第4章:大分への決意
その夜、清六は眠れなかった。ベッドに横たわりながら、春日凪子との会話を何度も思い返していた。
「ソラティア研究所…とり天…プロトコル実行…」
断片的な言葉がパズルのピースのように浮かび上がる。しかし、それらは完全には繋がらず、清六の頭の中で混乱を引き起こしていた。
清六は布団から起き上がり、窓辺に立った。福岡の夜景が窓の外に広がっている。その街灯りはどこかぼんやりとしていて、その先にある大分という土地を想像させた。夜空には満月が冷たい光を放ち、その光が彼に静かな決意を呼び起こした。
時計を見ると午前2時を回っていた。誠司はとうに眠りについているだろう。そのことを確認するように耳を澄ませると、家全体が静寂に包まれていることが分かった。
(養父が何か隠しているなら、自分で真実を探り出すしかない。)
清六はふと決心した。その思いは、自分自身への挑戦でもあり、この先待ち受ける未知への覚悟でもあった。
***
静かに部屋を出て、階段へ向かう。木製の階段が軋まないよう慎重に一歩一歩足を運ぶ。その音すらも夜の静けさの中では大きく響くように感じられた。リビングを通り過ぎ、「天野書房」の奥にある誠司の書斎へ向かった。その扉の前で一瞬立ち止まり、深く息を吸い込む。
(ここで何か見つけられるだろうか…?)
胸中で湧き上がる不安と期待感。それでも清六は手を伸ばし、そっと扉を押し開けた。
書斎のドアは閉まっている。清六は息を潜め、慎重にドアノブを回した。鍵はかかっていなかった。誠司は普段から清六を信頼していて、書斎に鍵をかけることはなかったのだ。
「すみません、お父さん…」
清六は小さく呟き、書斎に足を踏み入れた。その言葉には申し訳なさと、それでも真実を知りたいという強い意志が込められていた。
部屋の中には古書の香りが漂っていた。壁一面の本棚、中央の木製デスク、そして窓際の小さなソファ――誠司の生活の痕跡が詰まった空間だ。
静寂に包まれたその場所は、清六にとってどこか神聖な雰囲気すら感じさせた。
清六は少し躊躇したが、意を決してデスクへ向かった。デスクの上には整然と書類が並べられている。誠司は几帳面な性格で、いつも書類を種類ごとに分類していた。その整然とした配置が、彼の慎重さと責任感を物語っていた。
清六は慎重に引き出しを開けていく。
古い領収書、書店の仕入れ伝票、税金関係の書類――どれも普通の古書店経営に関するものばかりだ。
それらは誠司の日常そのものを映し出しているようだった。しかし、その中に隠された何かがあるという予感が清六の胸中で膨れ上がっていった。
「何か手がかりはないのか…」
清六は諦めかけていた。引き出しを一つ一つ開けていくも、出てくるのは普通の書類ばかりだった。しかし、最後の引き出しを開けた瞬間、思わず息を呑んだ。
一番下の引き出しには、鍵のかかった小さな金属製の箱が収められていた。
「鍵…鍵はどこだろう。」
清六は周囲を見回した。デスクマットの下、本棚の隙間、ペン立ての底…。養父・誠司の几帳面な習慣を思い返しながら、可能性のある場所を探していった。
そして、デスク横に飾られた家族写真に目が留まった。
清六が10歳の頃に誠司と釣りに行った時の一枚だった。その裏側を確認すると、小さな鍵がテープで貼り付けられていることに気づいた。
「いつからこんな…」
清六は胸中で葛藤しながらも鍵を手に取り、金属製の箱に差し込んだ。カチッという小さな音とともに箱が開く。その瞬間、清六は息を飲んだ。
中には数枚のパンフレットと封筒が収められていた。パンフレットには「大分県観光案内」「別府温泉郷」といったタイトルが踊り、大分の風景写真が印刷されている。
「どうして大分のパンフレットを…?」
清六の喉が渇き、声がかすれた。封筒の重みが掌に鉛のように沈み、指先が冷たくなっていくのを感じた。
白い封筒を手に取ると、左上に見覚えのないロゴが浮かび上がる。
円形の枠に絡みつくように「S」の文字がデザインされ、その外周に「SOLATIA INSTITUTE」の文字列。まるで遺伝子の二重螺旋を模したような意匠が、不気味な威圧感を放っていた。
「ソラティア研究所…」
胸の奥で鈍い痛みが脈打つ。清六は震える手で封筒を開け、中の書類を引きずり出すように取り出した。
紙束の最上部に刺さったクリップが光る。「FCT-1 状態報告書 極秘」の文字が視界に飛び込んだ瞬間、耳元で電子音のような高音が鳴り響いた。
***
報告日:20XX年6月15日被験体:FCT-1(天野清六)年齢:5歳状態:安定。前回の活性化実験から完全に回復。記憶消去処置は成功と思われる。担当:椎葉彩乃
所見:FCT-1は他のシリーズと比較して安定性が高く、活性化後の回復も早い。「とり天」遺伝子(遺伝子マーカーCT-09)の発現は予想以上に成功。味覚神経経由のトリガー反応(特定香気成分への過敏反応)が確認された。養育環境での適応も良好。引き続き天野誠司氏による監視下での生活状況の報告を待つ。
***
紙面が揺れる。自分の手の震えに気づいた清六は、報告書をデスクに押しつけるようにして読み進めた。視界の端が金色に滲み、養父の笑顔と実験室の白い壁が重なって見える。
(記憶消去…?監視下…?)
喉の奥で鉄の味が広がる。
幼い頃から感じていた「空白」の正体が、この冷たい文字列で埋められていく。報告書の隅に印字されたDNA配列図が、自分という存在を数値化しているように感じた。
「お父さん…あなたはずっと…」
頬を伝う冷たい滴が書類に落ち、インクがにじんだ。窓の外で風が木々を揺らす音だけが、歪んだ現実を強調するように響いていた。
報告書を読み進めるうちに、視界が金色に滲んでいった。
DNA配列図(CT-09マーカー)と「記憶消去処置」の文字が交互に踊る。スマホの画面に映った自分の指紋が、報告書の遺伝子塩基配列(5'-ATGCTAGCT...-3')と奇妙に同期しているように見えた。
「僕は…実験体だったのか…?」
膝が砕けるように崩れ落ちる。
床に散乱した書類の上で、FCT-1の識別コード(IDSLT04-768DNA)が無機質に光る。養父・誠司の笑顔と、実験室の白い壁が網膜に焼き付いて離れない。
次のページに添付された写真には、5歳の清六が無菌室のような空間に立っていた。
左腕には静脈注射用のパッチ(GFO認証シールNo.421)が貼られ、背景の電子掲示板には「連鎖不平衡率82%・発現安定度AA」の数値が表示されている。
「安心…センター…?」
清六はスマホを取り出し、写真を撮影した。同様に重要と思われる報告書のページもいくつか撮影する。すべてを持ち出すことはできないが、証拠は必要だった。
> トリガー条件:香気成分C12H24O2(フライドチキン抽出物)
> 発現遺伝子:味覚受容体TAS2R38変異型
> 監視体制:養育者(天野誠司)月次報告義務
冷房の効いた部屋で、額の汗が書類を濡らす。
幼少期の記憶空白(5歳以前の想起不能)が、数値化された実験データで埋められていく。窓の外で不意に響いた鳥の羽音が、DNA二重螺旋の切断音に聞こえた。
書類を元通りに戻し、金属製の箱を閉めて元の場所に戻す。清六は部屋を出る前に、もう一度書斎を見回した。この部屋で静かに仕事をする誠司の姿を思い出す。
養父は常に優しく、彼を大切にしてくれた。しかし同時に、重大な秘密を隠し続けていたのだ。
書棚に並ぶ『地域科学研究所報告書』の背表紙には大分市東春日町の住所が記されていた。凪子が言及した「別府市郊外」の研究所位置と奇妙に符合する。
「なぜ…?」
清六は小さく呟き、部屋を後にした。
***
翌朝、清六は目の下にクマを作って食卓に現れた。誠司は心配そうに彼を見つめた。
「どうしたんだ?よく眠れなかったのか?」
「ああ、ちょっと…レポートのことで頭がいっぱいで」
清六は嘘をついた。目を合わせられない罪悪感があった。
「そうか…無理しないようにね」
***
朝食を終え、清六は大学に向かった。
しかし、その日彼が向かったのは教室ではなく、大学の裏庭にある人気のない小さな公園だった。沙織は既に待っていた。
「何かあったの?メッセージが急だったから。」
沙織が心配そうに尋ねた。清六は周囲を確認し、人気のないベンチに座った。
「昨夜、お父さんの書斎を調べたんだ。」
「え?」
「見つけたよ…ソラティア研究所の書類を。」
清六はスマホを取り出し、撮影した写真を沙織に見せた。彼女は画面をスクロールしながら、次第に驚愕の表情になっていった。
「FCT-1…これ、清六くんのこと?」
「そう思う。僕の幼い頃の写真もあったし…」
沙織は言葉を失ったように清六を見つめた。その視線には驚きと不安が入り混じっていた。
「記憶消去処置って…なんなの?」
清六は深いため息をつきながら答えた。
「わからない。でも、僕の5歳以前の記憶がないのは、そのせいかもしれない。」
彼は一瞬言葉を詰まらせた後、続けた。
「僕、ずっと交通事故のせいだと思ってた。お父さんがそう言ってたから…」
沙織は彼の手を取った。「大変なことがわかったわね…」
清六は深く息を吸い込み、真剣な表情で言った。「だから、決めたんだ。」
「大分に行く。ソラティア研究所を見つけ出して、真実を知るんだ。」
沙織はためらいなく答えた。「私も一緒に行くわ。」
清六は眉をひそめながら言った。「でも、危険かもしれないよ。」
「だからこそ、一人じゃダメ。私たち、友達でしょ?」
彼女の決意に満ちた表情に、清六は感謝の気持ちで胸が熱くなった。
「ありがとう、沙織。」
***
清六はスマホを取り出し、春日凪子からもらった名刺を確認した。
その番号に電話をかけると、数回のコールの後に凪子の声が聞こえた。
「もしもし、春日です。」
「凪子さん、天野清六です。昨日、大学で…」
「ああ、天野君。連絡してくれると思っていたわ。」
凪子の声には少し安堵が混ざっていた。
「大分に行きます。ソラティア研究所について調べたいんです。」
「そう…決心したのね。」
凪子は少し間を置いて続けた。「何かあったの?」
「はい…」
清六は昨夜書斎で発見した内容について簡単に説明した。
報告書に記されていた「FCT-1」という被験体名や、自分自身が実験体だった可能性について話すと、凪子は静かに聞いていた。その沈黙には慎重さと驚きが混じっているようだった。
「わかったわ。私も案内するわ。いつ行く?」
「できるだけ早く…今週末は?」
「いいわ。金曜日の午後、福岡駅で待ち合わせましょう。」
「ありがとうございます。」
電話を切った後、清六と沙織は具体的な計画を立て始めた。
「お父さんには何て言う?」
沙織が少し心配そうに尋ねた。
「大学の研修旅行…文学部の有志で大分の文学館を訪れるって。」
清六は申し訳なさそうに答えた。誠司に嘘をつくのは心苦しかったが、今は真実を知ることが優先だと自分に言い聞かせた。
「大分には何泊するの?」
「土日の二泊三日で考えてる。でも、もし何か見つかれば、もう少し延ばすかもしれない。」
清六の声には、計画への期待と不安が入り混じっていた。
「わかった。私も家族に同じこと言っておくわ。」
沙織は立ち上がり、清六の肩にそっと手を置いた。その仕草には、彼を励まそうとする優しさが込められていた。
「大丈夫。一緒に真実を見つけましょう。」
清六は頷いた。その目には覚悟が宿っていた。
この旅が自分自身の過去をどれほど変えることになるのか――その答えはまだ霧の中だった。しかし、その霧の向こう側に何か重大なものが待ち受けているという予感だけは確かだった。
***
金曜日の午後、清六は誠司に別れを告げた。
「行ってきます。日曜の夜には帰ってくるよ。」
誠司は一瞬言葉を詰まらせた後、穏やかな声で答えた。
「気をつけてね。大分は遠いから。」
その表情には、何か言いたげな影があるように見えた。清六は胸の奥で小さな違和感を覚えた。もしかすると、誠司は自分の本当の目的を知っているのではないか――そんな疑念が頭をかすめた。
「わかってる。迷惑はかけないよ。」
清六は背中にリュックを背負い、家を出た。
福岡駅に向かう途中、彼はスマホを取り出した。沙織からメッセージが届いていた。
「駅に着いたよ。凪子さんも来てる。」
清六は返信した。「今向かってる。すぐ着くよ。」
***
福岡駅に到着すると、清六は沙織と凪子が待っているのを見つけた。
沙織はカジュアルなワンピース姿で、小さなキャリーケースを持っている。その隣で凪子はジーンズにシャツ姿、肩にはカメラバッグをかけていた。その装いは、彼女がただの同行者ではなく、この旅に特別な使命感を抱いていることを示しているようだった
「準備はできてる?」沙織が尋ねた。
「うん。一応ね。」
清六は頷きながら答えた。その声には、期待と不安が入り混じっていた。
「お待たせしました。」
清六が声をかけると、凪子は腕時計を見ながら微笑んだ。
「ちょうどいい時間ね。大分行きの特急はあと10分で到着するわ。チケットは取ってあるから安心して。」
彼女は三人分の切符を手渡した。その動作には無駄がなく、彼女の計画性と冷静さが伝わってきた。
「費用は後で清算します。」
清六が申し訳なさそうに言うと、凪子は手を振りながら答えた。
「気にしないで。これは私の取材費よ。それより、昨夜の写真を見せてもらえる?」
清六はスマホを取り出し、昨夜撮影した報告書や写真を凪子に見せた。彼女は画面をスクロールしながら真剣な表情になり、その目には慎重さと驚きが入り混じっていた。
「FCT-1…」
凪子は小さく呟いた。その言葉には重みがあり、それがこの旅の重要性をさらに際立たせているようだった。
沙織がその様子を見つめながら尋ねた。
「何かわかったんですか?」
凪子はスマホ画面から顔を上げて答えた。
「まだ断片的だけど、このコード…『FCT-1』という被験体名には何か特別な意味があると思うわ。それと『安心センター』という言葉も気になる。」
その言葉に清六の胸中で不安と期待が交錯した。この旅が自分自身の過去とどれほど深く関わるものになるのか――その答えはまだ霧の中だった。
三人は改札を通り、ホームへ向かった。大分行きの特急列車がゆっくりとホームに滑り込んでくる。その音が、不安定な未来への扉を開く合図のように響いた。
「これから何が待っているか分からないけど…」
清六は小さく呟いた。その声には、自分自身への問い掛けも含まれていた。沙織が彼の手をそっと握った。
「大丈夫。一緒よ。」
凪子も頷きながら言った。
「私も協力するわ。ソラティア研究所の秘密を暴くことには、ジャーナリストとしても大きな意味があるから。」
***
「行こう。」
清六は決意を固め、凪子と沙織とともに列車へ乗り込んだ。
座席に腰を下ろすと、窓から見える福岡の街並みが徐々に遠ざかっていく。その景色はまるで過去との決別を象徴しているかのようだった。
列車が速度を上げるにつれ、清六の心には不安と期待が入り混じった感情が渦巻いていた。その隣で沙織は静かに窓の外を見つめている。その表情には不安もあったが、それ以上に彼とともに進む覚悟が滲んでいた。
凪子はカメラバッグからノートを取り出し、何かを書き込んでいる。その動作には迷いがなく、この旅への強い意志が感じられた。
清六は窓越しに広がる景色を見つめながら、小さく呟いた。
「未知の真実…待っていてくれ。」
列車は力強いエンジン音とともに、大分へ向けて走り出した。その先には何が待ち受けているのか――それはまだ誰にも分からなかった。