第5章:見張られる感覚
福岡駅を出発した特急列車は、徐々に加速しながら大分への旅路を進んでいた。
車両が揺れるたびに、窓の外では福岡の街並みが次第に遠ざかり、代わりに緑豊かな山々や田園風景が広がり始めていた。その景色はどこか穏やかでありながら、これから待ち受ける未知の出来事を予感させるようだった。
清六は窓際の席に座り、無言で流れる景色を眺めていた。昨夜見つけた報告書の内容が頭の中を巡り続けている。
「FCT-1」「記憶消去処置」「活性化実験」――これらの言葉は彼にとって断片的なパズルのピースでしかなかった。それでも、それらが自分自身と深く関わっていることだけは確信していた。
「何か飲む?」
隣に座っていた沙織が、優しく声をかけた。彼女は駅の売店で買ったペットボトルのお茶を差し出している。その表情には清六への気遣いと不安が入り混じっていた。
「ありがとう。」
清六は感謝の笑みを浮かべながらお茶を受け取った。その温もりが彼の緊張を少しだけ和らげてくれるようだった。
沙織は彼の様子を伺いながら静かに言った。
「大丈夫?何か考えてる?」
清六は一瞬躊躇した後、小さく頷いた。
「昨夜の報告書のことだよ。まだ全部理解できてないけど…僕が『FCT-1』だっていう事実だけでも十分すぎるくらい衝撃的だ。」
沙織は真剣な表情で清六を見つめた。
「でも、それを確かめるために今こうして進んでるんだから。一緒に解明しよう。」
その言葉に清六は小さく微笑み返した。彼女の存在が、この旅路でどれほど心強いものになるか――それを改めて感じた瞬間だった。
向かいの席には凪子が座り、ノートパソコンで何かを調べていた。時折、画面を見つめながら眉をひそめる表情は、真剣な取材姿勢を物語っていた。その横にはメモ帳が置かれ、手書きのメモがびっしりと書き込まれている。
「凪子さん、何を調べてるんですか?」
清六が尋ねると、凪子は顔を上げた。その目には慎重さと探求心が入り混じっていた。
「ソラティア研究所の公開情報よ。表向きは『大分県食品技術研究所』として活動しているみたいだけど、一般的な研究所としては不自然な点が多いの。」
「不自然?」
清六が首をかしげると、凪子は画面を指差しながら説明した。
「例えば、研究成果がほとんど公表されていないこと。普通、公的な研究機関なら論文や報告書を定期的に発表するものだけど、彼らの場合はほとんどない。それに…」
凪子は少し間を置いてから続けた。
「セキュリティが異様に厳重だという噂もあるわ。食品研究所にしては警備が厳重すぎるのよ。」
沙織が不安そうに口を挟んだ。
「なんだか怖いですね…本当に大丈夫なのかな。」
凪子は小さく頷きながら答えた。
「確かにリスクはあるわ。でも、まずは遠くから様子を見るつもりよ。無謀なことはしないから安心して。」
清六は窓の外に目を向けながら呟いた。
「それでも…何か隠しているのは間違いない。」
列車は速度を上げながら、大分へと進んでいく。その車内には、不安と期待が入り混じった空気が漂っていた。
清六は窓の外に広がる景色を再び眺めた。電車は今、海岸線に沿って走っている。青い海と空が一体となった美しい光景が広がり、車両全体に柔らかな日差しが差し込んでいた。しかし、彼の心は晴れなかった。
***
「なんだか…」
清六は突然、背筋に冷たいものを感じた。誰かに見られているような不快な感覚だ。彼はゆっくりと周囲を見回した。
「どうしたの?」
沙織が心配そうに尋ねる。その声には、彼女自身も清六の様子に不安を覚えた様子が含まれていた。
「いや…なんだか見られてる気がして。」
「見られてる?」
凪子がノートパソコンから顔を上げ、周囲を警戒するように見回した。車内は平日の昼間ということもあり、それほど混雑していない。ビジネスマンや観光客らしき人々が思い思いに過ごしている中で、不審な動きをする者はいないように見えた。
「気のせいかな…」
清六はそう言いかけたが、その時、車両の前方に立つ男性の存在に気づいた。黒いスーツを着た男性が新聞を広げている。しかし、その視線は新聞越しにこちらを伺っているようだった。
「凪子さん…あの人。」
清六が小声で言うと、凪子も気づいたようだ。彼女は何気なく髪をかき上げるふりをして男性の方を一瞥した。その目には鋭い光が宿っている。
「なるほど…」
凪子は静かに言った。
「もう一人いるわ。後ろの車両との境目に。」
清六は自然な動きを装って振り返った。確かに、もう一人の黒いスーツ姿の男がドア付近に立っていた。その男も時折こちらを見ているようだった。
「なんで…僕たちを?」
清六の声が震えた。その問いには、自分自身への疑念と恐怖が滲んでいた。
「落ち着いて。」
凪子は低い声で言った。
「普通に会話を続けて。不審に思われないように。」
沙織は緊張した表情で頷いた。
「でも、どうして私たちが監視されてるの?清六くんが研究所に連絡したから?」
「違うと思う。」
凪子は考え込むように言った。
「誰かが私たちの動きを把握していたんでしょう。もしかしたら…」
彼女は言葉を切り、清六の方へ目線を向けた。
「清六君のスマホ、昨日からずっと使ってた?」
「ええ、いつも通り…」
「そうね…監視されているかもしれない。位置情報をオフにして。」
清六は慌ててスマホを取り出し、設定画面から位置情報機能をオフにした。その動作ひとつひとつにも、不安と焦りが滲み出ていた。
「どうすればいいんですか?このまま大分駅まで行ったら…」
「計画を変えましょう。」
凪子は決然とした表情で言った。
「次の停車駅で降りるわ。別の手段で目的地に向かいましょう。」
沙織は混乱した様子で尋ねた。
「でも、荷物はどうするんですか?それに、大分駅までの乗車券も…」
「それは気にしないで。大事なのは安全よ。」
凪子はノートパソコンをバッグにしまいながら、さらに指示を続けた。
「自然に振る舞って。次の駅に着いたら、トイレに行くふりをして荷物を持って降りましょう。」
次の停車駅は香椎線との接続駅だった。電車が減速し始めると、凪子は立ち上がった。その動作には一切の迷いがなく、二人にも冷静さを保つよう促しているようだった。
「さあ、行きましょう。トイレに行くふりをして。」
三人は自然な動きを心がけながら席を立ち、荷物を持って車両の端へ向かった。黒いスーツの男性たちの視線が背中に突き刺さるようだったが、平静を装い続けた。
***
列車が停車すると、凪子が先頭でドアに向かった。その足取りには焦りよりも確信が感じられた。
「さあ、急いで。」
三人は素早くホームに降り立った。凪子は周囲を見回しながら駅の出口へと歩き始めた。その目には鋭い警戒心が宿っている。
「彼らも降りてきたわ。」
沙織が小声で言った。その言葉に清六も振り返ると、黒いスーツの男性たちが困惑した表情で彼らの後を追ってきているのが見えた。その姿は明らかに監視者としての役割を果たしているようだった。
「急ぎましょう。」
凪子は二人の手を引いて、駅構内を素早く移動した。改札を出ると、彼女は迷わず駅前のタクシー乗り場へ向かった。
「タクシーなら追跡されにくいわ。」
一台のタクシーが停車していた。それは幸運だったと言えるだろう。
三人は急いで乗り込み、ドアが閉まる音とともに一息ついた。運転手に目的地を告げると、タクシーは静かに発進した。
その瞬間、彼らは一時的な安堵感に包まれたものの、不安と緊張感はまだ完全には消えていなかった。
「久留米駅までお願いします。」
凪子が運転手に告げた。タクシーが静かに発車する直前、黒いスーツの男性たちが駅から出てくるのが見えた。その視線は明らかに三人を探しているようだった。
「間に合ったみたいね。」
凪子はほっとした表情で言った。タクシーは駅前を離れ、市街地へと向かっていく。その車内には、一時的な安堵感と緊張感が入り混じった空気が漂っていた。
「久留米駅?」
清六が疑問を込めて尋ねた。
「そこから別のルートで大分に向かうわ。彼らの予測を外すためよ。」
凪子の冷静な判断力に、清六は感心した。しかし同時に、事態の深刻さに不安も感じていた。
「本当に僕たちは追われてるんですね…」
清六の声には、自分自身への疑念と恐怖が滲んでいた。その問い掛けに凪子は真剣な表情で頷いた。
「ええ、そうみたいね。」
彼女は窓の外に目を向けながら続けた。
「清六君の発見した報告書が本物なら、ソラティア研究所はあなたに強い関心を持っているはず。そして、あなたが大分に向かうことを知って監視を始めたのでしょう。」
その言葉に清六は思わず背筋を伸ばした。自分が巻き込まれている事態の重大さと、自分自身が何者なのかという疑問が胸中で渦巻いていた。
***
タクシーの後部座席は三人で座るには狭かった。清六は窓際に、沙織は真ん中、凪子はもう一方の窓際に座っていた。特に清六と沙織は密着せざるを得ない状況だった。
「ごめんね、狭くて。」
清六は申し訳なさそうに言った。沙織の肩と腕が彼の体に触れている。その微妙な距離感が、彼の心を少しだけ落ち着かなくさせた。
「だ、大丈夫よ…。」
沙織の声が少し上ずっていた。彼女の頬が徐々に赤く染まっていく。その仕草が逆に可愛らしく、清六は一瞬見とれてしまった。しかし、その空気を壊さないように視線を窓へ戻した。
「でも…どうして清六くんなんでしょうか?彼だけが狙われてる理由って…」
沙織は話題を変えようとしていた。その言葉には不安と疑問が滲んでいたが、その仕草にはどこか照れ隠しのようなものも感じられた。
凪子は少し考え込むような表情を浮かべた後、答えた。
「それはまだ分からない。でも、『FCT-1』とか記憶消去処置って言葉…これが鍵になる気がするわ。」
「そして、おそらく研究所は清六君の動向をずっと監視していたのでしょう。」
凪子が冷静な声で説明した。その目には慎重さと探求心が宿っている。
「私たちの行動は福岡駅で切符を買った時点で検知されたか、それとも…誰かが情報を漏らした可能性もあるわ。」
「誰かって…。」
清六は言葉を濁した。その瞬間、養父・誠司の顔が脳裏に浮かんだ。見守ってくれていたと思っていた彼が…もしや――。
***
タクシーがカーブを曲がる際、沙織の体が清六の方に傾いた。二人の顔が一瞬近づき、清六は慌てて言った。
「あ…ごめん。」
沙織は顔を真っ赤にして目をそらしながら、小さな声で答えた。
「い、いいのよ…。」
その様子を見ていた凪子が、クスリと笑った。その笑顔には、少しだけ緊張感を和らげようとする意図が見えた。
「まあ、窮屈な思いをしてごめんなさいね。でも、これで彼らの追跡を振り切れたはずよ。」
清六は一瞬安堵したものの、すぐに次の行動について考え始めた。
「久留米からはどうするんですか?」
凪子は窓の外に目を向けながら答えた。
「そこから特急バスで大分に向かうわ。電車とは違うルートだから、追跡は難しいはず。」
「凪子さん、本当にありがとうございます。」
清六は心から感謝を伝えた。彼女がいなければ、この危機を乗り越えることはできなかっただろう。
「気にしないで。」
凪子は微笑みながら続けた。
「私もソラティア研究所の真相を知りたいから。それに…」
彼女は少し間を置き、真剣な表情で言葉を続けた。
「あなたが『FCT-1』なら、この事態はただのジャーナリズムを超えた問題よ。人間の尊厳に関わる問題だもの。」
清六は自分の手を見つめた。「FCT-1」という言葉が、彼の存在そのものを揺るがしているように感じた。その手には何も変わったところはない――それでも、自分が何者なのかという疑問が胸中で膨れ上がっていく。
「僕は…何なんだろう。」
その呟きには戸惑いと恐怖が滲んでいた。
沙織が彼の手をそっと取った。その手の温もりが、清六にわずかな安心感を与えた。
「何があっても、清六くんは清六くんよ。それだけは変わらない。」
彼女の言葉には優しさと確信が込められていた。その一言に清六は救われる思いがした。彼は感謝の笑みを浮かべながら、小さく頷いた。
***
タクシーは高速道路に入り、久留米へ向かって走り続けていた。窓から差し込む春の日差しが車内を柔らかく照らしている。その穏やかな光景とは裏腹に、清六の心には不安と緊張が渦巻いていた。
「少し休んだ方がいいわ。」
凪子がアドバイスした。その声には冷静さと気遣いが滲んでいた。
「大分に着いたら、すぐに行動を始めるから。」
清六は頷きながら窓の外を流れる景色に目を向けた。これから彼らを待ち受けるものは何なのだろうか――ソラティア研究所には、自分自身のアイデンティティに関わる秘密が隠されているのだろうか。そして、「FCT-1」とは何を意味するのか…。
沙織の肩が彼の腕に触れたまま、彼女はいつの間にか居眠りを始めていた。その安らかな寝顔を見て、清六は複雑な気持ちになった。
彼女を危険な目に遭わせてしまっているという罪悪感と、彼女がそばにいてくれるという安心感――その相反する感情が胸中で交錯していた。
タクシーは初夏の強い陽光を浴びながら、次の目的地へ向かって走り続けた。
清六の旅はまだ始まったばかりだった。その先には未知なる真実と、彼自身の存在意義を問う答えが待ち受けている。