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第12章:母と呼べない人

「天ぷら屋みれい」の周囲は淡い朝霧に包まれ、湿った空気が肌にまとわりつく。遠くで鳥の声がかすかに響き、世界が静かに目覚めていく中、清六は玲の指導の下、最終的な「活性化」制御の訓練に臨んでいた。


国際食品フォーラムまで、あと一日。もはや時間の余裕はなかった。


「集中して。もう一度」


玲の声は厳しかった。彼女はさらに強く油を熱し、天ぷらを揚げ始める。清六は深呼吸し、感覚を研ぎ澄ませた。油の香り、食材が油に触れる音、立ち上る湯気—すべてが彼の「活性化回路」を刺激する。


頭に痛みが走り、視界が黄金色に染まり始める。こめかみを押さえ、体が自然に動こうとする感覚。しかし、今回は恐怖や混乱はなかった。


「僕は清六だ…文学を愛する清六だ…」


彼は心の中で夏目漱石の文章を繰り返し、自分の「核」を強く意識した。体が自然に動こうとする感覚に抗い、自らの意志で立ち続ける。


「今度はどう?」


玲が尋ねた。


「大丈夫です。意識を保てています」


清六の声は安定していた。黄金色の視界越しに、玲の姿がはっきりと見える。これまでの訓練で、完全な意識喪失はなくなり、「活性化」状態でも周囲を認識できるようになっていた。


玲は満足そうに微笑み、ほんの一瞬だけ目元が緩んだ。


「素晴らしいわ。もう『活性化』に支配されることはないでしょう。あなたは自分の力を手に入れたのよ」


清六は胸の奥に熱いものが込み上げ、思わず拳を握りしめた。深く息を吐き、黄金色の視界が徐々に通常に戻っていくのを感じる。


「ありがとうございます、玲さん」


彼は感謝の意を込めて頭を下げた。この数日間の特訓は厳しかったが、玲は自分の中に眠る能力を解き放つ道筋を示してくれた。


朝霧の向こうに、これからの戦いへの静かな決意が漂っていた。


***


食堂には朝の柔らかな光が差し込み、湯気の立つ味噌汁や焼き魚の香りが漂っていた。沙織、凪子、霧島、そして誠司が朝食の準備をしている。


「どうだった?」


沙織が期待に満ちた表情で尋ねた。


「うまくいきました。もう『活性化』に飲み込まれることはないと思います」


「よかった…」


沙織は胸に手を当ててほっと息をつき、微笑んだ。


「あなたを信じてたわ」


仲間たちもそれぞれ安堵の表情を浮かべ、凪子は親指を立てて清六に合図した。霧島は静かに頷き、誠司は目を細めて清六を見つめていた。


朝食を取りながら、一行は明日の国際食品フォーラムへの潜入計画を話し合っていた。凪子はジャーナリストの立場を利用して正式な取材許可を得ており、霧島もGFOの調査官として公式の立場で参加できる。


問題は清六と沙織、そして玲をどうやって中に入れるかだった。


「私には方法があるわ」


玲が言った。


「別府理事長は私を探しているけど、外見を少し変えれば気づかれないでしょう。スタッフとして潜入する」


「清六と沙織は?」


「凪子さんのアシスタントという形で…」


皆が真剣な表情で頷いた。沙織は少し不安げに清六を見上げたが、彼の自信に満ちた表情に勇気をもらった。


その時、食堂の入口のドアがきしむ音を立ててゆっくりと開いた。


食堂内の空気が一瞬凍りつく。霧島の指がホルスターに触れ、全員が息を呑んだ。


ドアが完全に開き、一人の女性が姿を現した。


「彩乃…!」


誠司が驚きの声を上げた。そこに立っていたのは、椎葉彩乃だった。肩で息をしながらも、背筋を伸ばし、疲れた表情の中に凛とした気高さを漂わせていた。


「皆さん、お邪魔します」


彩乃の声は落ち着いていたが、肩はわずかに落ち、目には深い疲労の色が浮かんでいた。指先がかすかに震えている。


「どうやってここを…?」


「誠司のGPS追跡よ」


彩乃は小さく微笑んだ。


「あなたの車に追跡装置を仕掛けておいたの。心配だったから」


誠司は驚いたが、すぐに納得したように頷いた。


「さすがだな…」


「一人で来たのか?」


霧島が警戒を解かずに尋ねる。


「ええ。誰にも話していないわ。でも時間がないの。彼らはもう動き始めている」


「座って」


玲が彩乃にカウンターの椅子を勧める。


「お茶を入れるわ」


彩乃はそこに座り、カップを両手で包み込むように持った。初めて清六と真正面から向き合う。


二人の視線が交差した瞬間、食堂の空気が一瞬張り詰め、誰も息を呑んだ。彩乃の目には、愛情、罪悪感、そして言葉にできない深い感情が浮かんでいた。


「清六くん…」


彼女の声はわずかに震えていた。


「久しぶり…いえ、初めまして、かしら」

清六は手のひらに汗がにじむのを感じ、胸の奥で鼓動が速くなるのを抑えられなかった。


この女性は自分の遺伝子設計に関わった科学者であり、誠司の元恋人であり、そして昨日知ったように、自分の「生物学的母親」の一人でもある。何と呼べばいいのか、どう接すればいいのか、彼には分からなかった。


「彩乃さん」


彼はようやく口を開いた。


「なぜ来たんですか?」


「二つの理由があるわ」


彩乃はお茶を受け取り、カップを両手で包み込むように持ち、視線を落とした後、意を決したように顔を上げた。


「一つは由布厚生と別府理事長の『共鳴計画』の詳細を伝えるため。もう一つは…」


彼女は一瞬言葉を切り、清六の顔をじっと見つめた。


「あなたに会いたかったから」


沙織は膝の上で手を組み、視線を落としながらも、時折ちらりと彩乃と清六の間を見比べていた。彼女の心に、微かな違和感が芽生えていた。


「まず計画について教えてくれ」


霧島が話を本題に戻した。


「彼らは明日の国際食品フォーラムで、『共鳴タンク』というものを使う予定よ」


彩乃は説明し始めた。声には苦い後悔がにじんでいた。


「それは九重千尋の『活性化』能力を増幅し、より広範囲に効果を及ぼすための装置。彼女の作る料理の効果を、会場全体に広げることができるわ」


「そんな技術が?」


凪子が驚いて尋ねる。


「ええ。私も開発に関わったの…」


彩乃は一瞬言葉を詰まらせ、苦しげに眉を寄せた。


「本来は料理の香りを広げる技術として開発していたの。でも由布厚生がそれを『活性化』能力の増幅に応用したのよ」


「どれほどの影響があるんだ?」


霧島が尋ねた。


「最大で会場全体。そこにいる各国の政治家や食品業界の重役たちが、一度に影響を受ける可能性がある」


「そんな…」


清六は手のひらがじっとりと汗ばむのを感じ、思わず拳を握りしめた。


「もし成功すれば、彼らは世界の食料政策に影響力を持つ人々を一気に支配下に置くことができる」


彩乃は厳しい表情で続けた。


「由布厚生の真の目的は『食の継承者』たちを使って、世界の食品市場と政治を支配すること。食料は人間の最も基本的な欲求。それをコントロールすれば、間接的に世界をコントロールできるという考えよ」


「狂気の沙汰だ…」


誠司が唇を噛んだ。


「だからこそ、私たちは阻止しなければならない」


彩乃の決意に満ちた言葉に、皆が静かに頷いた。霧島は眼鏡を押し上げ、凪子は手帳を強く握りしめる。沙織は不安げに清六の腕にそっと触れた。


しばらくの沈黙の後、彩乃は誠司の方を見た。


「少し二人で話してもいい?」


誠司は頷き、二人は食堂の外へと出て行った。二人が席を立つと、食堂には一瞬静寂が訪れた。窓の外には、朝の光が静かに差し込んでいた。


***


沙織は窓の外で静かに話し合う誠司と彩乃の姿を、じっと見つめていた。

隣で清六も同じように視線を向ける。


二人の間に流れる沈黙には、すでに知っている過去の重みと、今なお消えないわだかまりが滲んでいた。


「……やっぱり、複雑だね」


沙織がぽつりと呟く。


清六は小さく頷き、窓の外の二人に目をやった。


「うん。でも、きっと今もどこかで分かり合いたいって思ってるんだと思う」

沙織は静かに息を吐き、再び外の二人を見つめ続けた。


玲は静かに清六の隣に座った。


「あの人はあなたに会いたがっていたわ。話をしてみたら?」


清六は迷いながらも、玲の言葉に背中を押されて頷いた。


「はい…話します」


誠司と彩乃が食堂に戻ってきた時、彩乃の目は少し赤くなっていた。泣いていたのだろうか。


「清六くん」


彩乃が呼びかける。声はわずかにかすれていた。


「少し二人きりで話せないかしら」


「ええ、いいですよ」


清六は立ち上がり、彩乃と共に食堂の裏手にある小さな庭へと向かった。沙織はその様子を心配そうに見送った。


朝の光が庭の草花を照らし、静かな空気が二人を包んでいた。小さなベンチに並んで腰掛けると、清六は手を膝に置き、視線をさまよわせる。彩乃は指先でハンカチを握りしめ、時折うつむいた。


「清六くん…」


彩乃は言葉を探すように少し黙った後、再び口を開いた。


「あなたに会えて、本当に嬉しいわ。最後に見たのは、あなたが5歳の時…」


清六は胸の奥が熱くなるのを感じながら、迷いながらも直接的に尋ねた。


「本当のことを知りたいんです。僕は…あなたの子供なんですか?」


彩乃は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。


「生物学的には…そうよ。一部はね」


彼女の目に涙が浮かんでいた。


「でも、普通の意味での母親ではないわ。FCTシリーズの創造には複数のドナーのDNAが使用されたの。私はその中の一人。科学的に言えば、あなたのDNAの一部は私から来ているということ」


「だから、僕と彩乃さんは似ているところがあるんですね」


「ええ。目の形とか、物事を考える方法とか…」


彩乃は微笑んだが、その笑みはどこか寂しげだった。


「でも私は…あなたを普通の子供として愛することができなかった。最初はあなたたちFCTシリーズを実験体としか見ていなかったから」


彼女の声には後悔の色が濃かった。彩乃は一度、顔をそむけて庭の木立を見つめた。


「研究が進むにつれて、私は自分のしていることに疑問を持ち始めた。特にあなたに対しては…母性のような感情を抱くようになったわ」


「それで誠司さんと…」


清六が言いかけると、彩乃は小さく頷いた。


「ええ。彼を説得して、あなたを施設から連れ出したの。それが彼とあなたにとって最善だと思ったから」


彩乃は顔を伏せ、ハンカチでそっと目元を拭った。


「でも私は残った。内部から情報を得て、プロジェクトを監視するために。それが彼との約束だったの」


清六は黙って彩乃の言葉を聞いていた。彼女の中の葛藤と罪悪感が痛いほど伝わってくる。


「あなたを直接育てることはできなかったけど、ずっと見守っていたわ。誠司からの報告で、あなたが健やかに育っていると知り、安心していた」


彩乃は指先をわずかに震わせながら、そっと清六の手に触れた。


「許してほしいとは言わないわ。ただ…」


一度言葉を切り、視線を庭の緑に落とす。


「あなたが幸せであってほしい。そして、自分自身の道を選べる人間になってほしいと思ってる」


清六は胸の奥が熱くなり、手のひらに伝わる彩乃の温もりを感じながら、ゆっくりと息を吐いた。混乱と理解が入り混じったまま、彼は彩乃の手を握り返す。


「母」と呼ぶことはできないかもしれない。しかし、この女性が自分の命を救い、見守ってくれたことは事実だった。


「ありがとう、彩乃さん」


彼はようやく言葉を見つけた。


「僕を守ってくれて」


彩乃の目から涙がこぼれ落ちた。しかし、それは悲しみの涙ではなく、安堵の涙のように見えた。


「あなたはとても強くなったわね」


彼女は清六の顔をじっと見つめた。


「玲から『活性化』をコントロールする方法を学んだんでしょう?」


「はい。もう『活性化』に支配されることはありません」


「素晴らしいわ」


彩乃は誇らしげに微笑んだ。


「私はずっと、あなたたちFCTシリーズが自分の力を自分のものにできる日を夢見ていたの。それが本当のプロジェクトの目的だったはずなのに…」


朝の光が二人の手を優しく照らし、静かな風が庭を通り抜けていった。二人は言葉にならない感情を共有していた。


血のつながりはあるが、親子ではない。科学が生み出した複雑な関係。それでも、そこには確かな絆があった。


***


食堂に戻ると、沙織が腕を組んで椅子に座り、鋭い視線を清六に向けていた。膝の上で指先が不機嫌にタップしている。


「随分長かったわね」


彼女の声には微かに震えるような響きがあった。


「ごめん、色々話すことがあって…」


「ふうん。『お母さん』と仲良くなれた?」


沙織の皮肉めいた言葉に、清六は困惑して俯いた。彩乃も驚いたように眉を上げる。


「あの、沙織…」


「冗談よ」


沙織は急に明るい声を装い、無理やり笑顔を作った。


「でも、清六くんをとらないでくださいね。彼はみんなの大切な友達なんだから」


彩乃は少し目を丸くした後、沙織の真剣さを悟ったように優しく微笑んだ。


「彼はあなたたちのものよ。私はただ…過去の過ちを償いたいだけ」


「え?」


沙織は耳まで真っ赤になり、慌てて手を振った。


「そ、そんなつもりで言ったわけじゃ…」


凪子がクスリと笑い、霧島は咳払いで場を整えた。


「さて、明日の計画を詰めよう」


全員が再び真剣な表情に戻る中、彩乃は食卓にUSBメモリを置いた。赤いLEDが不気味に点滅している。


「千尋は完全に『活性化』されているわ。自分の意思はほとんどない状態よ。救うには『共鳴タンク』の無効化と、彼女の神経回路遮断が必要」


「遮断する方法は?」


清六が前のめりになる。


彩乃はUSBを指さした。


「これを『共鳴タンク』のメインコンピュータに30秒接続すれば、システムが停止する。その隙に千尋に接触して」



霧島が詳細な施設図を広げた。


「フォーラム会場は3階建て。『共鳴タンク』は地下の制御室にある。警備員の配置は…」


夜遅くまで、彼らは役割を確認し合った。沙織はメモを握りしめ、清六は地図を食い入るように見つめる。誰もが、明日が全てを決める日だと悟っていた。


食堂の窓から見える星空は、どこまでも澄んでいて、夜の静けさが清六の心を包み込んでいた。彼は深く息を吸い、拳をそっと握りしめる。


もう戸惑う少年ではない。「活性化」をコントロールし、自分の運命に立ち向かう決意を固めた若者だった。


彩乃と玲が静かに微笑み返す。三人の間に、言葉にできない確かな絆が生まれていた。清六は思う。自分は二人と同じ遺伝子を持ち、同じ能力を宿している。


しかし、これからの道は自分自身で切り開いていく。それが、彼の選択だった。

不安もある。しかし、今なら前を向いて歩き出せる。


自分の選んだ未来を信じて。


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