覚悟 五
太政官布告第41号に基づき、明治九年に満二十歳以上を成人とすることが定められてから百五十年あまりの時を経て、令和四年、成人年齢の引き下げが行われた。
当時の若者の精神的成熟度を考慮し、成人と子供の境を満二十歳に設定したのが始まりであったが、はたして、目まぐるしく国境が変わってゆく明治の激しい国際情勢の中で育ってきた、鼻柱の強い当時の日本人よりも、今の俺たちの方が精神的にも遥かに成熟しているなどとは、とてもじゃないが思えない。
当時に比べたら、ホント、今の俺たちは平和で自由気ままで、スマホも言論も際限がなくて、おかげで醤油差しをペロペロする事件も起きたりして、まあ実に困ったモンだけど、そんな俺たちでも十八歳を過ぎれば、もれなく成人になれてしまうのである。
もちろん、その日を境に都合よく魂が立派になれるはずもないのだろうけど、それでも、選挙権をばっちり行使できる。そしてまた、死刑を科されるのもこの年齢からなのである。
さて、街ではそんな成人式のあった週明け、まだ余裕のある一年生を対象に、スキル向上に寄与する催し物として、課外実習なるものが執り行われることになった。
つまりは将来、進学や就職先へ提出するスキル一覧のおめかしをしようってことである。
とはいえ、部活や同好会に入っている生徒たちは免除されるようで、対象者は、あくまで何もしねー帰宅部どもである―――ってことはこの俺も、そんな義務など律儀に果たさずとも良いわけで、あの情報分析部に在籍していることが、こんなところで役立つことになろうとは。
「ボクも行かないで済んで良かったよ。ほんと、寄らば魔人の陰、とは良く言ったものだね」
教室で幾度めかの席替えの後、やっぱり俺の真ん前に座ることになった飛鳥が、安堵の口調でものを言った。
こいつの言うその魔人とは、もちろん久場のことである。
してみると、こいつがあの同好会に入ったのは、そうした算段もあったからなのか、さすがは世渡り上手な飛鳥くんであると、俺も感心せざるを得なかった。
「でもズルいと思わない? こっちは最低でも半年間は在籍していないといけないのに、あっちはたった二日だけで済ませてしまうんだからさ」
「まあイイんじゃね、あっちもあっちで重労働だし。それよか俺が気になンのは――」
教育課程を受けねばならない最低時間は教育法などで定められており、こうした学校行事も授業時間のひとつとしてカウントされる。ゆえに課外実習を行わない俺たちは、教室で大人しく何かしらの課題を熟さねばならず、それが今回、山のような各教科のプリントと相成ったわけだ。
「ちっ、せっかく睡眠時間の足しにしようと思ってたのによ。当日、自習とはいえ、ちょっとひど過ぎね?」
俺はたまりかねたように言葉を洩らす。
「愚かだねぇ、ハンチ。あれを全部、まともにやろうと思っていたの?」
「まさか、飛鳥はサボる気なのか?」
あんなものでも、成績の評価には含まれるもののはず。
「そうじゃなくって、皆で手分けしてやれば、あっという間でしょ?」
「おおお?」
聞けばはじめに全部渡されて、あとは良きに計らえとのご放任。なるほど、ならばそういうテもあるか。
「もちろん皆が皆、同じ答案を提出していたらマズいけど、まあ三人くらいで取り掛かるのなら、ひとクラスでその人数、希釈されて丁度いいでしょ」
「いやあ、さすがでゲスな飛鳥さん。そうした奸智は底知れず」
「へえ、ボクは、久場くんとふたりだけでもいいんだけど?」
飛鳥は目を眇めて俺を見る。
「いやごめん、マジお願い、俺も混ぜて」
俺は素直に頭をさげた。
今こいつらに放り出されたら、ホント、俺はクラスでただひとりの放浪者となって、二日間プリントの束と格闘せねばならないのだから。
「ふふ、仕方ないなあ」
飛鳥の見返ったその顔には、いつもの得意そうな笑みに加えて、希人のくせになんとも情けない、といった呆れた感じも含まれていた。
そして、その日になった。
俺にしては珍しく、かなり早めに登校する。
朝から校庭にはひとクラス分ほどの生徒の群れ、すでに送迎用のマイクロバスまで二台ほど用意されており、本日挙行される課外実習のため、各々目的地に向けてこれから移動するらしかった。
体育を指導する男の先生が、お行儀よくするよう、皆の中央でまくし立てている。まあ俺の知ったことではないから、こちらは鞄をかついだまま通りすがるだけである。
でも校舎へ入ると、うちの教室からもその課外実習のためなのか、扉を開けて勢いよく飛び出てくる生徒がいる。そのうちの一人と、俺はまともにぶつかった。
「いったあ!」
「あ、わりぃ」
こちらから真っ先に謝罪してみせたのは、もちろん相手が女子だから。これが野郎ならば「気をつけやがれ」のひとことで終わりである。
その女子は尻もちをついて頭を抱えていた。この俺の胸部に思いっきり頭突きをかましてくれたものだから、今は軽い脳震盪でも起こしているようである。ところがよく見ればその娘、かつて同じ部にいたあの娘さんではないですか。
俺は目線を合わせるようにしゃがみ込むと、イケメンになったつもりで優しく手を差し伸べる。
「大丈夫か?」
「は、はい、大丈夫です」
彼女はそう言ってみせると、立てていた膝を直してしまった。
そこから覗き見えたスカートの中身を、俺がさりげなく鑑賞していたのを知ってか知らずか、まあ育ちの良い娘というものは、無意識に行儀を正してしまうものらしいから、少々残念な気持ちである。
「ほんとごめんなさい、ハンチ君。私、急に呼び出されてしまって…」
「いやいや、いいのよ、怪我がなけりゃあ」
この俺の規範意識が、長い学校生活の中でだんだんと希薄になり、そしてこう、退屈を感じてやや反発心を起こしかけているときでも、俺好みの清潔そうな愛らしいお顔を拝見すると、それだけでなんとなしに活力が湧いてくる。
さて、鷺ノ宮のお嬢様とはまた違った清潔感のあるその女子とは、申すまでもない、荒川ちゃんのこと。
その彼女は、もう以前のように俺を避けたりせずに、なにかを問いたげな様子でこちらを見ている。まあ言い代えるのなら、この俺に用向きのひとつでも持っているようなのである。
「あの、ちょっとお願いがあるのですが」
おや、どうやらその勘は当たったらしい。
「よっしゃ、デートのお誘いか。謹んで承るぜ!」
「え、えええっ」
「まかせろ、この俺が大人のマロンに満ち溢れたデートコースをきちんと設定してやっから」
荒川ちゃんはすっかり返答に困って、目を白黒。
「あ、あの、そうじゃなくて」
「はっはっは、分かってるよ。また生徒会の仕事で、今朝もなにかしら用意するもンがあんだろ」
そうでもなければ、彼女のような真面目な生徒が早朝から呼び出しをくらうなんてことは、まずありえない。今もグラウンドには、これから課外実習へ向かう生徒たちが、大勢たむろをしているところだし。
それでこの俺も、荒川ちゃんに連れられ職員室の隣にある生徒会室へ向かうことになる。とくにお招きでも受けない限り、俺がのこのこ富裕層の集う生徒会室なんぞに出向くことなどないから、やっぱり気後れする。
しかしこんな平民でも、あの鷺ノ宮のお嬢様とは知り合いなのである。それが、俺をして生徒会室の入りばなの静まり返ったところで、いやに緊張せずともすむらしかった。
彼女がとびらを開ける。すると、一室にとじこめられた空気がさっと外に流れてくる。それは少し暖かく、中に複数の人の温みのあることが分かると、おのずと表情もきりりと引き締まってくる。
まずは入り口に、ゴミ袋と手拭いの詰まった段ボールがでんと積み重なっているのが見えた。これを今回、課外実習のボランティア組が使用するらしい。その向こうには、威光輝く金色のトロフィーを擁してずらりと、まずは生徒会長、それから、先輩の男子なんぞにまったく興味はないから、その他いろいろ―――
「どうぞ、入ってください」
荒川ちゃんは、その彼らに取り次ぐまでもなく、そう言った。
としたところで、中の人たちもじろりと俺を見てくる。まあなんだか目つきの良くない素行の悪そうな男子が、いきなりこんな無菌室のような部屋に訪れるものだから、当然と言えば当然か。
「ちわっす」
俺は挑むような目で笑ってみせて、明るい声で挨拶をした。
すると、その他いろいろのなかで、ひとりの先輩だけが、にこにこ俺に挨拶を返してくる。他はただ一瞥をくれるのみで、生徒会長に至っては、視線すら寄こしやしない。
おそらく、その愛想の良いひとりこそが、うわさに聞く、荒川ちゃんのお兄さんなのだろう。
「キミが運ぶのを手伝ってくれるのかい? 助かるよ」
「彼女の、お兄さんですか?」
「ほう、よくわかったね。初対面なのに」
その顔立ちの品の良さ、美男なところ、やっぱり荒川ちゃんに良く似た面影があった。
その先輩は席を立つと、気さくな態度で俺の前までやってくる。それから、外のマイクロバスまで運んで欲しいと、幾つかの物品を、箱を開けて丁寧に説明するのである。
「僕らも今朝届いたばかりの物品を、今から急いでピッキングしないといけないから、もう猫の手も借りたいほどなんだよ。それじゃあ、頼むね。もし分からないことがあったら、妹に聞いて欲しい。まあうちの妹はせっかちだから、またキミに迷惑を掛けないとも限らないのだけれど」
「もう、お兄さんたらっ」
おそらくこの人は、令妹が生徒会へ入るまでの、いつぞやの夏休みの経緯をよく知っているのだろう。荒川ちゃんは頬を赤くして、兄の肩を揺すぶっていた。
「文化祭では妹も、大いに訓戒を施されたらしく、それで相談を持ち掛けられた僕も参ってしまって――」
荒川ちゃんがまた可愛らしい声を上げた。
そこへ、生徒会長がたいへん苦い顔をして「邪魔しにきたのではないのなら、そこの一年も、さっさと運んでくれないかな」とおっしゃられる。
怒って言ったつもりでも、その程度では、俺にはちっとも響かない。むしろわざと遅くして、そこの鉄皮面をひっ剥がしてやろうかという悪戯心まで湧いてくるほどだ。
「そこは、どうかお願いします、の間違いだろ、な、会長さんとやらよ」
昨年は慶将くんとの数々の試練から編み出された、この俺とっておきの、裕福なボンボン層へ向けての、完璧な煽り文句。
いっときの沈黙の後、会長は立ち上がり、唇を歪ませ笑い出した。
「ハハッ、なんて不調法な一年だ。キミがどこの部に所属しているのか、私は知りたくもないが、こんな輩を入部させるなど、そこの責任者は、さぞや無能な人物に違いないのだろうね」
それを聞いて、荒川ちゃんは信じられない顔つきで生徒会長を見返った。彼女のお兄さんも同様、そこで頬を引き攣らせて固まっているのである。
さて、今からどれだけの文句で煽り立てたら、この会長の言動を墓穴にまで持っていけるのかと、俺もいろいろ苦心するつもりで、まずは撒き餌とばかりに誘いの文句を投げつけてみたのだけれど―――まさかいきなり地球の裏側にまで掘り抜いてくれるとは思わなんだ。
「キミたち、なにを黙っているんだ?」
こちらの反応に不審を抱いたらしく、会長はひとり、狼狽えて、会話に参加していない他のメンバーにも意見を求める。
その彼らも、呆然と会長を見返していた。
俺はかるく息を吸うと、芝居がかった仕草で賛辞を述べてゆく。
「いやあ、さすがでございますな。全生徒の頂に立つほどの実力を持つお方であれば、皆が愚かに見えてしまうのも無理からぬこと」
「な、なんだ、いきなり」
会長がぽかんとする間に、俺はなおイケボでお芝居を続けた。
「その崇高なる会長様に、とんだご無礼を働いたとなれば、それは俺ひとりの責任などでは、到底、賄いきれるものではございますまい。やはりここは部活を預かる立場の者を、直ちに校内放送で呼びつけて、あなた様が直に叱責なさるのが、筋合いなのでございましょうな」
生徒会メンバー全員の顔が、蒼白となるのを会長は眺めわたし、そして俺にひたと目を据えた。
「キ、キミはいったい…」
そして会長は、今さらながら、はたと気づいて、折り畳み式のテーブルの上にのせた両手を、ぎゅっと固く握りしめるのである。その拳は、こまかに震えだしていた。
「どれ、俺が直接、あいつを呼び出してやりますよ。会長さん、校内放送の許可を」
「は、はは、それには及ばないよ。キミの無礼も、今回ばかりは水に流させてくれないか?」
会長の口調は、しぜんと懇願調になってくる。
しかし意地悪な俺さまは、表情を変えることなく、そのままのお芝居を続けるのであった。
さて、部費の予算配分に強力な権限を持つ会長さんが、すこし不機嫌になるだけで、今までは誰もが動転して大人しくなっていた。
まさか一年の外部生の、どこぞの馬の骨とも知れない貧相な小僧がこのような逆襲を仕掛けてこようとは、会長もまったく予想していなかったようである。
普段から、イエスマンばかりを周囲において、会長としての権威をあまりにも重く考えすぎていたために、こうした失敗をしでかすのだ。
まあそれにつけましても、虎の威を借る狐の心境が、こんなにも甘美なものであるとは、俺もまったく知らなんだ。
あまりお調子に乗って、勝手にお嬢様を持ち出したことを、後で叱られたりしたら大変なので、ここいらでひとつ、手打ちにしてやろうと思っていたけれど、ちょいと判断が遅かった。
「すみませーん! 会長になって、ちょっと浮かれすぎていましたっ。謝りますので、どうか、どうか鷺ノ宮様にだけは、何卒、何卒、ご勘弁をっ!」
この威丈高な会長、ひどく取り乱して、もう土下座までしてくる始末である。
俺は喉に声を絡ませ、うめいて棒立ちになっていた―――やっべ、これ、学校で噂になって、マジでお嬢様の知る案件になっちまうやつじゃん。
他の生徒会のメンバーも、会長のなさけない一面を垣間見て、ひそひそやりだす。
こりゃあ、今からでもかしこまって、ミカンコ嬢への謝罪文の草稿でも考えておいた方が、健康のためにもよさそうである。
「ああ、もうすでに胃がいてえ…」
今朝から墓穴を掘ったのは、なにも会長ひとりだけではなかったようなのだ。




