妖精作戦 十一
「拡声器ですか? はあ、も、もちろん車に積んでますが、そこから大音量で音楽を流すとなると…、ああっ、所轄から車ごと借りてきましょう。あっちの方が、たぶん使いやすいと思いますから。あ、あの、石井くん!」
それでしばらくすると、後ろの方からハイブリット車の独特な走行音が聞こえてくる。慶将たちが路を譲ると、そのパトカーはライトを消して、運転席から石井さんが顔を出してきた。
「これならいけそうですね。ただ、なにか音楽を流すにしても、誰かCDとか持ってます? この車のレコーダーシステム、そうとう古いやつなんで…」
石井さんは中を指さしながら言った。
「それなら」はっとした表情で加藤さんが顔を上げる。「あの、う、うちの木村の私物ですが、乗ってきた車の中に、いくつか―――」
ぼんやりした明かりの中を、それで加藤さんは背を丸めて走り出すのである。
慶将は一息にここまで喋ると、ペットボトルの蓋をひねって、ぐいっとお茶をあおった。
「いや、マジで、おまえも大変だったんだなあ」
俺はふーっと肩で息をつく慶将にむけ、労うように言ってやった。
「加藤さんたちの前では毅然としていたつもりだけど、やっぱり僕みたいな若輩者が指示を出して、立派な肩書を持つ大人たちを顎で使うというのも、なかなか神経を使うものだよ。鷺ノ宮家のご威光がなければ、とうに逃げ出していたのかもしれないな」
慶将は疲れたような顔を向けてくる。
「いやいや、感心するぜ。つまりはスマホから聞こえてきた昭和のノスタルジアも、木村氏所有のCDからだったというわけなのね」
「ああ、そういえば、僕はキミにも連絡を入れていたな」
「夜中、迷惑にもな」
「仕方なかろう。向日葵さんが故障して動けないとなれば、なにかあっても君自身でがんばってもらわないといけないから」
俺なんかにあんまり期待されても困るので、そればかりは承諾しかねるのだが。
「ところでさ、どんな効能があったんだ」
「うん?」
「いや、あの狗に対抗するために、なんか音楽を流したっつーのは想像できるんだけどさ」
ここまで聞いてしまったら、さすがに最後まで聞かずにはいられない。
「そりゃあもちろん、狗のコントロールを阻害するためだよ」
「なんでそんなもんで阻害できンだ?」
「僕も彼女からそう詳しく聞かされていたわけでもないけれど―――私見でいいかい?」
「かまわねーよ」
「なら、そうだな。たとえばこう、五感でとらえられた感覚というものは、脳がつねに処理して、様々な概念へと変換されている。まあ今回の場合は音楽だったわけだけど、ミカンコさんによれば、あのような狗は、人の感覚に影響を与え、その概念を支配しようとするタイプのようなんだ」
「よくわかんねーけど、催眠術みてーなもん?」
「うーむ、どうなのかな」
慶将は額に指をあて、なにやら呻吟なさっていらっしゃる。
「どうなのよ」
俺も笑って聞き返した。
「これは、あくまで僕の私見だから、うまく説明できるのかどうか…。うん、そうだ、たとえば『尻』という文字を筆で書き起こしたとき、一度目に書いた『尻』と二度目の『尻』とでは、やっぱりとめはねが微妙に異なって、寸分たがわぬ、とはいかないだろう?」
おいおい、なんだってそこにいきなり尻が出てきやがんだ?
「そりゃあ、プリンターじゃねえんだから、肉筆でまったく同じ字なんか書けるわけねえけどさ」
「視覚という感覚では、文字の違いがはっきりしているけれど、それを概念に落として、キミの脳裏に反映させたとき―――一度目に書いた『尻』も、二度目に書いた『尻』も、キミの中ではやっぱり同じ『尻』をイメージして、まったく違いはないはずなんだ」
「まあ、そうかもなあ。一度目だろうが二度目だろうが、尻と書いて真っ先に思い浮かべるのは、アリオのでっかい尻だろうし」
「そんなふうに、ハンチ君の概念では『同じ』ものとして扱われる。五感では違いを感じられたのに、頭の中に落としたとたん、『同じ』ものとして認識してしまうんだ。これをちょっと念頭に置いといてくれたまえ」
「うわ、なんだか面倒くさそうな話になりそうだな」
俺が渋い顔でいると、慶将は変な笑いをした。
「だから僕は最初に注意しただろう? まあキミに分かりやすく教えるために、あえて『尻』を持ち出してみたのだけれど、ここまではうまくいっているようだね」
おいおいアリオ、どうしてくれるんだよ。この慶将にまで、俺のオシリスキーが浸透しちまってるじゃんよ。
「さて、ここでミラーニューロンという面白いものがある。詳しくは脳神経学の方で調べて欲しいが、まあ一種のモノマネ神経みたいなものだと思ってくれたらいい」
「へえ、そんなのがあるんだ」
「なんでも、脳の言語中枢あたりにあるらしいよ。相手と自分が同じ動作をしているのを見つけると、概念の中で、脳が錯覚を起こすというんだ。今の自分の身体は、ひょっとしたらその相手と直に繋がっているのではないか、とね」
慶将はPCの前に置かれたキーボードを手元に寄せると、それをピアノに見立てて、指で弾くようにしてみせた。
「ある動作を、こうしてノリの良いリズムと一緒に外部へ放出すると、相手はそのリズムと動作を受け入れて、脳の中で概念を構築し、それを身体で表現しようとする。そのリズムを聞いたから、自分は踊っていると考える。ところが皆でまったく同じ動作を繰り返しているうちに、脳が錯覚を起こすんだ。リズムと一緒に、周囲に操られているようで、止められない―――」
「つまり頭の中の概念では、自分とそれ以外の区別ができなくなって、自分で動かしているはずなのに、誰がこの手足を動かしているのか、わからなくなっちまうってことか?」
私見などと申していたが、こう上手に説かれると、まるでミカンコの語る真実のようにすら思えてくる。この男、いっそ予備校の講師でも務めてみたらいかがだろうか。
「ふむ、ある種の状況を作り上げると、脳が同じように反応するというのは、よく集団ヒステリーなどで見られるそうじゃが、その狗とやらは、それを利用しておるというわけか。なるほど、おぬしもなかなかうまく話を纏めよるのう」
俺の持ってきた鞄の中身ノ命様も、思わず感心していらっしゃる。
「恐縮だね、キミにそんなに褒められると」
やあ、今褒めたのは俺じゃあないんだが。
「さて、オカルトめいた話を持ち出さないで説明するのは、ここいらが限界かな。それで、あの狗のコントロールを切断するためにも、僕らはまったく違うジャンルの音楽を持ち出してきたというわけさ。これがまた頭の痛いところでね」
その選曲は、川の流れのようなみだれた髪から始まって、天城を越える頃には人生いろいろあったらしい。
そんな昭和のオンパレードも終いになると、あの伝説の、〇ニー・〇イツのオー・〇ン・〇ンまで持ち出してきたというのだから、日本の警察、いよいよ始まったな!
「つか、まてよ。あの堅苦しい警察様のパトカーのスピーカーから、マジで伝説の〇ン・〇ンを流したの?」
俺は驚愕した顔で慶将を見る。
「困ったことに、事実そうなんだよ。霊験あらたかな夜の静寂に、あの品性のちょっとイカレたのが大音量で―――」
「いやちょっとどころの話じゃねーだろ。ご近所様からのクレームもそうだけど、大問題になるんじゃねーか?」
「そこはほら、仮にも現場は足立区だから、多少、妙なことが起こっても、そんなに問題にはならないさ」
俺が納得しかねる様子でいると、そこのイケメン野郎は朗らかな顔で申し述べてくる。
「たとえばこの学校の近くで、民家の床下から住人夫婦の遺体が見つかったりしたら、大騒ぎになるはずだ」
「そりゃあ、なるなあ。このへん、治安だけはいいから」
「ところが、それが足立区で起こったと報道されたら、どうだい? また足立区なのかよって、キミも思うだろう?」
「まあ、なあ」
足立区にご在住の方々には申し訳ないが、東京で何か事件が起こったと地方で報道されると、よそに住む俺たちは、大抵、足立区の名を聞かされることになるのである。イメージの上からでも、やっぱりそうなのだ。
「そうした感覚のマヒが、上手にオブラートに包んでくれたようでね。幸い死人は一人もでなかったから、今朝の報道も、ちょっとした騒ぎがあったというだけで、静かなもんだったよ」
「はあ、さいですか…」
厄払いをすっかり終えたような慶将の清々しい口ぶりに、俺はため息をついて、背もたれに寄りかかった。
「それで、狗の方はどうなったんじゃ? 大人しくお縄に付いたのか?」
「あの、一風変わったみんなの歌を流したのが、最後のトドメとなったらしい。操っていた人たちを開放されてしまい、ひとり真ん中で発狂していたところで、所轄にいる、暴力団顔負けのごつい人たちが飛び掛かって確保していたよ。力は一般人とさして変わりはないようだったね」
「ほう、良かったのう」
「ハハ、ハンチ君もヘンな声をだして」
慶将は笑う。そしてキーボードをPCの前に戻すと、ペットボトルのお茶に口をつけていた。
「誰が、ヘンな声じゃ」
その不満そうな声を聞いて、やっと慶将はなにかに気づくのである。
今、俺の座るソファの横にはいつもの学生鞄が置いてあった。俺はその持ち手をつかむと、バックルのついている前面を慶将の方へ向けて、大卓の中央に恭しく据える。
「ほらよ、慶将。いろいろあって疲れているみてーだから仕方ねーけど、お前も一度くらいは、御方のご尊顔を拝んでみたいだろ?」
「え?」
慶将はなにか、ぽかんとした顔で俺を見た。
それでまあ、僭越ながらも吾輩めが口笛でファンファーレを吹きながら鞄の蓋を開けると、右腕を上に突きあげたイオっちが、光の演出と共にぽーんと飛び出してくる。
「はっはっは、今朝は傀儡めの代わりに、こいつの警護を頼まれておってのう。学校へ出かけると言うので、一緒についてきてやったというわけじゃ」
そう申して、胸をふんぞり返していた。
「わざわざのご足労、痛み入ります。その傀儡ちゃんを故障させたのも、あなた様なのでございますが」
俺はそのドヤ顔に、一応の補足を添えてやった。
さて慶将くん、とっさに挨拶ができないほど、たいへん混乱しているようである。まあ、こればっかりは仕方ないが。
「あ、あの、失礼しました。ご挨拶もせずに、とんだご無礼を」
慶将は急ぎ立ち上がったが、その際にペットボトルを下に落として、慌てて拾い上げる。そんなわけで、どうにも赤くならずにはいられないようだった。
「恐縮せんでもよい。おかげで、興味深い話も聞けたわい」
イオっちがおもしろがって言うと、慶将も釣り込まれる気持ちになって、ほっと笑みを浮かべた。
それが、初対面の慶将を楽な気分にさせていたようである。
慶将は胸に手を当てると、ちびっこ神さまにむけ、腰を軽く曲げて挨拶をする。
「申し遅れましたが、鷺ノ宮のお嬢様の下で、お手伝いをさせていただいております、蜷山 慶将と申します」
「おまえも大変じゃのう。あの女狐のところで、無理難題を押し付けられて。まあ、わたしもあまり立場は変わらんのじゃが、里見もよう、こき使ってくれよるわい」
「このようなご神徳を授かるのであれば、せめて神籬などは準備したかったのですが―――」
そこの鞄の神さまは、イケメンの若者に丁寧に傅かれて、ずいぶん浮かれているようだった。
それを黙って見ていると、なんとカバンごと、ほんとうにふよふよ宙に浮いてしまうのだから、驚きだ。
「おいおい、イオっち。翅も使わずに、どうやって浮いてんのよ?」
俺の気やすい態度を見つけて、慶将がさっそく睨めてくる。
「半田くん、不遜だぞ!」
そしてすぐさまかけ寄ってくると、俺の後頭部をつかみ上げ、そのまま額をぐりぐり卓の上へ押し付けやがるのだ。
「なにぶん粗野な者で、このとおり、数々の非礼、お詫びいたします」
「て、てんめぇ!」
両手をついて踏ん張ろうにも、慶将のいったどこからそんな剛力が湧き出てくるのか、びくともしない。
「よいよい、おまえさんたちがわたしを神と呼ぶのなら、一応この男もそうなのじゃろう。なかなかの力も秘めているようじゃし、そう無理に遜らんでもかまわんわい」
「そうなのですか?」
その力の緩んだ隙をついて、俺は上半身をエビのように跳ね上げた。
そして後頭部を掴んだままの慶将の腕を握ると、そのまま力いっぱい引き降ろすのである。
「おうぅらっ、てめえ、イオっちがそう言ってんだ、俺の前でも堂々と遜りやがれっ」
「僕は、疫病神なんぞに遜るほど愚かではないよ」
「だれが疫病神だっちゅーの!」
「今回の件も含めて、キミを中心に厄介な狗たちが集ってくるというのは、紛れもない事実だろう。これを疫病神と呼ばずして、なんと呼べばいいんだ?」
―――やべえ、ぐうの音もでやしねえ。
俺の抗議の声を、慶将は鼻で笑って一蹴したのち、イオっちの方に身体を向けて、ちょっとお辞儀の真似事をする。
「これをご縁に、ぜひこの蜷山 慶将をお見知りいただきたく―――あの窮地での霹靂一閃は、まさに闇の中の光明でもございました」
「なんじゃ、見とったのか」
「ええ、私も、蒙昧な大衆の一人として、あの御雷光を拝見させていただいておりましたので」
いったい慶将はなんの話をしているのだろう。神威あるものに媚びへつらうその態度には、俺もほとほと感心させられたが。
「米軍厚木基地での一件は、キミもよく知っているだろう?」
ぽかんとする俺に、慶将はそう教えてくる。
それで、危うく損害賠償するハメになりそうだったあの事件のことを、俺も思い出すのだった。
「えっ、あのすごいの、マジでイオっちがやったの?」
「ふふん。あんなもの、わたしにとっては朝飯前じゃぞ」
「ということは、あのとんでもねえ額の損害賠償も、ぜんぶイオっちの下へ―――」
そう言うと、カバンの神さまは、あっと小さく仰け反った。
さすがにこれ以上追及すると、またもや後頭部を掴まれかねない―――その慶将くん、もう神さまを気やすく友達扱いでいる俺に、呆れ果てているようだった。
「ハンチくん、キミねえ…」
「ああ、ああ、わかった、わかった」
俺は首をすくめてしぶしぶ頷く。まったく、面倒なほどに敬虔なヤローである。この神さまを最初に見つけて、返事もできないほどに狼狽えていたのは滑稽だったが。
ところでイオっち、と俺は言いかけて、語尾に「さま」を付けなおした。
「イオっちさまよ、それ、どうやって浮いてんのよ?」
日本人は古来より神威を敬うものとはいえ、近代人の持つ好奇心が、やっぱりそれを解き明かさずにはいられない。
「いつものように、ふつーに浮きよるぞ?」
「いつもって、中で翅、広げてんの?」
「広げんでも、浮くことくらいはできよるわい」
「どうやって?」
そんなことを話していると、慶将が菓子を盆に山ほどのせてやってくる。もう流しのある奥の方からまっすぐに、神さまの下へと馳せ参じるのである。
「たいへん恐れ多いのですが、お茶うけ程度のものしか御座いませんもので…」
いかにも申し訳なさそうに言う、その手に持つ盆には、東京にあるバナナっぽい菓子などがのせてあった。じつは東京でもバナナが採れるのですよ、とでも愛想よく言っておけば、それでまた和むのだろうに。
「おおっ、かまわん、かまわん。今日はついでに、あやつめに会うだけのつもりじゃったからのう」
この神さまは本当にお菓子が大好きらしく、カバンごと嬉しそうにくるくる舞った。
つられて慶将も、顔をほころばせる。
「あいにくミカンコさんは、手の離せない用件があるものでして…」
大卓の上では、カバンからイオっちさまがもそもそ這い出してきた。
慶将はその愛らしい全身の姿を見せられて、もう言葉もないようだった。
「ほう、食いでがあるのう」
そのまま木目の上に足をそろえて降り立つと、背に負う翅が煌びやかに、ぱっと広がって嵩を増した。それから数歩またいで、ぺたんと幼子のように菓子の前へ座りこむのである。
その一部始終をじっと見せられていた慶将の眼には、歓喜の光と、信仰の奮え。イオっちさまは菓子の一袋を抱え上げ、俺を見て「な?」と、そのちっちゃな顔に満足げな表情を浮かべていた。
「なにが、『な?』なんだよ」
「いやな、ふつうの人間はこうなんよ、おまえさんがオカシイだけで。今のわたしの翅を見ても、なんとも思わんのか?」
「思うもなにも――」
たしかに濃淡のついた綺麗な翅のようだけど、それ以上、俺に何を思えというのだろう。
「―――なんか青緑柄のパンジーっぽい感じで、素敵とかいうやつなんじゃね?」
「あんたはぜったい、女にモテんじゃろ」
「やかましい。やっぱりイオっちでいいな、おまえなんて」
俺が口をとがらせて言うと、イオっちは機嫌よく笑ってくれる。
「ハハハ、それでよい。無理をせんでも、自然にいてくれた方がわたしも嬉しいわい」
「なあ、俺もひとつ、もらっていい?」
「かまわんよ。どうせ全部は食べきれんし」
「つか、そのちっちゃな腹のどこに食ったモンがしまい込まれてんだ?」
俺は不思議に思って、イオっちの薄い腹をしげしげと見る。
「知らんのか? 甘いものは別腹なんじゃぞ」
ありきたりなことを言う、その細い腕には、もうすっかり中身を食べられた菓子袋だけが抱えられていた。




