第18章:システム崩壊
国際食品フォーラムの会場から全員が避難して間もなく、地下展示場で起きた爆発の轟音が建物全体を揺らし始めた。
壁がきしみ、床が微かに震える。焦げた匂いが空気に混じり、緊張が一気に高まる。
「これは…」
霧島が建物を見上げると、その構造が不気味に揺れ始めていた。
「みんな、さらに離れろ!」
霧島の声が張り詰め、全員が息を呑んで会場から駆け出す。その時、清六のトランシーバーが震える手の中で鳴った。
「清六、聞こえるか?」
誠司の声は息を切らし、切迫していた。
「お父さん?どこにいるの?」
「会場の制御室だ。緊急事態が発生している」
誠司の声には明らかな焦りがにじんでいる。
「『共鳴タンク』の破壊がソラティア研究所のメインシステムと連動していた。『自爆プロトコル』が作動した」
「自爆…?」
清六の背筋に冷たいものが走る。
「何のことだ?」
霧島がトランシーバーを奪うように手に取った。
「データ保護のための最終手段だ」
誠司の説明が続く。息遣いが荒い。
「プロジェクトの機密が漏洩する危険がある場合、施設を自動的に崩壊させる仕組みが組み込まれていた。由布厚生が密かに設置したものだ」
「くそっ!」
霧島は歯ぎしりし、拳を握りしめる。
「どれくらいの時間がある?」
「約20分。その後、建物の主要構造部が崩壊する」
会場内からは人々の叫び声や足音が聞こえ、誰かが「助けて!」と叫んでいた。霧島はすぐに避難誘導の指示を飛ばす。
「みんな、行動を開始しろ!」
霧島は即座に指示を出した。エージェントたちが一斉に駆け出し、無線の指示が飛び交う。建物の軋む音と遠くの爆発音が重なり、地面が微かに震えていた。
「建物内に残っている者がいないか確認し、完全避難を促す!」
「お父さん、あなたも避難して!」
清六はトランシーバーを握りしめ、声を張り上げた。
「ああ、すぐに向かう。だが、まず確認しなければならないことがある」
誠司の声は息を切らしながらも、言葉の一つ一つに強い意志がこもっていた。
「別府理事長がデータ室に向かったようだ。彼は『私の研究だけは守る』と言っていた」
「危険です!」
彩乃はトランシーバーを握りしめ、唇を噛んで叫ぶ。
「私が彼を説得します。どこにいるか教えてください」
「いや、彩乃」
誠司の声は優しくも断固としていた。
「君は外で皆を守りなさい。彼は私が止める」
「でも…」
彩乃は言葉に詰まり、やがて静かに頷いた。
「…わかりました。気をつけて」
「清六」
誠司の声が再び聞こえる。
「みんなを安全な場所に連れて行くんだ。私は必ず戻ってくる」
「約束だよ、お父さん」
清六の声が少し震えた。沙織は不安げに清六の腕を掴む。
「必ず戻ってきて」
通信が切れた瞬間、全員が息を呑み、建物の方をじっと見つめた。建物はさらに揺れを増し、内部から煙が空に立ち上っていた。静寂が辺りを包み、次の行動を決める緊張が高まっていた。
***
「みんな、安全な場所に移動するぞ」
霧島が命じた。建物の軋む音や遠くの爆発音、避難者たちのざわめきが公園まで響いてくる。
「凪子、沙織、清六、そして千尋と玲。彩乃は私たちと共に避難誘導を手伝ってくれ」
一行は分かれて行動を開始した。凪子は状況を記録しつつ安全地帯へ向かい、清六は回復しつつある千尋を支え、沙織と玲と共に避難を始めた。
「本当に大丈夫かな…」
沙織が不安そうに建物を見上げる。清六は強がるように微笑み、千尋の肩にそっと手を置いた。
「お父さんは…」
「大丈夫。彼は約束したから」
玲が二人を促す。
「私たちも急ぎましょう。千尋の容態も安定していないし、ここにいても何もできないわ」
四人は避難所に指定された公園へと向かった。千尋は意識を取り戻しつつあったが、まだ完全には回復していない。
「私のせいで…」
千尋が弱々しい声で呟く。清六はしっかりと目を合わせて言った。
「違うよ。君は被害者だ。由布と別府が悪いんだ」
公園には既に多くの避難者が集まり、GFOのエージェントたちが秩序を保っていた。
***
一方、会場内部では別の戦いが続いていた。
誠司は制御室から地下のデータ室へと急ぐ。建物は徐々に崩壊し始め、天井から破片が落ち、スプリンクラーの水滴が髪を濡らす。
警告音と機械の駆動音が混じり合う中、誠司はデータ室の扉を開けた。
「別府!」
データ室には大型コンピュータの前で必死にデータをコピーしようとする別府理事長の姿があった。
「出ていけ、天野!」
別府は目を血走らせ、振り返りもせず叫ぶ。
「邪魔をするな。この研究データは私の人生そのものだ」
「もう手遅れだ」
誠司は一歩も動かず、静かな声で現実を突きつける。
「建物は崩壊する。データを持ち出す時間はない」
「黙れ!」
別府の声には狂気が混じっていた。
「20年の研究が水の泡になるというのか?由布のような野心家に利用されただけの研究が?」
別府は肩を落とし、モニターの進捗バーを睨みつけていた。警告音が無情に鳴り響き、部屋全体が大きく揺れる。
誠司は別府に近づき、静かな声で言った。
「別府…あなたは優秀な科学者だった。だが、研究に囚われすぎた」
「囚われた?」
別府は苦笑し、手がわずかに震えていた。
「私はただ真実を追求しただけだ。料理技術の遺伝子レベルでの保存…それは文化保存の革命的手段になるはずだった」
「そして、人体実験に手を染めた」
誠司の言葉に、別府の顔に一瞬だけ後悔の色が浮かぶ。
「最初は純粋だった。だが、由布の資金と政治力に頼るうちに…」
彼は言葉を切り、データ転送の進捗を確認する。モニターのバーはまだ20%のまま点滅していた。
「間に合わない」
誠司は冷静に言った。
「あと15分で建物は崩壊する。今なら逃げられる」
「逃げても何もない」
別府の声は諦めに満ちていた。肩を落とし、視線を床に落とす。
「私の研究、私の人生…すべてがここにある」
その時、爆発音が近くで響き、部屋が激しく揺れた。天井から大きな破片が落ち、誠司は咄嗟に身をかわす。
「もう時間がない!一緒に出るぞ!」
誠司は別府の腕を掴み、強く引っ張った。別府は一瞬抵抗したが、誠司の決意に満ちた目を見て、やがて観念したように頷いた。
「わかった…行こう」
二人は急いでデータ室を出た。廊下は煙で満ち、視界が悪い。誠司は記憶を頼りに出口への道を探る。
その時、重い足音が廊下に響いた。二人が振り返ると、煙の中から由布厚生が現れた。目は鋭く光り、口元には冷たい笑みが浮かんでいる。
「由布…!」
別府が驚きの声を上げる。
「どうやって…」
「私を甘く見るな」
由布は冷たく言った。
「私は政府の最高レベルのコネを持っている。GFOごときに長く拘束されるわけがない」
由布は目を血走らせ、データ室を指さした。
「研究データは?」
「まだ転送中だ」
別府が肩を落として答える。モニターの進捗バーは20%のまま、警告音が無情に鳴り響く。
「だが、間に合わない。建物は崩壊する」
「ならば、私が完了させる」
由布は二人の間を強引に通り抜け、データ室に向かおうとする。
「止めろ、由布!」
誠司が彼の腕を掴む。天井からコンクリート片が落ち、煙と熱気が部屋に充満していく。
「死にたいのか?」
「私の計画が無駄になるわけにはいかない」
由布の目には異様な光が宿っていた。
「このデータさえあれば、また始められる。どこかで、誰かと…」
「狂気だ」
別府が疲れた声で言う。
「私はもうたくさんだ。人体実験、『活性化』制御…すべて間違いだった」
由布は別府を冷たく見下ろし、声を荒げる。
「軟弱者め。ならば私一人でも…」
彼は誠司の手を振り払い、データ室に駆け込んだ。その直後、大きな爆発音と共に天井が崩落し始めた。
「由布!」
誠司が叫ぶが、もう遅かった。崩れた瓦礫がデータ室の入口を塞ぎ、爆発の余波で一瞬静寂が訪れる。
「行くぞ!」
誠司は別府を強く引っ張り、急いで非常階段へと向かった。建物は本格的に崩壊し、至る所から火の手が上がる。
***
外では、避難した人々が息を呑み、建物の出口をじっと見つめていた。次々と爆発音が響くたび、誰かが小さく悲鳴を上げる。
「お父さんは…まだ?」
清六は不安に駆られ、手を強く握りしめて建物を見つめていた。沙織がそっとその手を握り返す。
「大丈夫。誠司さんなら必ず…」
その時、建物の側面から二人の人影が現れた。誠司と別府理事長だった。二人は非常階段を使って脱出したようだ。
「お父さん!」
清六は喜びの声を上げ、駆け寄った。誠司も息子の姿を見つけ、疲労の中に安堵の微笑みを浮かべる。しかし、その表情には、何か重い決断の影もあった。
安全な場所まで戻った誠司は、別府理事長をGFOのエージェントに引き渡した。別府は既に抵抗する気力を失い、静かに連行されていく。
「由布は?」
霧島が尋ねる。
「データ室で崩落に巻き込まれた」
誠司の声は重く低かった。
「彼はデータを救出しようとして…」
その言葉が終わらないうちに、建物の一部が大きく崩れ落ちた。轟音が地面を震わせ、黒煙が空高く立ち上る。20年の研究の歴史が、瓦礫と化していく。
「なんとか…」
彩乃が小さな声で呟いた。誰もがしばらく黙り込む。春の風が静かに吹き抜け、瓦礫の中にだけ過去の残響が残る。
一行が見守る中、レスキュー隊が建物に向かっていた。崩落した部分から、何かを運び出している。
「あれは…」
レスキュー隊が運んでいたのは、瓦礫の下から救出された由布厚生だった。
彼は生きてはいたが、重傷を負い、担架に乗せられていた。由布は担架の上で静かに目を閉じ、唇をかすかに噛みしめていた。目を開けた時、そこには敗北と未練の色が浮かんでいた。
「終わったんだね…本当に」
清六は呟いた。誠司は息子の肩をしっかりと握り、静かに頷く。
「ああ。『プロジェクト・ガストロノミックマター』は完全に終了した。データも施設もすべて消失した」
「私たちは…どうなるの?」
千尋が膝に手を置き、かすかに震える声で尋ねた。彼女はもう少し回復していたが、まだ完全ではなかった。
「君たちはGFOの保護下に置かれる」
霧島が優しく説明した。清六は空を見上げ、青空の向こうに広がる未来を思い描いていた。
「そして、自分の将来は自分で決める権利がある。『活性化回路』の除去手術を受けるか、その能力と共に生きるか…すべては君たち次第だ」
「選べるのね…」
玲は空を見上げた。夕焼けの光が頬を温かく照らし、静かな風が髪を揺らす。空にはオレンジ色のグラデーションが広がっていた。
「自分の運命を、自分の意思で選べる」
玲の言葉に、全員がしばらく黙り込んだ。胸の奥に、初めて得た自由の重みと喜びがじんわりと広がる。
清六は沙織の方を見た。彼女も彼を見つめ返し、微笑んだ。二人の手はまだ繋がったままだった。
「どうするの?」
沙織が優しく尋ねる。
「手術を受ける?」
清六はしばらく空を見上げ、深呼吸してから答えた。
「まだ分からない。でも…」
彼は沙織の手をぎゅっと握った。
「どんな選択をしても、僕はまだ僕でいたいと思う。文学を愛し、友達を大切にして…そして、料理も」
「私はきっと手術を受けるわ」
千尋が膝の上で手を組み、静かに言った。
「『活性化』の記憶は怖すぎる。でも…」
彼女は小さく微笑んだ。
「料理は続けたい。人を幸せにする料理を作りたい」
「私は能力を保つわ」
玲はまっすぐ前を見つめ、きっぱりと言った。
「長年共に生きてきたものだもの。それに、私はもう『活性化』をコントロールできる。この能力で、もっと良いことがしたいの」
遠くの街に灯りがともり始め、オレンジ色の空がゆっくりと夜に溶けていく。三人の影が長く伸び、未来へと続いていた。
それぞれの決断が、それぞれの未来を形作っていく。20年間続いた「プロジェクト・ガストロノミックマター」は終わりを告げ、新しい日々が始まろうとしていた。
***
日が沈み、夜空に最初の星が瞬き始めた。施設の残骸はまだ燻っていたが、炎はほぼ鎮火していた。夜風が肌を撫で、焦げた匂いがかすかに漂う。過去の遺物が灰になる中、清六たちの未来は静かに開かれていった。
「行こうか」
誠司が皆に声をかけ、肩を落としながら深く息を吐いた。
「長い一日だった。休息が必要だ」
一行は避難所を後にし、それぞれの宿泊先へと向かった。皆の足取りは重かったが、その一歩一歩に確かな希望があった。明日からは、彼らの新しい人生が始まる。
「沙織」
歩きながら、清六はそっと彼女の手を握った。
「これからも…僕と一緒にいてくれる?」
沙織は立ち止まり、清六の顔をじっと見つめた。一瞬だけ目を伏せ、やがて優しく微笑む。
「もちろん。あなたが何者であれ、私はずっとそばにいるわ」
星明かりの下、二人の影が静かに寄り添い、夜の静寂に溶けていった。




