セピア色の記憶、そして困惑 二
翌日も、俺は昼になるとやっぱり屋上にいた。
仰げばこう、空が青く染まって澱になり、遠方に白くぼやけて消えゆくようだった。
手摺の向こうには喧騒のこもるへんな市街が見えた。そこでは人がちいさくぽろぽろ浮いて元気に流れている。ふと清涼の風が吹くと、どこからか響く、フルートのようなやさしい音色。
このところずっと濃厚なカリキュラムに浸っていたせいか、こんな場所ですら、生命のぴちぴちした場所に感じられる。
まるで生まれたてのスライムが、初めて外界を覗いた気分だった。
「ほんと、もっと身の丈にあった高校に進学すりゃあよかったなあ」
ぼやく俺のまわりには、めずらしく他の生徒たちの姿なども、ちらほら窺える。
その中には、ミカンコ嬢と荒川ちゃんのふたりの姿もあった。
調理実習を終えて、皆ですぐに上がってきたのだと言って、大きな包みなどを抱えていた。
しばらくすると、俺を見つけた荒川ちゃんが小走りにやってくる。
なにやら左手で大事そうに抱え持って、もう片方の手をお椀のように被せていた。
「あの、ハンチ君」
彼女は俺の名を呼ぶと、はにかみながらお辞儀をした。まだ髪に可愛らしい三角巾をのせたまま、若いなりたての奥さんのようだった。
「へえ、可愛いもんだ」
彼女の持つ総菜らしきものを眺めながら、俺は期待をこめつつ、その身なりを褒めてみせる。
「いえ、その…」
彼女ははにかんで、うつむいてしまった。
それで俺が催促するように「ごちそうさま」と言って手を差し出すと、彼女は吹きだすのだ。
「あの、お口に合うか分かりませんが」
「大丈夫、大丈夫、合わせてみせるから」
その娘はまたおかしげに笑う。そして俺の手の上に温かい包み紙をポンと置くと、ミカンコたちのいる方へ急いで戻るのだった。
そのまま、俺はスカートのお尻がよく揺れるのを、気分よく眺めていた。
女子から物を貰うだなんて、小学校で給仕されて以来のことである。
しかも今回は給食の当番などではなく、明らかに俺へ向けての好意によるものだ。たとえ包み紙の中身が芋のヘタやニンジンの皮であったとしても、俺はありがたく頂戴していたにちがいない。
ちょっと不器用にできあがった野菜の天ぷらを賞味した後、俺はその余韻をひとり愉しんでいた。
屋上ではそんな嬉しいサプライズもあったものだが、午後の予鈴が鳴る頃には、レジャーシートを拡げていた彼女たちもあと片付けを終えて、列をつくって帰りはじめる。
俺も今まで腰を据えていた給水タンクの土台から立ち上がると、軽く伸びをした。
下へ通ずる非常扉は、まだ閉めずに置いてあった。
俺がひとり残っているのを、女子の誰かが気にとめてくれたらしい。
それで扉を閉めつつ、中の暗がりに足を踏み入れると、いきなり横から手が伸びてきて、この俺を強引に引きずり込もうとするのだ。
「うっわ、なに!」
それでも無理に抵抗しようと思わなかったのは、いち早くお花のような良い香りに気づいたからである。これもまた荒川ちゃんなのかと思って一瞬期待したけれど、俺は「おや?」と当惑した。
そこには、知らない女子がいたからである。
この俺が知らないということは、同じクラスの女子ではないということだ。
なんたって自己紹介の折、俺はクラスの女子すべてのお顔を一通り拝見している。そうしたときに発揮される俺の記憶力というものは、絞り値F4、シャッタースピード1/250秒に勝るとも劣らないのである。
「やっと、みつけた!」
その彼女は声を弾ませ俺の顔をのぞきこんだ。これがまた本気で喜んでいるようなのだから、なおのこと驚かされる。
それで俺も口を開きかけると、その彼女の声がまた元気よく被さってきた。
「あのときは、助けられてハッピィだったよ!」
俺はあらためて、彼女の顔をまじまじと見つめた。
そのメイク仕立てお顔は、西洋皿に描かれた真っ赤なバラのように色彩をはっきりさせて、たいへんキラキラしていた。しかしよその高校ならまだしも、厳格なここの校風にはちょっとそぐわない。
こんな派手めの女子と面識があったのなら、俺も決して忘れることなどしやしないのに、なぜだか彼女は俺のことを良く知っているご様子。
とにかくここで、「知らん」とだけ言い飛ばしてしまうのは簡単だが、あまりにも失礼だし、なにより勿体ないしで、俺はちょっと頭を掻きながらも、思い出すふりをした。
「ああ、そうそう、たしか・・・」
「ほんとう、アンタが現れてくれなかったら、アタシもさ、どうなっていたことか―――」
そして彼女は、不良に絡まれていたときの事をおそろし気に語りだすのである。
ここまでくれば、さすがに俺でもピンとくる。
つまりこの彼女が、あのバスでやんちゃをしていた尻の大きい娘というわけか。
よく見るとミカンコよりもやや背が高く、スタイルも抜群で、髪こそ染めてはいないものの、いわゆる巷で見かけるギャル子ちゃん。
いかにも生活指導の先生方の格好の餌食にでもなりそうな、そんな風采の娘なのである。
「ええと、ハンチ、だっけ? アンタすっごい強いんだね。あのあと、こっそり戻ったらさ、あいつら這う這うの体で逃げてくるんだもん、びっくりしたよ」
ギャル子ちゃんの機嫌はすこぶる良い。
「ふっ、それほどでも――」
ほとんどの手柄は慶将にこそあるのだが、その一部始終をこの娘はご覧になっていなかったのだろう。
「ところで、おまえさんは?」
彼女はおっと気づいて、すこし身を正す。
「C組の、清澄 アリオだよ」
自己紹介すると、アリオはぺこりと頭を下げてきた。
聞けばこのギャル嬢、湾を挟んだ京葉工業地域にほど近い中学を出て、母親の希望でこの春、こちらの高校へ進学してきたという。
だからその言葉遣いも内部生の典雅なものとは違ってずいぶんとなじみ深く、俺にとっては親しみやすくてありがたかった。
「アタシ、これでもハーフなんだぜ」
「え、マジ?」
お父さんは南米出身の人で、今は港湾関係の仕事をしている。そのせいなのか、同世代の女子と比べてみても、飛びぬけたスタイルと、その身長。
「なら、グラビアかなんか、やってんの?」
「できるものならやりたいね。でも、ここの高校、アルバイト禁止っしょ?」
だそうで、得意なのは語学。スペイン語が堪能らしい。
将来は語学を生かした貿易関係の仕事に就きたいということで、人生設計の初期構想すらできていないこの俺を、たじたじとさせるのだ。
「それでね、ハンチに助けてもらったお礼をしたくってサ。ずいぶん探してたんだよ」
「お礼? そんなもんいらねーよ」
まああまり深く突っ込まれてボロを出すのもアレなので、俺はさりげなく遠慮をする。
「いいじゃん、こっちが勝手にするって言うんだから。それにこの高校の男どもってさ、なんか弱っちくって、つまんないんだよね」
「そうなのか?」
「うん。だから、ハンチみたいなの、けっこう稀なんだよ」
この右手にではなく、俺自身を珍しいと言ってくる娘も珍しい。いいかミカンコ、ちっとは見習えよ。
「それで、ほら、お礼。男子はこういうの、好きなんしょ?」
そう言うなり、アリオは自分のスカートをつまんだ指先を、ゆっくり引き上げてゆくのだ。
「こらっ、はしたない!」
「いいから、見てろって」
そうでもしなければ、自分を助けた男にすまないらしく、紫紺の清潔そうなスカートの裾が、下からの風に柔らかに翻りながら、開演したステージの幕のようにしずかに捲れ上がってゆく。
「いやいやアリオさん、まちやがれっての、その、そのおっ、やっぱ風紀ってやつがさ。――あ、ああ、いいのかな、いいなっ、あともうちっとだ、ガンバレ!」
すぐに止めさせるつもりが、気づけば俺も鼻の下を伸ばしてすっかり嬉しがっているのだから、お年頃の男子というのは困ったもの。
アリオもくすくす笑って、脚をこれ見よがしに組みかえたりする。そしてその脚も、まあどんだけ長いおみ足であることか。
すでに学校指定の膝丈スカートは20センチ以上も引き上げられているというのに、肝心のあの、リボンを結んだうるわしのご母堂様がちっともご登場なさらないのである。
ところが、あと少しというところで、その幕は降ろされる。
見上げると、スカートを指先でつまんだ格好まま、アリオの顔が石のように固まっていた。
俺もなにごとかと思って、その視線の先をたどる。
とたん、この首筋が、嫌な感じにぞわっと粟立つのだ。
「なにを、なさっているのです?」
この凍りついた空間を貫いて、凛とした声の響きがした。
その声のした闇の奥では、黄金色の双眸がゆらりと蠢いていた。
もういちいち誰何せずとも、光る眼の主が誰なのか、俺には容易く想像がついた。
「何をなさっていたのかと、問うているのです。こちらへ来なさい」
俺はミカンコの凛呼たる声に命ぜられるまま、足元に控えて顔を上げた。
その俺の背に、怯えるアリオが触れてくる。
まあなんと仰りましょうか、鷺ノ宮家ご令嬢のその気迫というものは、今朝のものとはえらい違いで、妖異なる古城に潜む魔王のごとき風格まで備わっているようではありませんか。
「いや、まて、ミカンコ。誤解じゃないが誤解だっ」
「いったい、なにが誤解ではないというのです」
「いや、この屋上は六階――だからあ!」
この俺のくだらねー冗談に付き合うつもりはないらしく、憤怒をいきなり露わにすると、その輝く鋭い眼光で、俺の心臓をキッと貫いた。
すっかり石化してしまった俺を放って、ご令嬢の恐怖の視線は、いまだ横溢する魔の気配の中をゆっくり照らし廻りながら、この背に隠れるアリオへと向けられるのだった。
たとえ相手が女とて、このミカンコ嬢は容赦するつもりなどないのだろう。
しかし何がこの女の逆鱗に触れてしまったのか。たかだか俺のけしからん振る舞いくらい、安易に見逃してくれるものとばかり思っていたが。
「ホホ、丁度良い娘が手に入ったものですわ」
まるで、このアリオを邪神の生贄とすべく発せられたようなそのセリフ。
この俺の集中力の欠いた頭ですら、さすがに突っ込まざるを得なかった。
「おまえはいったい、どこの悪の女司祭だよっ」
ミカンコは少し踏み出して、ぱっとした明るいところにまで顔を出す。
「だれが悪の司祭ですか。せっかくですから、こんな不道徳な娘にも、すこし協力して頂こうと思っただけですわ」
「協力?」
「たとえ理事長の許可があるとはいえ、部室棟のあの部屋をずっと使用させて頂くには、それなりの名目が必要でございましょう」
そういやそんなことを慶将も言っていたなあ。つまりはなんだかよくわからん同好会の、その人数合わせということか。
それからミカンコは、傅く俺の頭になにやら良い匂いのする包み紙をのせてくる。手に取って拡げてみると、中には調理実習で彼女が作ったらしい様々な揚げ物が入っていた。
「おおっ」
「本日はお弁当をお持ちでないハンチさんにと思って、授業中、私も余り物でいくつか拵えてみたのですけれど」
それで真っ先に荒川ちゃんが動いてしまったため、俺へ渡す機会を逸してしまったらしい。
しかしせっかく作ってあげたのだからと、わざわざ階段を戻ってやって来たところで、なんとその男が不貞を働いていたのである。
そりゃあ、このお嬢様でなくとも怒って当然か。
「いや、申し訳ない」
俺は東京湾の海底に棲むヒラメよりも深く反省した。
「そう思うのでしたら、あなたも率先して、自ら名簿に名前を連ねてみたらいかがかしら。そうすれば、私の機嫌もいくらか良くなると思いますわ」
すっかり降参した俺に、ミカンコは意地悪く微笑みかけてくるのである。