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その奇譚(きたん)、叶えるのは難あり  作者: あみの よもやま
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セピア色の記憶、そして困惑 一

 あの真っ暗な夕陽の下で、俺が死の観念に接したとき、自分の頭蓋(ずがい)が砕ける音を耳に聞きながら、意識がゆっくり地のそこに沈んでゆくのを感じていた。

 しかしそれはほんの刹那(せつな)のことで、すぐさま、俺は自分の意識が肉体と共に滅びずにいるのを知るのである。

 くり返される悪夢の中でのたうち回りながら、はっと我に返ると、俺は小さな常夜灯の下、ベッドから飛び起きて肩で息をしている自分に気がついた。


「マジかよ・・・、勘弁してくれよ」


 俺は暗い自室の中で、ひとりごちる。

 人というのは、死んだらどういう(カタチ)の下で意識が継続するのか、もとより知る(すべ)などないのだが、脳や延髄をすべて捨て去ったとしても、おそらく生前と同じような人格でいるにちがいない。

 ともかく、そんな気分で俺は夜中にベッドから抜け起きた。

 白昼夢であったとしても、俺は昨日のあの生々しい感覚を、まだ払拭(ふっしょく)することができずにいた。


 なんだっけ、これをたしか英語四文字で――――ああ、そうだ。心的外傷ストレス症候群(PTSD)とかいうやつだっけ。


 生死に関わるような体験をし、強い衝撃を受けた後で生じる精神疾患などをそう呼ぶらしいが、今の俺がまさにそれらしい。

 それでも、こう起きて明るい居間へ行き、冷蔵庫から取り出した冷たいコーラなどを飲んでいると、気分もやや落ち着いてくる。

 炭酸がのどを潤すこの現実に、夢の中の感覚が押し流されてゆくようだった。


 それで翌日、授業のちょっとした合間に、俺はミカンコにこの症状のことを相談してみた。

 彼女はすぐさま俺の手を引き、人気のない廊下の隅にまでやって来ると、ふたたびあの大きな筆を取り出して、右の手のひらを差し出すよう催促してくるのである。

 とにかく、このなんでもできそうな女の言うことだ。俺はうっすら掌紋(しょうもん)の浮き出たそれを、素直に広げた。

「ハンチさん、手元が狂わないように、左手を添えて、じっとしていてくださいましね」

 ミカンコは真剣な面差しの中から、小さく気合いを発して、(てのひら)の上にひとつの文字を描き上げる。

 一滴の墨汁にすら浸していないはずのその真っ白な筆先から、よもやそんなものが描かれるとは、さすがはミカンコだなと、俺も感心させられた。


「いかがでしょうか。これで、すこしは心がすっきりしましたか?」


 お嬢様はくるりと背を向け、太筆を大切そうに胸元へしまい終えてから、再びこちらへ向き直った。

「あ、ああ。そういえば―――」

 理由はよく分からないが、ほんとうに心が軽くなったような気がした。あの凄惨なことを思い返してみても、すこしも負担にならないのである。

「本家は占いを生業としておりましたが、その余禄もあって、おまじないも得意なのですよ」

 こう言ってミカンコは微笑した。

「おまじないか。まあたしかに、(やまい)は気からとも言うけどよ。まるで針や灸みてえだな」

 自分の手のひらに描かれた梵字(ぼんじ)のようなものを眺めながら、俺はふたたび感心したように吐息をつく。

 これが本物の、チチンプイプイというやつらしい。


「現代では、漢方や西洋医学にすっかり駆逐(くちく)されてしまいましたが、かつてこの国では、こうしたおまじないも医学の立派な一分野でございましたの」

「へえ」

 こんな現実を見せられてしまえば、どんなに荒唐無稽(こうとうむけい)な話であっても、もうあたまから信用するより他にないのだろう。

 彼女のいる鷺ノ(さぎのみや)家というのは、古くは平安の世の中務省(なかのまつりごとのつかさ)に名を連ねていた官職の末裔で、当時は薬学、易学などを管掌(かんしょう)する立場にあったらしいが、それがまた、現代日本の令和の時代にまで脈々と受け継がれ、その継承者が俺の目の前にいる、どうやらそういうことらしいのだ。


「だからおまえは、妙に古臭いのか」

「あら失礼ですね。これでもつい最近までは、公方(くぼう)からお役目も授かっていたのですよ」

 お嬢様にしては珍しく子供のように唇を尖らせる。

 いやだから、公方とかいう化石のような言葉が飛び出てくること自体、もうすっかり(ふる)きを(たず)ねてしまうわけなのであるが。

「それで、つい最近って、一体いつの時代の最近のことなんだ?」

「昭和の、はじめの頃ですわ」

「ほう」

 そこまで途方もなく昔のことでもないらしいが――――ってことはやっぱあれか、戦争の時代なわけか。

 その頃は、たとえ民間人であっても一億総火の玉で、うっかり「君死にたまふことなかれ」などの反戦詩でも口遊(くちずさ)ぼうものならば、ただちに憲兵隊へ通報されてしまうような、そんな暗い時代のはずである。


「いまさら無理解な国の権力のために、とも当時は考えて、一度は断ったようですが、学徒応召による青年たちのためと思えば、鷺ノ宮家としても、応じざるを得ませんでしたの」

 ミカンコは何か、そこで遠い眼をする。

「そんな時代でも、時には可笑(おか)しなこともあったものですよ。たしか片桐(かたぎり)さんという背の高い将校の方でしたかしら。私が海軍の招へいに応じて霞ヶ浦にぽつんと立ち現れたとき、まずはその大きな身体を揺すって、なぜか大爆笑なさるの。それから、整然と整列しているまわりの兵隊さんたちに向け、はるばるとかかるこの僻地に、かのような素敵な女性の身にてたどり着かれたことは、小生(しょうせい)、まったくもって感激に堪えません―――との(おっしゃ)りよう。彼らはもっと堂々とした立派な身分のお方が参られるのだと聞かされていたらしく、それがまた小娘一人だけだったものですから、ホホホ、あのときは私も、穴があったら入りたかったものですわ」

「私も?」

 そんな一人称を使ったのはおかしいが、なかなかに興味深い話である。

「それは何? おまえの、お婆さんの話か?」

「いえ、そういうわけでは…」

 ミカンコは、そこではっとして口に手をあてると、曾祖母(そうそぼ)のことだと言い直して、可笑(おか)しがる。


「でもなんで、占い師が軍隊なんかに行ってたんだよ?」

「気になります?」

 そりゃあ、誰だって気になるはずだ。

「そこでのお仕事は、戦闘機のパイロットとなるべく招集された練習生の性格の鑑定を行い、合否の判断に加わることでしたの」

「へえ」

 航空機の性能が著しく発展してゆくその揺籃(ようらん)期においては、訓練中の事故も多発していたらしく、貴重なパイロットを損耗しないためにも、当時の海軍は占いまで導入していたというのである。


 そんな時代の貴重な話を俺にいくつかすると、お嬢様は小さく咳払いをして、またいつものつんと澄ました態度に戻っていた。

 ちょうど教室の空いたところからは女子のひとりが顔を出してきて、「鷺ノ宮さん」と呼びかけてくる。

「ではハンチさん、また後ほど」

「あ、ああ…」

 それで俺も退散した。

 そのお嬢様は、さっそく女子の群れにつかまって人だかりができていた。


 ――――鷺ノ宮さん、あの、先生からお聞きしたのですが

 ――――蜷山(になやま)君、お病気なのですか? お加減はいかがなのかしら


 あの危険な男のことを女子一同から一斉に問われて、お嬢様も往生(おうじょう)していたようである。

 聞けば慶将(ちかまさ)のやつも俺と同様、やっぱり昨日のガチンコが(たた)ったらしく、今は近くの病院で、丸一日の治療を受けていた。

 そのまま大人しく卒業まで養生してくれたら大助かり。しかし明後日にもヤツは登校してくるという。俺に向けては、またよろしくなどという(ことづけ)までしてくる始末なのである。

 ゆえに俺は憂鬱(ゆううつ)にならずにはいられない。そしてまたあの男から再戦を挑まれることを思うと、憂鬱(ゆううつ)を通り越してもはや苦痛ですらあった。


 その日はもう、何事もなくそのまま終わる。

 なにかミカンコ嬢はあの写真ことをずいぶん俺に聞きたがっていたようだけど、両親は東京の方へ行っているので、今ばかりは悪しからずご遠慮願いたい。

 試しに妹へ見せてみたところ、

「なぁに、お侍さん?」

 といったところで全く話にならない。

 こちらもまた明日の昼頃には、田舎の祖母を連れて帰って来るらしいし、それで何も聞けなかったら、もうそのまま写真を返すしかないのだろう。


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