言葉を胸に刻み込みながら地図を握りしめた。その紙片は軽いはずなのに、自分の運命そのものを背負わされているような重みを感じる。


突然、霧島が立ち上がり、窓の外を指さした。その動きには迷いがなく、鋭い警戒心が漂っていた。


「話はここまでだ。監視の目が来ている。」


清六と沙織は慌てて窓の外を覗き込んだ。黒いスーツ姿の男たちが建物の周囲に現れ、その動きにはためらいが一切ない。まるで獲物を追い詰める猟犬のように、明確な目的を持ってこちらに向かっていることが分かった。


「後ろの出口から逃げるぞ。」


霧島が短く指示しながら二人を促した。その声には冷徹な判断力が滲んでおり、状況の切迫感をさらに際立たせていた。


「鳥栖さん、あなたは?」


清六は立ち止まり、鳥栖を振り返った。その問いには彼への不安と疑念が滲んでいた。


「私は大丈夫だ。」


鳥栖は微笑みながら答えた。その微笑みにはどこか含みがあり、清六はその意図を測りかねた。しかし、その目には確固たる覚悟が宿っているようにも見えた。


「彼らも私を簡単には手出しできない。君たちは急ぐんだ。」


その言葉に清六は息を呑みながら頷いた。


「急げ!」


霧島の鋭い声で現実に引き戻された清六と沙織は、鳥栖に別れを告げる間もなく後ろの出口へ向かった。二人の足音が静かな部屋に響き、その音だけが鳥栖の元に残された。


鳥栖は静かに微笑みながら二人の背中を見送った。その微笑みにはどこか達観したものがあり、自らの運命を受け入れる覚悟が滲んでいた。彼の目には、清六がこれから背負う未来への期待とわずかな不安が交錯しているようだった。


その時、凪子から通信が入り、「私も合流する」と告げられた。凪子の冷静な声は、清六に一瞬だけ安心感を与えたものの、不安は完全には拭い去れなかった。


「次は『天ぷら屋みれい』だ。」


清六は地図を握りしめながら呟いた。その手には汗が滲み、紙片がわずかに湿っていた。彼はまだ混乱していた。しかし、その中で一つだけ確信していることがあった――自分自身の正体を知り、この運命を切り開いていかなければならないということだ。


清六は深く息を吸い込み、前を向いた。その目には迷いと決意が入り混じりながらも、新たな一歩を踏み出す準備が整いつつあった。


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