第2章:覚醒の兆し
朝日が差し込む部屋の中で、天野清六は目を覚ましていた。
昨夜の奇妙な電話のことが頭から離れない。
「プロトコル実行の時期」という言葉は、聞き覚えがないはずなのに、胸の奥で不思議な懐かしさを感じた。その矛盾した感覚に清六は眉をひそめた。まるで忘れていた記憶が微かに蘇りかけているような奇妙な感覚だった。
スマホを手に取り、「ソラティア研究所」と検索してみる。
しかし、画面には「情報が見つかりません」という冷たい文字が浮かぶだけだった。
その無機質な表示は、まるで何か意図的に隠されているような不気味さを感じさせた。「一体なんなんだ…」清六は溜息をつきながらスマホを置き、自分自身への疑問だけが残った。
***
身支度を整え階下へ降りると、朝食のテーブルには養父・誠司が用意したパンとサラダが並んでいる。誠司は新聞を読みながら穏やかな表情で挨拶した。
「おはよう、清六。よく眠れたか?」
その平和な光景は、清六の胸に渦巻く疑念とは対照的だった。
「おはよう、お父さん。」
清六は昨晩の電話について尋ねるべきだろうか?一瞬迷った。
しかし、その問いを口にする勇気は湧かなかった。誠司が何も触れないこと自体が答えなのではないかという気がしたからだ。誠司も昨夜の電話には触れず、普段通り世間話を続けている。その穏やかな声だけが部屋に響いていた。
「今日は大学で何の授業だ?」
「文学史と社会学概論。それが終わったら図書館に行く予定。」
「そうか。夕食までには帰ってくるんだぞ。」
誠司の声はいつも通り穏やかだった。しかし、その言葉の裏に何か特別な意味が隠されているような気がして、清六は答えながらも胸の奥に小さな不安を覚えた。
***
西福大学へ向かう道すがら、初夏の暖かな空気が福岡の街を穏やかに包み込んでいた。街路樹の青々とした葉が風に揺れ、遠くからは鳥のさえずりと車のエンジン音が交じり合う。爽やかな風が吹き抜ける中でも、清六の心には昨夜から続く謎への引っ掛かりが残っていた。
「プロトコル実行」という言葉は頭から離れない。それは単なる偶然なのか、それとも自分自身に関わる何か重大なものなのか。その答えはまだ見つからないままだった。
文学部棟へ到着すると、廊下で背後から聞き慣れた声がした。
「清六くーん!」
振り返ると、水谷沙織が小走りで近づいてきた。肩まで伸びた茶髪が揺れ、手には教科書らしきものを抱えている。その笑顔は春の日差しにも負けないほど明るかった。
「おはよう、沙織。」
「おはよう!昨日のレポート、無事に提出できたよ。ありがとうね!」
沙織は満面の笑みを浮かべながら、少し首を傾けて清六の顔を覗き込む。その仕草には、彼女特有の好奇心と優しさが滲んでいた。その明るさに少し救われる思いがした。
「良かった。内容は良かったから、形式だけ整えれば十分だったし。」
「ねえ、何か考え事?」
沙織は鋭い視線で清六を見つめた。その観察力にはいつも感心させられる。
「いや…ちょっと変な電話があって。」
清六は一瞬言葉を詰まらせた。昨夜の出来事をどう説明すればいいのか迷いながらも、「ソラティア研究所」や「プロトコル実行」という言葉について簡単に話した。
それを聞いた沙織は眉をひそめながら、小さな声で答えた。
「聞いたことない名前だけど…なんだか映画みたいだね。でも、それってちょっと怖いよね。」
沙織の言葉に清六は頷きながらも、自分自身もその言葉が何を意味するのか分からず混乱していた。その不安は消えるどころか、さらに深まっていくようだった。
その時、講義室に入ってきた教授が静寂を破るように教壇に立った。沙織は慌てて席につきながら、「また後で話そうね」と小声で言い残した。清六も席につきながら、頭の中で再び「プロトコル実行」という言葉が反響していた。
講義中も清六の心は落ち着かなかった。教授が夏目漱石の『こころ』について語る声は耳に届いているものの、その言葉は清六自身の心の奥深くにある問いを刺激するだけだった。『先生』という人物への敬愛や葛藤について考えるべき場面で、『自分は何者なのか』という疑問ばかり浮かんでくる。それは漱石の小説と奇妙な共鳴をしているようにも感じた。
午後になり授業を終えると、西福大学キャンパスには夏の日差しが降り注ぎ、学生たちの笑い声や談笑が響いていた。文学部棟前では、新緑の木々が風に揺れ、清六は一瞬だけその解放感に浸った。
「おい、清六!沙織!カラオケ行こうぜ!」
経済学部の健太が大声で呼びかけた。その隣ではゼミ仲間の真理が微笑みながら、「健太ったらいつも急なんだから」と呆れたように言った。康介は腕を組みながら、「まあ息抜きにはいいんじゃないか?」と提案に乗った。
「いいじゃん!息抜きになるよ。」
沙織はすぐに提案に乗り、その明るさにつられるように清六も頷いた。
彼女の笑顔には逆らえず、清六も渋々同意した。しかしカラオケ店へ向かう途中で健太が突然提案を変えた。
「あそこの“チキンハウス”寄ろうぜ!新しくできた店なんだ。」
健太は目を輝かせながら指差した。その勢いに押されて、一行は足を止めた。指差す先には、小奇麗なフライドチキン店があった。「チキンハウス」と書かれた看板から漂う揚げ物の香りが食欲をそそる。
***
店内へ入ると、赤と白を基調としたポップな内装が目に飛び込んできた。壁にはネオンライトが輝き、ジュークボックスから軽快なロック音楽が流れている。揚げ物特有の香ばしい匂いが鼻をくすぐり、一行全員の感覚を刺激した。
沙織は「いい匂い!早く食べたいね」と笑顔で店内を見渡し、真理は「アメリカンな雰囲気っていいよね」と壁に飾られたポスターに目を留めた。
一方、康介は「揚げ物ってカロリー高そうだな」と苦笑しながらも席についた。
清六は店内の賑やかな雰囲気に少し圧倒されながらも、その心地よさに引き込まれるような感覚を覚えた。昨夜から続くモヤモヤを一瞬だけ忘れられるような気がした。
「九州名物 とり天」と書かれたメニューの文字が視界に飛び込んだ瞬間、清六の胸の奥で何かが蠢いた。指先がメニューを掴む力が自然と強まり、紙面に皺が寄る。
「僕、とり天にするよ。」
口が勝手に動いた。喉の奥で鉄の味が広がり、掌に冷や汗が滲む。なぜこの選択をしたのか――理屈では説明できない引力が内臓を掴んで離さない。
厨房から運ばれてくる揚げ物の香りが濃厚になるにつれ、後頭部に鈍い圧迫感が迫ってきた。油の匂いが鼻腔を刺激し、視界の端が金色に揺らめき始める。突然、鋭い痛みが右こめかみを貫き、箸を握った指が痙攣した。
「ぐっ…!」
額をテーブルに打ちつけそうになり、左手で必死に頭蓋骨を押さえる。
耳元で電子ノイズのような高音が鳴り響き、沙織の「大丈夫?」という声は歪んで聞こえる。視界全体が溶けた蜂蜜のように黄金色に染まり、「とり天」という単語だけが黒い文字で浮かび上がる。
意識の底から湧き上がる違和感。これは自分の思考ではない――誰かの掌の上で操られる人形のような、生温かい無力感が四肢を這い上がってきた。
清六の膝がガクンと持ち上がった。足底が床に吸い付くような感覚と同時に、脊椎が第三者の手で引き上げられるような違和感。歩行リズムが秒針のように正確で、左膝34度屈曲・右足67cm前進という数値が脳裏に浮かぶ異常な制御感覚。
「清六くん!どうしたの!?」
沙織の声は水中で聞こえるように歪んでいた。
厨房への15歩の距離が幾何学模様のように正確に計測され、ドアノブに触れる指先の温度が32.4度と認識される。金属の冷たさが掌の神経を刺激する瞬間、
(これは私の運動野の信号ではない)
思考だけが遅れて追いかける。厨房内の照明が手術室の無影灯のように眩しく、調理場の蒸気が皮膚を焦がす。シェフの肩を押した際の接触圧力4.2kgfが筋肉記憶に記録され、包丁を握る指紋が柄の微細な凹凸に完全一致する。
鶏肉を切断する角度が常に22度維持され、筋膜の分離が分子レベルで完璧に行われる。揚げ油の温度計が187度を示すやいなや、左手が自動で火加減を調整。衣の粘度が48.9ポイズであることを皮膚感覚で認知しながら、
(この身体仕様書は誰が書いた?)
という疑問だけが浮かぶ。汗が首筋を伝う軌跡が放物線計算され、滴が床に到達する0.8秒前に厨房入口で康介が叫ぶ声がフーリエ変換されて理解される。
「清六!お前料理経験あったのか!?」
指先が鶏肉を180度回転させるタイミングが、油の酸化速度と空気中の湿度を考慮して最適化されている。この異常な能力発現が、逆説的に恐怖を増幅させる。
「清六くん!どうしたの!?」
沙織の叫ぶ声は、深い水底から響いてくるようにぼんやりと遠く、清六の耳にはかすかな残響としてしか届かなかった。清六の意識は自分の身体から切り離され、どこか遠くに漂っているようだった。手元では最後の一切れを油から取り出す動作が、自分の意思とは無関係に進んでいく。
その瞬間、視界が急にクリアになり、耳元で鳴り響いていた奇妙な音も消えた。
清六は自分自身に戻った感覚を覚え、混乱した表情で周囲を見回した。
「え…僕…何を…?」
厨房内には驚きと恐怖が入り混じった空気が漂っていた。
店員たちは動けずに清六を見つめている。
その目線の先には、調理台に並べられた黄金色に輝く「とり天」があった。
香ばしい匂いが漂い、その完成度は誰の目にも明らかだった。
その時、店長らしき人物が厨房へ入ってきた。
彼は怒りというよりも驚きに満ちた表情で清六と調理台を交互に見つめている。
「これ…君が作ったのか?」
店長は信じられないというように呟きながら、一切れを手に取り口へ運んだ。
その瞬間、彼の目が大きく見開かれた。
「信じられない…こんな完璧な揚げ物は初めてだ。」
店長の声には驚嘆と畏敬が混じっていた。
しかし、その言葉を聞いた清六は、自分自身への恐怖を抑えきれなかった。
自分が何をしたのか――そしてなぜそれができたのか――まったく理解できなかったからだ。
店長は興奮を抑えきれない様子で言葉を続けた。
「君、一体どこで修行したんだ?この衣と揚げ方…プロでもここまでできる人間はそういないぞ。」
清六は困惑したまま首を振った。
「僕には料理なんてほとんど経験がありません。ただ…突然体が勝手に動いて…」
その言葉に店長はさらに驚いた表情を浮かべたが、厨房内の空気はそれ以上に異様だった。店内では客たちもざわめき始め、「あれは何だ?」「すごい香りだ!」という声が次々と聞こえてくる。揚げ物特有の香ばしい匂いが空間全体を包み込み、健太や康介も呆然と立ち尽くしていた。
「お前、本当に料理できたことないのか?」
康介が驚き混じりの声で尋ねる。その問いに清六は視線を泳がせながら答えた。
「いや、本当にわからないんだ。ただ頭痛がして、それから…」
沙織は恐る恐る清六に近づき、調理台から一切れ取って口に運んだ。その瞬間、彼女の目が大きく見開かれた。
「これ…本当に美味しい!こんな味、初めて!」
沙織は驚きながらも嬉しそうな表情を浮かべた。その笑顔には純粋な感動が滲んでいる。
「清六くん、こんな才能隠してたなんて知らなかったよ。」
清六はその言葉に戸惑いながらも苦笑した。
「僕も知らなかったよ…」
しかし、その言葉とは裏腹に、清六の胸には得体の知れない不安が渦巻いていた。この異常な能力――それが自分自身のものではないという確信だけが、頭から離れなかった。
清六は自分の手を見つめた。その手は微かに震えており、自分自身のものとは思えないほど異質な存在感を放っていた。指先には揚げ物の油が染み込んだような感覚が残り、その感触が彼に不安を呼び起こしていた。
一方、店長は清六の作った「とり天」をサンプルとして客たちへ振る舞い始めた。店内には歓声と驚きの声が次々と響き渡る。「最高だ!」「こんなの食べたことない!」その反応に店内の熱気は高まっていく。しかし、清六自身には喜びよりも恐怖心しか残されていなかった。
清六は沙織と向き合い、小さな声で言った。
「沙織、僕…なにが起きたのか分からないんだ。体が勝手に動いて…まるで別人になったみたいに」
沙織は真剣な眼差しで清六を見つめ返した。
「何か…おかしなことが起きてるよね。昨日の電話といい、今日のことといい…」
清六は深く息を吸い込んだ。一連の出来事が、彼の平凡な日常に亀裂を入れ始めていることを感じていた。
「帰ろう。お父さんに相談してみるよ」
沙織は頷き、二人は健太たちに事情を説明して先に店を出た。
***
夕暮れ時になり始めた福岡市内には柔らかな光が広がっていた。
街路樹の葉が風に揺れ、遠くから聞こえる車のエンジン音が静かな背景音となっている。その穏やかな景色は、清六にとってどこか不安定で非現実的なものに感じられた。
(この力は何だ?僕に何をさせようとしているんだ?)
清六は心の中で問いかけた。歩く足取りは軽いはずなのに、地面がどこか遠く感じられる。まるで自分自身の身体が現実から切り離されているような感覚だった。
沙織はそんな清六の横顔をちらりと見ながら、静かに口を開いた。
「清六くん、大丈夫?顔色悪いよ。」
その言葉に清六は一瞬我に返り、「うん、大丈夫」と微笑もうとした。
しかし、その笑顔はどこかぎこちないものだった。
自分自身の日常が崩壊し始めている――その恐怖が胸を締め付ける。
だが、その恐怖の奥底には、湧き上がる不安と奇妙な高揚感が混ざり合っていた。
まるで、自分の中に眠っていた何かが、今まさに目覚めようとしているかのようだった。