第10章:養父の告白
夜も更けた「天ぷら屋みれい」。玲が用意してくれた部屋で、清六はなかなか眠れずにいた。畳の上に敷かれた布団に横たわり、天井を見つめる。
今日一日で知った真実が、頭の中をぐるぐると巡っていた。
「僕は…人工的に作られた存在なんだ」
小さく呟いた声が、静かな部屋に吸い込まれていく。それでも、父さんのことが心配でたまらない。血のつながりがどうであれ、あの人は自分にとってかけがえのない父親だった。
清六は静かに起き上がり、窓辺に立つ。山の夜空には無数の星が輝いていた。福岡の街では決して見られない、圧倒的な静けさと光の広がり。その美しさに、胸の奥のざわめきが少しだけ和らいだ。
「お父さん…無事だといいけど」
料亭での別れ際、彼らを守るために黒服の男たちに立ち向かった誠司の姿が脳裏に浮かぶ。今まで当たり前だと思っていた親子関係が、実は違った意味を持っていたと知った今でも、誠司への心配は変わらなかった。
***
ふと、外から微かな物音がした。葉擦れの音に混じって、誰かの足音が近づいてくる。清六は思わず息を止め、耳を澄ませた。
足音は食堂の方へと向かっているようだ。追手かもしれない――清六は慎重に障子を開け、廊下へ出た。
玲の声が聞こえる。誰かと話しているようだ。清六は静かに声のする方へと近づいた。
「…よく来たわね。無事で何よりだったわ」
「ありがとう、玲。いつも助けられてばかりで申し訳ない」
その声に、清六は足を止めた。間違いない、それは誠司の声だった。
「お父さん!」
思わず声を上げ、食堂へ駆け出す。カウンター席に誠司の姿があった。肩には包帯が巻かれ、顔には疲労の色が濃い。それでも、無事な姿に清六の胸は熱くなった。
「清六…」
誠司は立ち上がり、清六と真正面に向き合った。二人の間に流れる沈黙は、長い年月の重みを孕んでいた。
「心配したよ…大丈夫?怪我は?」
清六が駆け寄ると、誠司は頬を引きつらせながら苦笑いした。
「かすり傷だよ。心配させてごめん」
「何があったの?彩乃さんは?」
「彩乃は大丈夫だ。彼女には…」
誠司の言葉が途切れる。霧島が部屋から現れ、続いて沙織と凪子も姿を見せた。
「誠司さん!」
沙織が安堵の表情を見せる。その声に、誠司はかすかに肩の力を抜いた。
「みんな無事で良かった」
玲がお茶碗を並べる音が冷たい夜に響く。
「座りなさい。長い話になりそうだから」
***
全員がカウンターに着くと、提灯の灯りが誠司の影を壁に大きく映し出した。
「清六」
誠司は湯呑みを揺らす手が微かに震えているのを隠すように拳を握りしめた。
「今まで本当のことを話せなくて、ごめん」
清六は喉元で冷たい塊が転がるのを感じた。
「お父さん…」
「私はかつて、ソラティア研究所の警備責任者だった」
誠司の声は低く、過去の亡霊と対話するようだった。
「15年前、プロジェクト中止後…君を施設から連れ出した。それが全ての始まりだった」
「連れ出した…?」
清六は耳元で血の気が引く音を感じる。養父の手の温もりも、幼い日の記憶も、全てが虚構だったのか?
「そう」
誠司は目を閉じ、深い皺が額に刻まれた。
「言ってしまえば誘拐だ」
沙織が思わず清六の袖を掴んだ。霧島は鋭い目で誠司を凝視し、凪子は息を殺してメモを取る手を止めた。
玲だけがカウンターの奥で無言で立ち、茶筅を握りしめる指先が白くなっている。
山奥の夜風が障子を揺らし、提灯の影が誠司の苦渋に満ちた顔を揺らめかせた。凍りついた時間の中、緑茶の湯気だけがかすかに立ち上っている。
「彼らは君たちを単なる実験体として扱っていた。特に別府理事長は、君たちの『活性化』を完全にコントロールできるシステムの開発に執着していた。それが危険だと私は感じたんだ。」
清六の指先が小刻みに震え、喉元に熱い塊がこみ上げてくる。驚きと混乱、そして自分でも説明できない安堵が胸の内で渦巻いていた。
「でも、僕には5歳以前の記憶がないんです……」
「それは――」
誠司はコーヒーカップをそっと置き、机の木目をじっと見つめた。
「海馬への電気刺激と薬物投与を併用した処置だ。少なくとも、顕在記憶は消去された。」
「記憶を……消したんですか?」
沙織が声を震わせる。無意識に清六の袖に伸ばした手が、かすかに熱を帯びていた。
誠司は重々しく頷いた。
「倫理審査会は反対したが、当時の所長は『子供たちのため』と強行した。君たちが普通の人生を送れるようにと……」
清六は頭を抱え、畳の縁に爪を立てる。
「消毒液の匂いと金属音……白衣の人影がゆがんで見える。これが……本当の記憶?」
玲が静かに頷いた。
「強いトラウマは潜在記憶に刻まれる。私も、揚げ油の音を聞くと時々……」
玲は言葉を途中で切り、ふいに立ち上がって調理場へ向かった。お店のカウンター席越しに、清六たちの方へ背を向けたまま、静かに鍋を見つめている。
「なぜ…なぜ僕を連れ出したんですか?」
清六の声に、誠司の肩がぴくりと震えた。
「君が初めて『パパ』と呼んだ日…」
誠司は清六の肩に手を置き、その掌の温もりが震えを伝えてきた。
「世界が敵になっても守ると誓った。彩乃はデータ改竄でそれを助けてくれた」
「椎葉彩乃さん…?」
清六が顔を上げると、調理場から油の跳ねる音が不自然なリズムで響いてきた。
「そう。彼女はプロジェクトの主任研究員だったが、次第に倫理的な疑問を抱くようになった。特に君に対しては…」
誠司は言葉を選ぶように続けた。
「彼女は君の『生物学的母親』の一人でもある」
「母親…?」
清六の声は震え、頭の中が真っ白になった。自分の“母”が、研究者として自分を設計した人物だという事実に、理解が追いつかない。
「FCTシリーズの創造には、複数のドナーのDNAが使用された。彩乃は君のDNA設計に直接関わり、自分の遺伝子も提供した。だから彼女は君に特別な感情を持っているんだ」
清六の心には、驚きと戸惑い、そしてどこか温かいものが溢れてきた。自分の生物学的な母親が、研究所の科学者だったという事実。そして、彼女もまた自分を守ろうとしていたこと。
「彩乃の協力で、私は君を施設から連れ出すことができた。そして福岡に移り、古書店を始めたんだ」
「でも、研究所は探さなかったんですか?」
「もちろん探した。だが、彩乃が内部からデータを操作してくれたおかげで、追跡を逃れることができた。彼女は表向き研究所に残り、内部から情報を提供し続けてくれたんだ」
「彩乃さんと誠司さんは…」
沙織が遠慮がちに尋ねる。
誠司は少しだけ遠い目をして微笑んだ。
「昔は恋人同士だった。だが、プロジェクトの方向性について意見が分かれ…」
ほんの一瞬、声がかすれる。
「私は組織を去り、彼女は内部に残って監視することを選んだ」
「そうだったんですね…」
やがて、玲はカウンター越しに小さな声で語り始めた。
「誠司が清六を連れ出した直後、私も施設から逃亡したの。違う理由からだけど」
「玲さんは…?」
沙織がそっと問いかける。玲は手元の鍋に視線を落としながら、ゆっくりと答える。
「私は『活性化』のコントロールに失敗して、研究員を怪我させたの。それで脱出を決意した」
そう言いながら、玲は左手の火傷の跡を無意識に撫でる。その指先には、あの日の痛みと決意が静かに蘇っていた。
「鳥栖博士の助けもあって、ここに隠れ家を作ったわ」
「皆、僕のことを守ってくれていたんですね…」
清六は胸の奥が熱くなり、思わず目頭を押さえた。自分がこれほど多くの人に守られてきたことに、言葉が出なかった。
「あなたが守られる価値のある人間だからよ」
玲は優しく微笑みながらも、その瞳にはかつての孤独と共感が浮かんでいた。
「生まれた理由や方法に関わらず、あなたは一人の大切な人間なの」
清六はゆっくりと誠司を見つめた。今まで当たり前だと思っていた日常が、実は養父の勇気と愛情によって守られていたことを知り、胸がいっぱいになった。自然と拳を握りしめる。
「お父さん…ありがとう」
その言葉に、誠司の目に涙が浮かんだ。彼は涙をこらえきれず、清六の肩にそっと手を置いた。
「清六…私にとって、君は本当の息子だ。それだけは信じてほしい」
二人の間に沈黙が流れる。その沈黙は、言葉以上に多くのことを語っていた。
「彩乃さんは…今どこに?」
清六が尋ねた。
「彼女は研究所に戻った。私たちに時間を稼ぐために、危険を承知で内部に残っている。…だが、由布と別府が動き出せば、すぐに危険な状況になるだろう」
誠司の表情が再び緊張に包まれる。
「由布と別府は大きな計画を進めている。来週の『国際食品フォーラム』で何かを起こすつもりだ」
「FCT-2…九重千尋を使って?」
霧島が低く問う。
「そう。彼女は完全に『活性化』され、彼らの支配下にある。彼女の作る料理は、食べた人間の意志を一時的に奪うほどの力がある。国際食品フォーラムでそれが使われれば…世界中に影響が及ぶ」
「彼女を救わなければ」
清六は決意を込めて言った。
「私たちと同じ『料理遺伝子人間』なのに…」
玲が厳しい表情で言った。
「そのためには、まず清六自身が『活性化』をコントロールできるようになる必要がある。彼女を助けるつもりなら、あなた自身が強くならないと」
清六は一度深く息を吸い、玲の目をまっすぐに見返した。
「わかりました。玲さん、教えてください」
清六の目には、はっきりとした決意の色が宿っていた。
「明日から厳しい訓練が始まるわ」
玲は清六を見つめ返し、静かに頷いた。
「あなたの中にある遺伝子の力を、自分のものにする方法を」
沙織は優しく清六の肩に手を置き、真剣な眼差しで頷いた。
「私も手伝うわ。できることなら」
凪子はいたずらっぽく微笑みながら、「私たちも協力するよ」と言い、霧島は静かに眼鏡を押し上げて「これはもう、あなた一人の問題じゃない」と力強く言った。
清六は周りを見回した。養父の誠司、同じ遺伝子を持つ玲、そして大切な友人たち――。胸がじんわりと温かくなり、自然と涙がこぼれそうになる。
「ありがとう…みんな」
夜も更けていた。山の静寂の中、食堂の窓から漏れる柔らかな明かりが、闇の中にぽつんと浮かんでいた。遠くで虫の声が微かに響き、夜風が畳の香りを運んでくる。
清六はゆっくりと息を吸い込み、目を閉じてからもう一度仲間たちを見回した。これから始まる試練に向けて、決意を新たにする。
彼はもう逃げない。自分の運命と向き合い、自分の力で未来を切り開くために。




