覚悟 四
週開け、学校から家に帰ると、妹に虐めを行ったあの中坊が亡くなったことを母さんから聞かされた。俺はさして興味のないふりをしていたので、どうしてそれを確認できたのか、自分から詳しく訊くわけにもいかなかった。
鞄を部屋のベッドの上に投げると、中学の時の数学の公式集を借りるのを口実に、妹の部屋へむかった。ノックの後、とりあえず陽葵の顔が見てみたくて、少し扉をあけたところ、その妹が、淡い花模様の羽布団の上に、うつぶせになって身を沈み込ませていた。
よく整理された勉強机の上には、キャラクター物のマグカップが置いてある。その中身は、まだ少しも減っていなかった。
「陽葵ちゃん、ちょっと借りるぞ」
「う、うん。――今何時?」
そう問われたので、俺は目の前の本棚にある、大きなベルがのった丸い時計を覗き見て、「四時半」と答えた。
「そう――」
そしてまた、沈黙である。
表向きの話では、深夜に少年院から脱走したあの中坊は、仲間ふたりの手引きを受けて、盗んだバイクで逃走中に、交通事故に遭ったことになっていた。
そんなことを、弁護士から連絡を受けた母さんが、さきほど、陽葵にも直接的な表現を避け、遠回しな言い方で伝えたらしい。
「ねえ、あの人、死んじゃったんだって!」
そんな言葉をいきなり背中に浴びせられる。
振り向くと、陽葵が愕然とした顔で半身を起き上がらせていた。続けて、ベッドのスプリングがキキッと鳴った。
「そうか」
「う、うん、そうなの…」
俺の反応が鈍いのが気になったのか、妹は母さんから聞かされたことをそのまま口にした。
俺もなにか口を開きかけたが、どんな言葉を返してやればよいのか、すぐには思い浮かばない。妹は、そのままベッドの上で寂しく座ったままである。
そしてその唇から、か細い声を洩らすのだった。
「あのね、それを聞いたとき、ほっとしたの。いつまた戻ってきて、ぶたれたりしたら怖いなって思ってたから。でも、そう考えているのに気付いたとき、驚いたの。人が亡くなったのに、私、喜んでいるんだもん」
妹は血の気のない顔を向けて、少し慄きながら、これだけのことを言ってくる。相手がどんな悪人であれ、人の死を悲しむ切ない気持ちと、そしてまた、自分に対する不快な気持ちに怯えて、それは優しい妹の哀れさを、俺に痛いほど思わせていた。
無意識のうちに、まるで向日葵ちゃんにそうするように、俺は妹の頭にもこの右手をのせていた。
「大丈夫だぜよ、覚悟があればな」
俺は、そんなことを陽葵に言った。
「覚悟?」
「そう。覚悟とは、生きるのに誰もが必要なもんや」
そしてなお、言葉を続ける。
「人間、ただ奇麗なままじゃ生きちょられん。誰かのために、それを踏み越えて生きてゆく覚悟が、いつかは必要になるやろ。今回のことも、そうやっち思わんか?」
そして俺が力強く笑うと、釣られて妹も、不思議そうに微笑んでみせた。
「なんだかお兄ちゃん、九州のお祖母ちゃんみたい」
「ほうか?」
こだわらない強い心、そして立派な人生の裏付けを持つような、ものの感じ方、考え方が、この口なんぞから飛び出たことに、俺自身が驚いていた。
ほんとうに、親代わりの気持ちとして、俺はそう話してみせたのだと思う。陽葵の方も、少し驚いて、その潤んだ瞳の中に、なにかを見出しかけていたようだった。
俺は柄にもないことを、と笑って自重したが、妹も少しは元気になってくれたようで、ほっとする。
実は今日、俺も部室で教えられてはいたのである。あの鬼野郎の顛末について、どのように世間と辻褄合わせをしたのかを。
それにしても不思議だ。
咄嗟のこととはいえ、この俺なんかが、そんな偉そうな立派そうな人生論を語るだなんて。
さて、少し話は戻るが、この日の放課後、見かけによらない小心者の俺は、お嬢様と慶将に当時の詳しい説明を求められて、あわあわと逃げ場を失い部室にまで引っ立てられていた。
そのときも、やっぱり向日葵ちゃんのか細い背中に隠れてしまった。
この娘は丹造さんの細工によって新たな擬装を施されており、そこで俺の話す向日葵ちゃんの活躍ぶりに、慶将の口からもそれにふさわしい評価と賛辞が送られた。
それから、鬼に混じっていた妙な外国人のことを語ると、ふたりは小さく頷き合う。これも最近分かってきたことであるが、どうやら外国産のお狗さまが、日本へやってくる旅行者たちの間に紛れ込んでいるというのである。
「あれ? 狗って日本だけじゃなかったっけ?」
ぽけっとする俺の前で、慶将が苦笑する。
「ハハ、そんなわけないだろう。もちろん呼称は地域によって様々だろうけど、希人が存在する以上、どこにだって普遍に存在するものだよ」
「つーことは、希人も、世界のどこにでも現れるものなのか?」
「もちろん現れるのだろうが、同じ時期にそれらしいものが複数現れたという記録はないようだ。この時代では偶々、ハンチくんの身に降りかかってきたのではないのかな」
「へえ」
全世界、それも一つの時代でひとりということは、年末ジャンボで前後賞を総なめにするよりもすごいのか。
「なら俺、控えめに年末ジャンボの十億だけでも十分なんですが」
「どこが控えているんだ?」
慶将が呆れ顔でいる。
「ホホ…、ハンチさんの、と申すよりは、その遠い叔父様の続きでございましょう?」
ミカンコは笑った。
その叔父は、いまでも昔の九州男児らしく謹厳実直なお方であった。
そんなお方と令和の高校生という、世代の深い断層をまたいでの妙な組み合わせとなっているのだが、その遠い叔父に敬意を示して何かを知りたがっても、あいにく、俺自身はそのご尊顔を仰ぐことすら叶わない。
「ところで、先生の方はまだ忙しいのか?」
「ええ、今も市ヶ谷の方にいらっしゃるそうですわ」
その叔父が軍人なら、あの先生も元来は防衛省の役人なのである。けれどもその人は明るく爽やかで聡明な現代人でもあったので、俺は先生の意見も、ちょいと聞いてみたかった。
あの人の話しぶりは、打てば響く調子のあざやかさで、こんな俺でも理解は容易いのだろうから。
「それで私も、その先生の代わりに、本日はハンチさんにもお話しておかなければならないことがございまして」
お嬢様はそんな前置きをする。
低軌道よりもさらに低い位置にまで高度を下げることによって、分解能を五センチ以下にまですることのできる米国のステルス型偵察衛星がその姿を捉えたのは、昨年末のことらしい。
ロサンゼルスと東京を最短距離で結ぶ太平洋航路の、その北緯50度あたりにまで北上したところに突如現れたのは、国籍不明の水中航行艇であった。
その情報は、年明けに米軍から東京・市ヶ谷の統合幕僚監部にも伝えられることになる。
ハワイ州オアフ島にある米海兵隊基地から飛び立ったP-8A哨戒機がさっそくその調査を開始、それと同時に、沖合に停泊していた艦艇が向かい、当海域の哨戒任務に当たるのだった。
「当初は、昔の日本の潜水艦ではないかと危ぶまれていたものですが」
「ん? 違ったのか?」
「はい、なんでも、在日米軍から伝えられた情報によりますと、大きな鯨のようなものだったらしく…」
なあんだ―――栞雫嬢の傀儡でないのなら、俺もほっとした感じであったが、その駆逐艦が損傷したことを聞かされて、びっくりする。
「軍艦が? なんで?」
「さすがに、先方もはっきりとは申さなかったようですわ」
まあ、軍事上の機密ってやつだろうしな。
「ハンチくん、それは米国の新聞社のヘリでも確認されているよ。レーダーアンテナのすぐ下に大きな損傷があって、ホースを使って排水作業をしながら、港に戻ってきたそうだ。写真で見ると、すこし右舷側にも傾いているようだね」
そして、「ほら」と掲げられた慶将のスマホには、日本のマスコミすらまだ把握していない損傷事故の上空写真が映し出されていた。
「船同士でぶつかりでもしたのか?」
「だとしたら、隠さずにはっきり言ってくるだろう。相手方の船もあるのだろうし」
かつてハワイの米海兵隊に所属し、今も嘉手納基地で半年ほど勤務している先生のオトモダチの意見では、その「鯨」から攻撃を受けたのではないかと疑っている。
「攻撃って、そんなに鯨くんも寄生虫の居所が悪かったのかな」
「ほんとうに鯨だったら良いのだけどね」
「ひょっとして、どこかの軍艦だったとか?」
「もしそうだとしても、他の同盟国すら知らないようだから――」
アジア太平洋地域の軍事情勢について、米軍が何らかの見解を求める場合、真っ先に目を向けるのは、太平洋にじかに面している日本ではなく、豪州やシンガポールとされていた。
日本の安全保障政策は、ついこの前まで米国以上に対外不干渉の姿勢をとっていたので、そのような委縮した同盟国は、本国の国防長官たちにとっても、あまり好ましい同盟相手とは思われていないようなのである。
「そうした評定グループから日本が外されてんのは、まあ仕方ねーとしても、よその同盟国にもその話を持ち掛けていないとなると、他国の軍艦じゃないってのは確定なわけか」
「ミカンコさんは、魔人クラスの狗を想定しているようだよ」
「おいおい、いきなり飛ばすなあ。久場みたいなのが、他にもいるってことか?」
魔人クラスの狗など、そうそうにいるものではないと、俺も飛鳥から聞かされている。しかし世界に目を向けるのならば、そりゃあ、いても当然か。
「これは複雑な問題を含んだケースタディでもあるのだろうけど、いかに魔人クラスといえど、衛生画像のドットの一塊に過ぎないその『鯨』を、なぜ米軍の衛星が早期に発見、特定できたのか。僕はそちらの方が気になるね」
慶将の口から漏れた吐息が、なにかの憂慮を示していた。もし誰かがあらかじめ知らせていたのだとしたら―――
軍の機密のことである以上、それは推測の域を出るものではない。しかし先生たちの収集した様々な関係者の意見分布を検討した結果、その事実が示唆するものは、やはりそうとしか思えなかった。
「つまり、これも月詠の仕業ということですね」
ミカンコがずばりと言う。
「ははあ、はからずも役者たちが太平洋でかち合ったわけですか」
「なんだよ、役者って」
妙な表現の仕方に、俺は軽く首をひねった。
「そういえばハンチくんは、まだ知らないのか」
慶将は姿勢を変え、こちらにその青い目を向けてくる。
「世界各地の超常現象にこの国が起因していると米国に知らせつつ、その月詠は、世界各地の狗たちにも希人がここにいると触れ回っているようなんだよ」
「うっわ、なんでよ、くそ迷惑な!」
月詠の偉い偉い誰かさんが発議して、この国を舞台とした古い伝統にまつわるお芝居を、ひとつ公演することにした。
世界一と謳われる軍隊も丁度そこにあったので、それを正義のナイト役に仕立て、手土産の火廣金も用意してあるので、余儀なく手伝ってくれるものと確信していた。
ピエロ役である俺たちは、公演のその日に、真打格のつもりで、ひたすら月詠の呼び寄せた野良狗の世話係を任されることになる。
そして肝心の舞台の上では、すっかり月詠の台本通りに皆が演じられているのを、何も知らない一般の観客たちが手に汗握って見守るわけである。
こんな腹立たしいひとりよがりを、一切合切、月詠ばかり良い気分にさせて、その上まだ何かをやらかそうと企んでいるのだから、始末に負えないのだ。
「つうか、それでこのところ、外国産の狗がやたらと増えたわけなんかい。ちっ、俺たちゃ釈迦の掌のお猿さんじゃねーんだからよ」
してみれば、あの中坊の背景もそういうことである。俺は不満そうに文句を垂れた。
「まあまあ」
慶将が笑って宥めてくる。
「もう、なんかこう、こっちからも上手いことできねえの?」
「ハンチさんがそうご立腹なさるのも、無理のないことですわ。しかしだからといって、私たちが何もしなかったら、それこそ、狗によってどのような災厄が世間に持ち上がることか」
ミカンコも仕方なさそうに声を落としていた。それが、ふっと語調を明るく変えて言うのである。
「ホホ…、ですからハンチさん、ここはひとつその芝居にのって、月詠の最後にしたいことを暴いてやりたいと思いませんか? そこで鮮やかにひっくり返してみせましたら、月詠も、さぞや悔しがることだろうと思いますよ」
さすがはお嬢様、俺の気持ちをよく分かっていらっしゃる。
ミカンコは、俺の後ろに立つ向日葵ちゃんを呼び寄せた。
「昨年はこの娘まで攫われて、社会にこれだけの騒動を起こしておきながら、月詠の方は、我ひとり清しとお澄ましになられて―――ずいぶんとまあ久しぶりに、私もあの方のお顔を拝見してみたくなりました」
「あの方?」
俺がたずねると、お嬢様は向日葵ちゃんに向けた眼を転じて、事もなげに言った。
「月詠の、総代の方のことですわ」
「なんだよ、面識があんのかよ」
ならもう、そのおっかない眼でとっちめてやりゃあいいのに。
そんなことを言うと、ミカンコは、向日葵ちゃんの前髪を整えながら、ゆったり笑った。
「そもそも、法師は祭りごとに関わってはいけないものですのよ。過去の経緯からも、そう心に固く決めたものでした。この世ならざる者を知る私たちは、人々が生きている世界とは異なる領域にまで踏み込んでいますからね」
「でもよ、月詠さんとやらは、もう政治にどっぷり浸かってね?」
「ですから、その舞台の終わりには、なにか遠大な結果でも生じるのでしょう」
俺は、ちょっと慶将と目を合わせてから、ふたりで同時に口を開く。
『たとえば、どんな?』
「さあ、私にも皆目―――ホホ、ひょっとしたら、この国の終わりかも知れませんし、始まりかも知れませんよ」
ミカンコは、なにか意味深な話しぶりで俺たちを煙に巻いた。
「とにかく、私たちは私たちのできることに励みましょう。幸いにも、芹沢さんがこちらの味方になってくれているのですし」
そう言うと、ミカンコの指はまた向日葵ちゃんの身だしなみを整える作業に戻るのである。




