覚悟 七
本日は朝のHRが終わった後、それはもうずっと終いまで自習であった。
しかしながら六法全書ほどもあるプリントの束も、三人で掛かれば案外に早く終わるもの。やり遂げたときにはもう放課後の鐘も鳴っていたが、晴れて自由の身となるのである。
冬の陽は西にだいぶ傾いて、ほのかに黄昏の気配を漂わせていた。
部室へ行くと、お嬢様はお稽古ごとの真っ最中であった。
本日のご教材は寒桜らしく、窓際の黒檀の机の上で、色の薄い花のつぼみが細々しい枝にぽそぽそついているのを、向日葵ちゃんがあっちに曲げ、こっちに向け、その後ろからミカンコ嬢がさりげなくご指導していた。
「最近は、向日葵ちゃんにも挿花のまねごとをさせているのか?」
そう問うと、お嬢様はちょいと唇を尖らせた。
「まねごとなどではございませんわ。これも情操教育のひとつとして、お花と遊びながら自然に心を浸す心持ちで、その繊細さ、自由な発想力などは、鷺ノ宮に連なる女子に必要不可欠なものでございましょうから」
「さようで」
俺は女子になんぞなったことがないから、まったくわからん心情の世界である。
しばらく黙って見ているだけだったが、その小枝をどう固定しているのかと興味津々、傍に寄って花の籠の中を覗くと、仕切止に割竹をつかって、そこに寒桜の小枝が差し入れてあった。
正月にJRの駅でよく見かけられる大菊の挿花がばっちり固定されているのは、こうした用具を見えないところに留めているためで、そこへミカンコが手を添えてかたちを整えると、花の位置はきれいに定まり極まるのである。
「なかなか良い筋ですよ、向日葵さん」
そう褒めると、向日葵ちゃんはにっこりする。まだ習いたての活けた花にも、稚拙な面白味があるらしい。
俺は向日葵ちゃんの頭に手を置くと、褒めるつもりで軽く撫で、そのままミカンコへ問いかけた。
「ところでお嬢さまよ。おまえなんでそんなに不機嫌そうなんだ?」
とっさのことなので、ミカンコも言葉を詰まらせていたようである。
この俺も、むこうから返事をしてくるまで、意地悪くさらりとした顔で黙っていた。
「いいえ、不機嫌ではありませんよ」
その言葉は俺に向けて言いかけるよりは、むしろ自分に向けて言っている感じであった。机の上の片づけを始めた彼女は、花鋏を持っても、なにかたゆたい遊ばされる。
「そうかい?」
俺は苦笑してその様子を眺めていた。
このお嬢様とはもう昨年の春以降の長い付き合いなので、こんな俺でも、彼女の危険な兆候くらいは、わりと察するようになるのである。こうしたときに不真面目なことをすると、笑顔のふりで恐ろしく威圧してくるというのが、今までのミカンコ嬢でもあるのだし。
「なぜ、そう思うのです?」
「さっきも、向日葵ちゃんと花を活けているときだけ、しゃんとして見えていたけどよ、それ以外のことになると、とたん、心がよそへ飛んでいただろ」
「あら、そうでしょうか」
ミカンコは片手で頬をおさえた。
「いくら稽古に励もうたって、肝心の心がそうじゃあなあ」
「ホホ…、花をしても欺けませんか」
彼女自身も、やはりなにかの覚えがあるらしい。
「んで、何があったんだ?」
「それは――」
室内の雰囲気は、あどけない瞳で見守る向日葵ちゃんのおかげか、ほのかに温かく、お嬢様の心も、先ほどまでとは違い、すこし和らいできたようである。
「じつは今朝、月詠の、その総代の方が唐突に私の下へ参られましたものですから…」
するとまた、感情を催してきたのか、すこし目を瞑った。
その感情問題のことが、お嬢様をここまで不機嫌にさせていたらしく、それと一緒に、俺もはっと思い出す。
「あっ、そういや!」
いちど声を上げてから、俺は「うっ」と躓いたように口を閉ざした。
なぜこんな大事なことを今まで忘れていたのだろう、月詠の、伏見宮と名乗るミカンコ幼女と、俺は今朝、あれだけの話をしていたはずなのに。
「そういえば?」
ミカンコは顔を上げた。
「い、いやあ、その…」
今さらとぼけても後の祭りだろう。
それで、ふと片方を見るとこのお嬢様、万華鏡のように移り変わる俺の様々な顔色を、たいへん興味深そうにご覧になっていらっしゃる。
俺は喉が詰まった、胸もひやりとした。
そこの美人はお返しとばかり、俺の言葉を待つあいだ、さらりとした顔で黙っていた。
「春はあけぼの やうやう薄くなりゆく生えぎわ、すこし上がりて―――」
「素敵な随筆ですわね」
ぜんぜん素敵ではなさそうにミカンコが物申す。
「雷くらいは、しのげそうだろ?」
俺はぬけぬけと言った。
「つまり今朝、先にこっそりお会いになられていたのですね?」
ミカンコは感情を押し殺してその話題を切り出した。
べつに隠していたつもりもないのだが、タイミングがとことん悪かった。お嬢様には常に肯定的であるよう、ここでは俺も精一杯の努力と賛辞を貢いでみせたのだが、まだまだ供物は足りなかったようである。
「ハンチさん、ハムスターはお好きですか?」
「なにゆえそこでハムスター?」そう聞いてから、頬を引きつらせる。「俺、今からハムスターにされちゃうの?」
「素敵なゲージも用意させていただきますよ。きっと気に入ると思います。ときどき様子も見に来ますので、ハンチさん、お元気で」
「おいおい、落ち着けってミカンコ。俺だって、お前がその話を持ち出してくるまで、なんでこうも忘れ去っていたのか、さっぱり分からねーんだからよ」
俺はいったん、口をつぐんでから、付け加えた。「これはアレだろ、なんかそういう呪いを仕掛けられていたとか―――」
ミカンコは、ふと思い直して、あっと呟く。
それから、俺に向けて手をかざすのである。その様子を注意深く観察していると、ただかざしているだけではないことがすぐに分かった。俺が目の当たりにしていたのは、高度に洗練された巫術らしく、俺に掛けられた呪いの痕跡を探すように、ぶつぶつ文言を唱えている。
そのわずかな間に、どれだけの種類の精査が行われていたのか、俺には知るべくもなかったが、実際、俺の身にはかなりの数のマルウェアみたいなものが仕掛けられていて、それをお嬢様は片っ端から削除していたというのだ。
さて、そのうちに慶将くんがやって来る。
絨毯の敷かれた床の上に正座をして、向日葵ちゃんに向けて愛の告白とやらをやらされている俺を見つけて、ひどく面食らっていた。
「いったい、なにをしているんだ、ハンチくん?」
なにもクソもこのミカンコ嬢、今朝は伏見宮のミカンコ幼女相手にお互い延々と罵り合っていたこともあって、疑いの晴れたこの俺にも、あまり慈悲深くなれる気分ではなかったようなのである。
それで俺は、その荒ぶる御霊を鎮めてこの部室にも平穏をもたらそうと、お嬢様の望むままに鎮魂の儀式を執り行っていたというわけだ。
「いやおまえも、そこで突っ立ってないで手伝えよ。うまく一等賞とれたら、ミカンコが玉露にきんつばと栗かのこまで付けてくれるってよ」
「まったく何の一等賞なのやら…」
慶将は呆れた顔をして、その長い睫毛をぱちぱちさせる。
そしてそのまま、皆とは立ち話ですむ用だからと慶将が座りもせずにいると、「お茶を用意しますよ」―――お嬢様は微笑んで奥の棚へと向かった。イケメンは恐縮そうに頭をさげる。俺はといえば、その扱いの落差にふてくされているだけである。
「お兄ちゃんも」
向日葵ちゃんに腕を引っ張られて、しぶしぶソファに座った。
その俺を見て、慶将は悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。それから、よけいな装飾の一切ないスマホを取りだすのである。どこかへ連絡でもするのかと思ったら、そうではないらしい。
「じつはミカンコさんに、ソーシャルメディアに投稿された本日の伏見宮のメッセージをチェックするよう、頼まれていてね」
「ふうん」
上流社会のつぶやきなどにまったく興味がないので、俺は適当に相槌を打つだけである。
「やんごとなき一族も、案外に今風なんだな」
「現代の法師たちも、こうしたお遊びはするものらしい。彼らの界隈では流行っているようだよ。おかげで今回、その回想録のお筆先のアヤの一端を、僕もうかがい知ることができたわけだけど―――」
慶将もたびたびミカンコから聞かされていたので、伏見宮の総代がどんな人物なのか心得ていた。お嬢様のよけいな遺恨だか禍根だかを十分にろ過して取り除いたとしても、あまり関りを持ちたくない人物であることは理解していたようだ。
その幼女の回想録の中で、今朝のことがさっそくこうつぶやかれている。
―――早朝、鷺ノ宮の娘に会いに来りて、不逞な輩、私に相談したき事柄を述べる。避けて遠ざからんとせしが、機会を逸して避けること能わず。仕方なく相伴し、教室にて慈悲深き道標を示す。
「つまりなんだ?」
「今朝、ミカンコさんに会いにきたけれど、不遜にも野蛮な男が割って入って、強引に相談まで持ち掛けてくるので、しかたなく教室にまで付き添って教え諭してやったのだと、こう述べているわけさ」
「なんですとぅ!」
まったく、不逞な輩とはずいぶんだ。「避けること能わず」とは、いかにも俺が強引に話を持ち掛けたように語られているが、現実は正反対ではないか。
そもそも俺はあんな幼女なんぞ知らんし、幼女自身が俺へ興味を持って勝手に近づいてきただけなのに、終いには、この俺がご指導ご鞭撻までされたことになっているのだから、まったくもって開いた口が塞がらない。
おまけに、妙なマルウェアまで仕掛けやがるのである。
その後のミカンコ嬢との対談では、術式を纏った猛烈な応酬がなされていたというから、それにくらべれば、まだ俺のことなんぞ些末なことにすぎないのかもしれないが、なぜお嬢様が伏見宮をああも嫌い尽くすのか、この俺も、おおよそのことは理解できたのだった。
「ミカンコも、人知れずたいへんなんだな」
俺がしみじみ嘆じてみせると、お嬢様も可笑しがって、その手にあるお盆の茶器をカチャカチャ鳴らせる。
「おわかり頂けましたか?」
「おかわり頂けちゃいましたよ」
俺の前に置かれるカップとソーサーを眺めながら、ため息をつく。
その幼女によって、いたるところ後進の法師たちが損害を被っているらしく、それに比べたらまだお嬢様はマシな方であるという。まあともかく、こうしたことで世の法師たちの異常性の一端を、俺も垣間見ることができてしまったというわけだ。
その日、ともかくも俺は、なにか術が残って心身に不調をきたすようなことでもあれば、早めにお嬢様へ連絡をすることにして、帰ることにした。
帰りしな、ポーンと校内放送が始まると、なにか教頭が慌てた様子で、生徒会の役員たちに緊急招集をかけている。
目の前の廊下を、居残っている教師たちがぱたぱた駆け抜けていった。
エライ人たちのすることになんぞ俺は興味ないので、そのまま玄関で靴を履きかえるだけである。
冬は暮れるのも早く、外ではもう街の明かりが灯りはじめているようだった。




