覚悟 六
普段、部室で何気なく口を利き合っているが、あの慶将という男、いかにも西欧風の白皙の秀才、一種の軽快な明るさと派手な雰囲気で、いつも周囲を賑わせていた。
何といっても、やっぱり女関係が派手だった。
しかし俺がこの学校にやってきて、こいつの姿をはっきり印象付けられたのは、そんな華やかに浮き立つ姿などではなくて、やっぱりミカンコ嬢と何気なく肩を並べて職員室へ入ってゆくのを見かけたときである。
パリっとしたジャケットの後姿、ほのかに笑みを含ませる碧い瞳の眼縁は、あの男の満ち足りた心境そのものの気がした。
今朝の俺は、ほんとに久方ぶりに荒川ちゃんと肩を並べて、マイクロバスまで荷物を運んだ。まるで夏休み前まで戻ったような、そんな彼女の楽しげな明るい振る舞いである。
けれどもこの彼女には、きちんと付き合っている男子がいるらしい。風の噂であるが、それを俺はこっそり確かめるつもりで、この依頼を利用し、わざわざ生徒会室にまで出向いたのだけれど、結局は分からず仕舞いであった。
よって、できるだけ平静にあたりまえの物腰言葉で、このまま彼女との会話を続けるしかない。
「ほかに、何箱、あんの?」
「あと、トングの入った箱もあります。でも、ゴミ袋の詰まった箱よりは軽いですよ。それから、旗指物みたいな学校の幟旗も、皆の目印代わりに」
「ははっ、それで合戦でもすんのかよ。海岸清掃ボランティアってのも大変だな。荒川ちゃんも、よくもまあ生徒会なんかに――」
俺は一生懸命なこの彼女に、温かい目を向けて微笑んだ。ほんと、生徒会なんかに―――と感心してみせたのは、あながち後悔や未練などではなくて、こんなに頑張る姿を見せられたら、そりゃあ横恋慕なんてきまりが悪いのである。それに、さっきの今だから。
俺があまり親し気に関わると、生徒会の中でも荒川兄妹の立場が悪くなるのかもしれないし。
運び終えると、また生徒会室に戻る。そこでは会長が揉み手をして待っていた。
俺が部屋の奥にまで足を伸ばさずとも、その会長、御自らが扉の前まで物品を持ち運んでくる。もうそのままマイクロバスにまで運べばいいのにと、俺も苦笑する。
そんな時だった、ほんのちょっとの間であるが、お兄さんではない、地味な男が荒川ちゃんと額を寄せ合って、ヒソヒソと内緒話をするのである。
さすがに俺もピンときた。なんとなしにではあるが、親戚の披露宴などでよく見かけられる、あの心を許した相手にのみ現れるふたりのその感じ、まず間違いないのだろう。
俺は見ないふりをして、ふたたび荷物を抱えて外へ出た。
両手の塞がっている俺の代わりに、会長が扉に手を掛ける。その扉が締め切らないうちに、ひらりと幟を抱えた荒川ちゃんがすりぬけて、廊下に立つのである。そして俺が正面玄関にまで歩いてきたとき、荒川ちゃんは追いついて、隣に肩を並べてきた。
俺はあのときの慶将がするような目で、この快活な彼女をそっと見守った。こんなにも近くにいるのに、まったく以て手に取りがたくも及びがたいとは―――きっとあいつもそんな心境で、ミカンコ嬢を想っていたに違いないのだ。
「遅れてすみません」
「はは、べつに競争しているわけじゃねえんだから」
俺は明るく笑ってみせた。
「それで、これを運べば、終わりか?」
「はい、そうです。ハンチさん、ほんとうに朝から助かりました。ありがとうございます」
好きだった彼女が、幸せに酔うほどに今を感じているのであれば、それはそれで良いことなのではなかろうか。
手伝いを終え、まだ取り込んでいる生徒会室の混雑をあとに、教室へ戻り、窓からぼんやり遠くの景色を眺める。
これからは校内で荒川ちゃんの姿を見かけても、あまり親密そうに声をかけることのないよう注意をしよう、そうすれば彼女を困らせることもなく、自分も楽になるからである。
いくらか生徒の抜けている朝の静かな教室で、俺はそんなことを考えていた。
時計を見上げると、まだまだ時間はあるようで、ミカンコも登校せず、慶将も現れず、飛鳥たちも珍しくいない。まるでがらんどうになった校内の教室の中に、ぽつんとひとり、俺だけが取り残された気分である。
さんざんため息を吐いたのにも飽きてきた頃、「もし、そこのあなた」――と呼ぶ舌足らずな場違いな声に思わず顔を上げる。そこには小さな女の子が立っていた。すぐ隣には女の子と手を繋いでお爺さんも立っている、もうすぐ目の前にまで来ていたのである。
「あなたが、半田さんね」
「あ、ああ?」
面喰った俺の返答も、肯定と不審のふたつがない交ぜとなり、変な調子となっていた。
「丁度よかったわ、あなただけがいてくれて…」
無垢な目を和ませて、その女の子は笑う。
まわりを人のいない机ばかりが角ばって並び、しいんと冷えた教室の中で思いがけずこのふたりを見つけたとき、俺はなにかの幻でも見ているのかとさえ、思ったほどだった。
この娘の衣装、二色の幾何学模様を交互に並べた正絹もので、その着物と風格の溢れる佇まいは見る者を圧倒していたに違いないのに、不釣り合いな愛らしい童顔だけが、そこにちょこんと乗せられている。
そしてそのお手々が握る老けた手の主は、しかるべき姓名すら忘れているようなご老人で、不潔というわけではないが、ジャージのパンツにはつぎが当たり、左右ちぐはぐな靴を履いているのだった。
俺はぽかんと口を開けて、教室の雰囲気にそぐわない奇妙な組み合わせの来訪者たちを、まじまじと見つめた。
「あなたを視ていたら、また歪みが見えたものですから。あなたはどうも乱暴に力を使って、前に進んだり、後ろに戻ったり、甚だしいときには、何度も同じことを繰り返したり。ふふ、私どもの予見視でも、あなたにかかってはかたなしですわね」
着物の幼い娘が、面白がって、嬉々とした口調で言うと、俺もその愛らしさに釣り込まれて、つい唇をふにゃりと曲げてしまった。
「あの、突然お邪魔しましたのは、今回ばかりは、少々危ういと―――未来のあなたはもう、やり直したいやり直したいの一心なのでしょうが、先の大戦の人死にのことを、また繰り返させるわけにもいきませんので、可哀そうな気もしますが、悪しからず…」
「え、えっと、何の話?」
「そこのあなたに申しているのですよ」
女の子は空いている手を持ち上げると、ちっちゃな人差し指で俺の眉間をぴたりと指してくる。
幼い娘からきりりとした態度を向けられて、俺はあたふたした。
前に進んだり、後ろに戻ったりとは、おそらく希人の力のことを指しているのだろう。ということは、やはりこの風変わりな娘も、そうした類の関係者なのだろうか。
そうしたことが分かってくると、俺はこの慌てる心をほっとなだめて、可愛らしい幼い娘に―――ともすれば検察官のように、尋ねたがり、聞きたがる。
「キミは、だれなんだ?」
「ミカンコで御座います」
「は? えっと…」
この娘を見て、そして隣に並ぶ老人を見て、俺は頭をくるくるさせた。
白髪の人の眼は呆けたように窓の外へ向けられていたが、この返答について、何か助言してくれないものかと俺がはっきり意識を向けた途端、深みのあるその灰色の目を、じろりとこちらに向けてくるのだ。
俺は思わず、息を呑んでたじろいだ。
「だめですよ」
その老人を、ミカンコと名乗る娘が叱るように言うと、その灰色の目はふたたび他所へ向けられる。全身を抑えつけていたような圧迫感が、そのときふっと和らいだ。
「ごめんなさいね、まだこの土地には慣れていないようでして」
そして幼い子は年相応に笑う。
「ええっと…」
問いたいことだらけでなにを一番にすれば良いのかわからない。そんな俺を見かねたように、幼女は口を開いた。
「私は、もちろんあなたの知っているミカンコなどでは御座いません。伏見宮の巫女。こう申せば、ご理解頂けますかしら」
「伏見宮って――、確か月詠の?」
「あら、そこまではご存じなのね」
鷺ノ宮と伏見宮、ともに宗派の異なる法師としての立場によって、交わることを良しとせず、かえって、その理念的なものの違いが、互いの心を反発させて、かくも睨み合い、嫌い合う歴史の経緯などもそれとなく聞かされていたので、俺はもう最初から手が付けられないものと観念していたのだが…。
「あのう、今度のことについては、月詠さんたちの方から、ひどい迷惑を被っているンですけど―――あのお嬢様だけでなく、俺だってもう腹が立ってムカついて、あんなこと、もうまっぴらごめんなンですよ」
そのまっぴらごめんとは、危うく妹を亡くしそうになったあの一件のことである。それを、こんな幼い娘に申し立てるのも変だけど、俺はこれだけのことを言ってみせると、もうびくびくと、そこの怪しげな老人から身を遠ざけるのだった。
「耳が痛いですね、あなたの言葉は」
伏見宮のミカンコ幼女は、いちど素直に頭をさげ、それから、突き放すような眼差しを向けてくる。
「ですが、法師は政の世界に関わらないものなのです。そちらのことは、宗徒たちのすることでしょうから」
「ちょっとまてよ、あんたたちが命じたんじゃないの?」
「あら、私たちが命じたなどと、なぜそう思われるのです? むしろ政の世界に深く関わっているのは、あなたたちの方ではございませぬか」
そう強く抗議されて、俺は出しかけた言葉を呑みこんでしまった。
まあ確かに、冷静に落ち着いて考えてみれば、鷺ノ宮だってとある議員らの後援者となっているわけなのだし、あの先生のことだって…。
「なにか誤解をなさっているようですが、宗徒たちがこうありたいと願うのであれば、私たち法師はただ頷くだけなのです。外連があればもちろん厳しく咎めもしますが、それがこの宗派を纏める法師の境涯というもので御座いましょう。法師たる者の、その唯一の務めは、人々の気づくことない事象を見分け、そして鎮めること。政など以てのほかです。ですから現に、あのバータですら、私どもには一切干渉してこないではありませんか」
あのバータ、とはイオっちのことに他ならないが、そう言われたら確かにそう。極端な話、先生がイオっちに頼んで、ハイメガなんたら砲を月詠一派に向けてぶっ放せば、それだけで事足りる話でもあるのだし。
「ええと、つまり、月詠の宗徒たちが勝手にやらかしていることで、あんたたち法師は関わってねーってことか?」
「そうですが、私どもの立場上、正式な手続きを経て取り決められたことを、あえて止め立てすることも致しません。あなたがそれを無責任だと仰るのも分かります。けれども、法師の権限で止めるということは、法師が絶対的な権力を握り、宗派を完全に支配する体制に繋がってしまうことにもなるのです。そして人外の力を持つ法師がいちど政治の世界に関わってしまったら、いったいどうなるとお思いですか?」
なるほど、それこそ「朕は国家なり」になっちまう。
俺が難しい顔をして黙っていると、伏見宮のミカンコ幼女は、ふと語調を変えて、静かに言う。
「あなたは、いったい何のために希人の力を行使しているのですか?」
そりゃあ――
「命を救うためだろ」
俺はなんの躊躇いもなく、ひと言のもとに返答した。
「人の命など、どれだけ伸ばしてみせても同じこと。なにかで命拾いをしても、他のなにかで命を落とします」
「俺は世界の理のことなんか言ってんじゃなくて、今を生きる自分たちのことを言ってんだよ」
「ええ、ええ、もちろん分かっております。それでも現実は変わらない。誰かが命拾いをすれば、誰かが必ず命を落とす。あなたにはその、本当のご覚悟があるとは、私にはとても思えないのです」
そうしたミカンコ幼女の言葉を聞きつつ、俺は、ふと胸の底が疼くような痛みを感じていた。自分の妹を助けたことを免罪符にしていたが、はたして、あの亡くなった人たちの家族は今どんな思いで過ごしているのだろう。
俺は苦しいような眼を、このふたりから外して教室にいる生徒たちの方へ向けた。
そこの生徒たちは皆、まるで外の冬空のきびしい寒さに当てられたように、凍てついた姿勢のまま固まっていた。なるほど、この娘もいちいち人目を憚っていては、これだけの話などできるはずもないのだし。
「なんだ、時間が止まっているのか?」
俺は不思議そうに、あたりを見回した。
「神域を利用すれば、こうしたこともできるのですよ。もちろん、私の友人に手伝って頂いてのことですが」
「友人?」
「この阿賀虎お爺さんのことですわ」
ミカンコ幼女は微笑んだ。
だが、今の俺は微笑み返すことすらできなかった。
かつては鷺ノ宮のお嬢様も展開していた神域でもあるが、こうした使い方もできるらしい。
「法師ってのは恐ろしいもんだな。伏見宮のミカンコさん、あんた、ほんとうに見かけ通りの歳なのか?」
そう問うと、ミカンコ幼女は俺の顔のどこかを睨むようにして、にっこり微笑む。
「あなたって怖いもの知らずなのね。いっそ清々しくて可愛らしいわ」
そしてホホホと、声を立てて笑うのだった。




