覚悟 一
新学期も、やっぱり朝の七時半ころに翠ちゃんが現れて、うちの陽葵を連れてゆく。以前のように隠れる必要はなくなったので、俺も妹と一緒に家を出る。
その妹たちと別れてから、太い国道へ出るまでの道すがら、すぐそこの歩道沿いに社名の入った軽トラがとまっていた。窓をさりげなく覗くと、ハンドルを握っているのは制帽に作業着姿の若い運転手であった。
俺が横を通り過ぎても降りてこないところをみると、今日も平穏ということらしい。
このように、公安の人たちがいくつかのグループに分かれて、今は妹の警護をしてくれている。この前の騒動で向日葵ちゃんの面が割れているので、そのことを慮ってのことらしかった。
というのも、今や米国はおろか、外国の第三勢力までもがたいへんな関心を示していらっしゃる。
非公式ではあったが、昨年の件について、とある国の在日大使館が外務省を通じて、警察庁に行方不明者の捜索を要請してきた。
ところが失踪したとされるその人物の詳しいリストを求めるも、かの国は言葉を濁して出し渋るのである。まあ当然といえば当然か。
とにかく県警によって近隣地区の大捜索が行われることになるのだが、大山鳴動して鼠一匹ならぬ兎が一羽、それが横須賀署の裏手にあるゲージの中で、今も大切に飼われているのである。
幸いにも、お嬢様のことはいざ知らず第三国にも俺たちのことまでは関心を持たれていないようなので、このとおり、今は安穏と過ごしていられた。
実情を知らなければ、まさかこの冴えない男が全ての根源であることなど知りようもないのだし。
後になって考えると、横須賀での一件が外国勢力に対して、少しは歯止めにもなっていたようで、それは公安側も認めているように、もし向日葵ちゃんが易々と強奪されていたなら、果たして他の勢力も指をくわえて黙って見ていたのかどうか、そのことがたいへん懸念されていたのだった。
放課後になると冷たい風が吹いてきて、木造校舎の古い窓枠をガタガタと揺すらせる。
俺は両手をポッケに突っ込んだまま、寒い日のそんな校舎へわざわざ赴いた。なんたって空調も、そこの部室だけはよく効かせてあって菓子もあって美人もいるからである。
扉を開けると、久しぶりに見る先生はいつもの大卓を演壇に見立てて、その聴衆役を慶将が勤めていた。
「今回の事案は、それでもあの国にとって、まだマシだったのかもしれないわね」
忙しい中、東京からわざわざご足労頂いた芹沢女史が、俺を見つけてニコリとする。
「あれだけの人的損失を出したのに、ですか?」
俺がよいしょと尻を落ちつかせた向こうでは、ティーカップを手にした慶将が、意外そうな顔をしていた。
「どこの国でも工作員として最低な不手際というのは、現地の警察に捕まることなのよ。彼らは日本で何年も囚人になって刑務所で過ごしていれば済むような、そんな気楽な立場ではいられないの。分かるでしょう?」
「そこに収監されているだけでも、自国の信用を失墜させる良い宣伝にもなりますからね」
俺は琥珀色の液体が注がれたカップを向日葵ちゃんから受け取って、会話に夢中な二人を交互に眺めた。
どうも先生たちは、俺をいちど撃ち殺してくれたあの連中のことを話しているようなのだ。
それで、今もその残党が警察署の裏庭で飼われているというのだが、さて――。
「ねえ、巫女さん、お手数だけれど―――」
先生が呼びかけた向こうでは、間仕切りのカーテンがすうと開かれて、ミカンコ嬢が顔を出してきた。
その眉目にはたいへんな気品が備わって、誰が見てもお嬢様である。
それまで俺の後ろで大人しくしていた向日葵ちゃんがぱたぱたと駆け寄って、そのお嬢様の抱えている茶菓子の盆を受け取った。そこからまた綺麗な声もする。
「ハンチさん、いらっしたのですね」
「はいはい、いらっしましたよ」
ミカンコは小さく微笑んでみせると、その笑みを先生の方へ向けた。
「その襲撃者のことでしたら、里見さん、私はいつでも…」
平然としたお嬢様の返答に、先生はさも意外そうな顔をする。
「そう? 助かるわ。今週中にもあの国へ何かしらの返答をしないといけなかったから」
「この国のお役人任せですと、待つ側にとっては実にしんどいものですからね」
「私も外務省から泣きつかれて困っていたのよ。与党との連立を離脱したばかりのあの党首さんが、毎日のように進捗を聞きに来るらしくて――」
先生に言わせると、その議員のすることにはことごとく先方の利害が働いているという。
「その党首さんも、よその国ではなく、この国のためにもっと精を出して頂けたらと思いますけれど、ホホホ、かまいませんよ」
一度かけた呪いを解くことに、お嬢様はあえて注文をつけなかった。
それもこの女史の能力をたいへん評価していればこそ、あらゆる実務的な問題に、てきぱきと抜け目のない判断を下せる人間というのは、そうそういるものではないからである。
俺一個人の見立てとしても、ぼいんと張ったあの乳構えには一種の凄味すら覚えていた。
「なあミカンコ、この向日葵ちゃん、もう大丈夫なのか?」
大卓の中央に置かれた茶菓子を手でつまみながら、俺はお嬢様へ訊いてみる。
「はい、筐体の方はもう。ですが、丹造さんがおっしゃるには―――これは実際、私がさらりと説明できるほど単純なことではないようですが、この子の思考のありようを理解するうえでも、まずは日常の活動をじっくり観察しませんと、どうにも判断のしようがないそうです。人は精神が病むと、身体の方にも変調をきたすように、自我を持つこの子については特にそうらしく――」
「へえ」
傀儡の工房師というものは、技師と同時に、ある意味、精神科医でもあるわけか。なるほど奥深い。
「それとまた、あの小さな神さまに対抗できるよう、妙な仕掛けも幾つか――」
お嬢様は椅子を引いて、自分の席に腰を落ち着けた。
「なんだよそりゃ」
「あの方も、工房の師としての血が騒いだようでございまして。ホホ…、幾つになっても男の子ですわね」
そして俺の顔を眺めては、大げさに歎じてくれる。
あのイオっちに打ちのめされた悔しさが、どうも丹造さんの自負と闘争心にいらん燃料を焼べてしまったようなのである。
「何をどうしたのか、詳しくは伺っておりませんが、私は今のままでも十分に可愛らしいと思いますよ」
ミカンコは隣に立つ向日葵ちゃんを愛でながら、そんなことも言った。
そりゃあ、お嬢様の中では、可愛いが正義なンだろうけどさ。
「そういや、おまえそっくりの傀儡の方は、どうしたんだ?」
俺はもう、ずけずけとお嬢様にものを訊ねる。
「もちろん工房の方に置いてありますよ。あのように精巧な外見を持つ傀儡は、構造上、大きな制約もあるそうでして」
「制約って?」
「ハンチくん、それは、重量や耐久性、バッテリーに関することだよ」
むこうから聞いてもいないのに慶将が答えてくる。
「なにもそこまで私そっくりにいたしませんでも、貴重な火廣金ですのに」
「単なる嫌がらせにしてはずいぶん、って俺も思うンだけど?」
「傀儡を扱う者たちは、流派に関わらず、皆が変に凝り性なのですよ。昔からの職人気質というものでしょうか」
ミカンコは前に置かれたティーカップを持ち上げ、すこし口に含む。
「筐体そのものはすでに無害となっております。丹造さんが自信を持って申すのですから、そうなのでしょう」
しかしながら、その駆動時間があまりにも短いため、今のままでは日常の使用にすら不便であるというのだ。
「それで、うち工房師たちが前に月詠から頂いた火廣金をなんとか継ぎ接ぎして、もっと長く活動できるようにと―――」
「なんか、ミニ四駆みてぇだな」
そうしたカスタマイズ性もあるのだったら、なるほど丹造さんたちが夢中になるのも頷ける話である。
「私にも、自分用の傀儡があったらなあ」
おねだりのつもりなのか、先生は眉尻をさげてお嬢様を見ている。その魅力的な唇から洩れでる甘い吐息だけでも、ふつうの男ならたちまちに骨抜きだ。
「あら、代わりによく働く男性たちがいるではないですか」
ミカンコは悪戯っぽく笑った。
その容姿に惑わされがちになるが、この芹沢女史も、長らく役人を勤めた実力派の淑女なのである。辣腕を揮う彼女の光芒をいち早く認めて、その下に集う男性陣も、やはり非凡の人材ばかりであった。
「米国のJTFの存在を認めた今、さっそく諜報部の大物が動いていたことを知って、私も驚いたわよ。ほんと、どれだけ身体がふたつあったらと思ったことか」
「それはあの、少佐のことですか?」
慶将が聞く。
「あなたもその現場にいたのよね。どうだった?」
「そうですね、冗談も言う気さくな方で、こちらの事情も分かっている印象でしたが、とにかく本国中心に物事を考える人、といった感じでしたね」
先生は慶将の顔をじっと見ていたが、頬にかかるほつれ毛を指先で掬い上げると、ゆったり微笑んだ。
「ちょっと調べたら、彼は在日米軍の主要ユニットの中にもいなかったので、急ぎ本国から来たのは、まず間違いないわね。もっと詳しく言ってしまえば、彼はサブラ、生粋のイスラエル生まれだそうよ。国防軍のエリート部隊で兵役を済ませた後、渡米して帰化している」
「米軍にスカウトでもされたんですか?」
「そこらへんの経緯までは調査が進んでいないけれど、今は戦争の裏も表も知り尽くしている米国の権臣ってとこかしら。最近では赤坂にある米大使館での折衝や、防衛省の制服組との会合にもよく顔を出しているわね。おそらく今のJTFの意向を代弁する形で動いているのでしょうが」
JTFを組織したといっても、いきなりそんな大部隊が日本で活動できるはずもなく、とりわけ、血気盛んな若者を擁する海兵隊などは、どの国でも現地との軋轢を生みやすい。ゆえにそのJTFの先駆けとして少佐が仲介することは、ごく自然な流れでもあったらしい。
「そして、そんな彼らを唆したのが、どうやら月詠らしいの」
「え、月詠が?」
慶将は初めて知った顔で、かるく驚いてみせた。
多くが官職や政策学者などからなるその月詠のグループも、初めはまったく相手にされなかったようである。しかしながら、その頃にはすでに米国各地で奇妙な事象がいくつも報告されていたので、そうした下地はあったようだ。
「もとより、アジア太平洋地域は、以前とは比べ物にならないほど重要になっているのでしょう。そこへもって、有事の際に決め手の一つとなるもの、先のパレスチナ問題、そしてウクライナ戦争で今の戦争のあり方を詳細に検討し尽くした米国の統合参謀本部も、太平洋にはまだ地域に見合ったFPV (First Person View)ドローンが十二分に機能していないと、かねてより懸念していたものだから――」
「なるほど、それこそ傀儡は、高度な知能をもったドローンですからね」
てきぱきした気性で語るご婦人の前で、会話について行ける慶将くんの姿勢、並びに言葉はたいへん積極的な感じで、俺様はすっかり蚊帳の外である。
「日本のコミックブームも侮れない、と鼻で笑っていた連中も、実戦に耐えうる宝がこの国にあると知れば、当然、目の色も変わってくる。厚木基地での案件では、それまで彼らが抱いていた予測を―――米国の国防長官がその被害報告を受けて、カンカンになって米大使に問いただした結果だけれど、その想定をはるかに上回るデータも得られたわけですから」
一息ついたところで、そのお宝ちゃんが空になった先生のカップに紅茶を注ぐ。先生は唇をほころばせて短くお礼を言うと、姿勢を変えてミカンコ嬢に向き直った。
「ねえ、ほんとに、この娘みたいなの、なにかひとつくらい余ってないの?」
「その基となる火廣金がどれほど貴重なものなのか、里見さん自身もよくご存じのはずですよ」
すると、ひと呼吸あって、
「だから、それが目的じゃないのかな」
先生は悪戯っぽい目でお嬢様を見つめている。
「それとは、なんですの?」
「月詠の言う超自然現象を口実として、米国がJTFなんてものを組織してこの国へ押しかけるのも、武力でそれを回収するためではないかしら。ひとつふたつ拾っただけでも、十分に元が取れるのでしょうし」
「つまり、栞雫さんの傀儡を自衛隊に先んじて回収するために、ということですか。たしかにあの国でしたら、それだけで十分なのでしょうが…」
先生は、なにか他のことが気がかりなミカンコを見つけて、聞いてくる。
「――ふうん、なるほど。逆に月詠はその米軍を利用して、この国で何をしたいのか、巫女さんはそっちの方が気になるわけね?」
「いまでこそ月詠は、経済的にも社会的にも国を支えるようなエリートたちばかりですが、元来、土地神との信仰的な結びつきによって生まれた集団ですから――」
「極めて緊密な地縁、血縁を軸としているから、ガードがすこぶる高く、情報がよそに漏れでる心配もなしと―――うちにとっては、ここがもっとも頭の痛いところよね。うわべには礼儀正しく公平、几帳面で清廉潔白、いわゆる典型的な上流社会の人間で、そうと分かっていなければ、まず怪しまれることのない人種でもあるわ」
「ですが、彼らの建前がどれほど民主的であっても、心の柱には正統な大和民族の優越というものがございます。彼らと手を組むと、どんな成果も結局はすべて彼らの手に渡るよう仕組まれているのです。そのことは、里見さんも何度か覚えがあるのではなくて?」
「まさに私が宮内庁まで押し込まれたのがソレね」
先生はさらりと言って、笑った。
「その月詠が、うっかり小さな神さまにまで手を出して火傷をしていたのは、滑稽でしたが」
「あらあら、そんなことまで知っていたの? あなたもなかなか油断ならないじゃない」
先生の笑いは続く。
「幸い、まだ事は始まっておりません。思想や政治に無縁な狗たちを口実にして、その思想や政治に関わろうとするのが月詠というものですから」
ミカンコは、持論になにかの一石を置いて、口を閉じた。
「大丈夫よ、私の目の黒いうちは、この国を壊すようなことはさせないし、そこで鷺ノ宮も頑張ってくれるのなら、私もイオちゃんも支援を惜しまないつもりよ。こう言うとなにか、ヒーローの裏方っぽい感じかもしれないけれど」
ミカンコの憂いた持論を理解するのに、残念ながら今の俺の鈍い頭では追っつかない。
今ならまだ、これから起こりうる幾つかの案件も、遠慮なく聞けたはず。
小僧の俺が核心に触れることは無理だったとしても、ここであえて積極的にならなかったのは、やっぱりどこか面倒な生活に巻き込まれたくない気持ちが、すくなからず心の隅に残されていたからである。




