第1章:見知らぬ発信元
西福大学の図書館は、夕暮れ時になると独特の静寂に包まれる。
閉館間際の薄暗い書架の間で、天野清六は日本近代文学全集に埋もれていた。
「ねえ、清六くん。そろそろ閉館だよ」
水谷沙織の声に、清六は我に返った。彼女は肩までの茶髪を軽く揺らし、微笑んでいる。
「あ、ごめん。夏目漱石にハマってて…」
清六は眼鏡を直しながら立ち上がった。
「もう、いつもそう。本の中に入り込んじゃうんだから」
沙織はクスリと笑い、清六の肩に手を置いた。
「でも、それが清六くんの良いところでもあるんだけどね」
図書館を出ると、初夏の夕暮れが二人を包み込んだ。西福大学のキャンパスは、福岡の中心部からやや離れた閑静な場所にある。レンガ造りの校舎と新緑の木々が、夕日に照らされて穏やかな光景を作り出していた。
「今日の社会学概論、難しかったでしょ?」
沙織が話しかけてきた。彼女は社会学部の学生だが、清六の文学部の授業をいくつか一緒に取っている。
「うん、でも面白かったよ。特に『社会的アイデンティティの形成』の部分は」
清六は少し考え込むように言った。
「アイデンティティか…」
沙織は清六の表情を見て、少し心配そうに首を傾げた。
「どうしたの?何か考え事?」
「ああ、いや…」
清六は言葉を濁した。実は最近、彼は自分のアイデンティティについて考えることが多かった。養子であること、5歳以前の記憶がないこと、そして時々感じる何かが欠けているような感覚。
「大丈夫よ。悩み事があったら、いつでも相談してね」
沙織は清六の腕を軽く叩いた。
「ありがとう。そうだ、明日の文学史レポート、もう書いた?」
「まだよ!今夜頑張るつもり。清六くんはもう終わってるんでしょ?」
「うん、一応…」
二人は大学の正門まで歩き、そこで別れることになった。沙織はアパートが反対方向だった。
「じゃあ、また明日ね!」
沙織は手を振って去っていった。清六は彼女の後ろ姿を見送りながら、ふと胸に温かいものを感じた。
沙織との友情は、彼の大学生活の支えになっていた。
***
清六が「天野書房」の看板を見つけたのは、日が完全に落ちた頃だった。小さな古書店は、住宅街の一角にひっそりと佇んでいる。店の明かりが、暗がりの中で温かく光を放っていた。
「ただいま」
清六が声をかけると、店内から養父の誠司が顔を出した。
「おかえり、清六。今日は遅かったね」
誠司は50歳だが、温和な表情と穏やかな声は、いつも清六に安心感を与えてくれる。
「図書館で勉強してたんだ」
「そうか。夕食はもうすぐだよ。手を洗っておいで」
清六は二階の自分の部屋に向かった。
古い木造の階段を上りながら、彼は今日の授業のことを考えていた。社会学概論で学んだ「アイデンティティ」という言葉が、頭から離れなかった。
部屋に入ると、清六はベッドに身を投げ出した。天井を見つめながら、彼は自分の過去について考える。誠司は彼の養父だ。実の両親については、交通事故で亡くなったと聞かされている。しかし、5歳以前の記憶がまったくないのは不思議だった。
「清六、夕食だよ」
誠司の声で我に返り、清六は手を洗いに行った。洗面所の鏡に映る自分の顔を見つめる。整った顔立ちだが少し痩せ型。黒髪のショートヘアと、知的な印象を与える眼鏡。この顔は誰に似ているのだろう。
階下に降りると、誠司が電話で話している声が聞こえた。
「由布さん、彼にはまだ言わないでください」
清六は足を止めた。誠司の声には、普段聞かない緊張感があった。
「時期尚早です。彼はまだ…」
誠司は清六の気配に気づいたのか、急に声を低くした。清六は気まずさを感じながらも、リビングに入った。
「あ、清六。ちょっと仕事の電話だったんだ」
誠司は慌てて電話を切り、微笑んだ。しかし、その笑顔には何か不自然なものがあった。
「そうなんだ…」
清六はそれ以上何も言わず、テーブルに着いた。誠司が用意した夕食は、いつものように質素だが心のこもったものだった。しかし今夜は、二人の間に奇妙な緊張感が漂っていた。
「大学はどうだい?」
誠司が話題を変えるように尋ねた。
「うん、普通に。今日は社会学概論と日本文学史があって…」
清六は授業の内容を話し始めたが、誠司の様子が気になって集中できなかった。
「由布さん」とは誰だろう?そして「彼にはまだ言わない」とは何のことだろう?
食事を終え、清六は自分の部屋に戻った。ベッドに座り、スマホを取り出す。今日の授業のメモを確認しようとした時、着信履歴に見覚えのない番号があることに気づいた。
「ソラティア研究所…?」
清六は眉をひそめた。そんな名前は聞いたことがない。しかし、何か引っかかるものを感じた。まるで遠い記憶の片隅で、その名前が反響しているかのように。
好奇心に駆られ、清六は折り返し電話をかけた。
数回の呼び出し音の後、電話が繋がった。
「ソラティア研究所です」
女性の声だった。清六は少し緊張しながら答えた。
「あの、先ほどこちらに着信があったようなので…」
「お名前をお願いします」
「天野清六です」
一瞬の沈黙の後、女性の声が変わった。まるで機械的な、感情のない声になった。
「天野様、プロトコル実行の時期です」
清六は混乱した。何のことだろう?
「すみません、何の…」
「すみません、間違えました」
突然、女性の声は慌てたように言い、電話は切れた。清六は呆然と立ち尽くした。
「プロトコル実行…?」
その言葉が頭の中で反響する。何か重要なことを思い出そうとしているような、奇妙な感覚に襲われた。
清六はもう一度電話をかけようとしたが、番号は「非通知」になっていて折り返せなかった。彼はベッドに横たわり、天井を見つめた。今日は奇妙な一日だった。誠司の不審な電話、そして「ソラティア研究所」からの謎の着信。
何かが始まろうとしている。清六にはそんな予感があった。しかし、それが何なのかはまだ分からなかった。
窓の外では、福岡の夜景が静かに輝いていた。清六は眠りにつくまで、「プロトコル実行の時期」という言葉を何度も反芻していた。