妖精作戦 十
娘は母の寝室へ入ると、ひとつお辞儀をして書棚から厚みのある張り込み帳を手に取った。
「お母さま、すこしお借りしますわね」
ベッドに臥せる母親に声をかけ、そして年配の看護師にも黙礼をする。この部屋は背の高い窓からの陽が明るく差して、清く深閑としていた。
娘は帳面を持って、長い廊下を歩き、自室へと戻った。綿津見手記―――帳面にはそんな題目が表記されていた。
その手記をまとめた人は、周囲で見聞きした話を書き留めておくのが、娯楽の少ない時代の趣味のひとつでもあったらしい。手記に描かれた人々は、戦争によって苦しめられもしたが、その生きた姿が、今になって実用となる。
昭和二十年、横須賀沖に停泊した米戦艦の艦上で降伏文書に調印した、二十四節気でいえば白露にあたるその日以降も、人々の食料事情は惨憺たるもので、渋柿ひとつですら手に入りがたく、どんな有力者のご令嬢といえども、背嚢をしょって地方へ買い出しにでかけねばならなかった。
当時のその娘は、学校の制服の白いセーラーの上着に木綿のズボンの出で立ちで、田畑のあぜ道をひたすらに歩いていた。
折目の整った白いセーラーなど地方では目立つらしく、草取りのひとりの男が娘を見つけると、さっそく田圃から駆け上がってくる。もと海軍の少尉さんであるという。
この時期にわざわざ田舎へ来る人は、農家へ物々交換するためだと決まっていた。
そこで広島の府中から帰ってきたばかりの少尉さんは、連合軍がやってきた原爆跡地で、なんとその一部が解体を拒んだ陸軍と衝突したなどと、まことしやかに語るのである。
そんな話、もちろん公式には存在しない。
しかしながら芹沢先生に頼まれ、栞雫嬢の扱う傀儡のことを調べているうちに、そうした記述を様々な場面で見つけることになった。
「それって、なに、ホントにあった話なの?」
俺は吃驚して慶将に問う。
「もちろんないよ。降伏に反発した一部の跳返がやらかした、と仮定すれば、信憑性も増すかもしれないけれど、少なくとも、旧日本軍がやらかしたわけではない」
年を越して、まだ三が日も終わったばかりであったから、どうしても朝寝をする。
よって新年最初の部活は遅刻となる。
朝九時の約束といっても、新学期すら始まっておらず、まだまだ正月気分の抜けきらない中で、むしろこの俺が午前中に起床して学校に来ること自体、奇跡というものではあるまいか。
それで一同、部室に集ってかしこまり、先日のことをお互い顔を突き合わせて評議し合うはずが、来ているのはこの金髪イケメン小僧だけなのである。あの先生はおろか、ミカンコ嬢すら来ていないのはどうしたことか。
俺はもうすっかりやる気を失くして、ソファの上でだらしなく脚を伸ばしていると、慶将があの神さまのことを尋ねてくる。
もしきちんと話してくれるのであれば、あの日の夜、自分の被ったとんでもない災難のことも話してくれるという。
美男子くんの災難ともなれば、そりゃあ興味も湧くだろう。
仕方ないので、奥の棚から菓子の詰まったお鉢を取ってくることを条件に、俺は横須賀であった騒動のことを掻いつまんで話してやるのだった。
神さまといっても、束の間であったがそのお人柄 (?)に触れ、情味溢れる豊かな個性を知ったればこそ、畏怖すら覚えるような正体が分かったにもかかわらず、今ではその畏怖の代わりに妙な親しみを感じていた。
その神さまの話をしていると、慶将はかねてより調べていた鷺ノ宮家の手記の中に、当時から神さまに関わる事象や特徴がいくつも存在し、また所々で見られることを教えてくれるのだった。
それがまあ、冒頭にしていた俺たちの会話で、その綿津見手記とは、ミカンコの曾祖母によるお手製の張り込み帳のことなのである。
「フフ、もうはっきり言ってしまうとね。米軍の一部が小さな神さまに手を出して、そこで突発的に戦闘となったんだよ」
俺は仰天する。
「戦闘だって? イオっちと?」
「イオっちとは、その神さまのことかい? 彼女たちはバータと呼ばれる種族で、大陸の、もっとずっと西の方から太古の時代にこの土地にまでやってきたそうだよ」
「ははあ、そういや、なんか他にもいるみてぇなこと、言ってたなあ」
してみれば、あのイオっちは今何歳なのだろう。終戦当時、すでに活躍していたのだとすれば、もう軽く百歳は越えているはず。老人の日の記念行事として、総理からお祝い状と記念品を頂けるほどの長寿さんということである。
「あんな神さまが後ろ盾をしているから、先生も大胆に行動できるのだろうけど、まさか向日葵さんでさえ、まったく歯が立たないほどとはね」
その向日葵ちゃんは、鷺ノ宮家でリハビリ中ということで、まだひとりで敷地の外へは出られないでいた。
「でも、よく手記のそれだけで神さまの仕業って分かったな。なにかこう、第六感的な巫術でも使ったわけ?」
「いや、そうではなく、ご本人がそう仰っていたそうだ」
「ご本人?」
「先生が言うには、そのイオという神さまの、もうひとつ上の位の神さまがやらかしたそうだよ」
「へえ…」
あのイオっちをさらに上回る問題児の存在を示唆されてしまうと、こめかみのあたりが痛くなってくるようである。
やっぱりお菓子もたくさん必要とされるのだろうか。猫缶あたりで我慢してくれるのだったら、俺ン家でも飼えそうなんだけど。
「あの神さまは、きっとフェミニストなんだろうな、女性陣ばかりだから」
慶将は愉快そうに笑った。俺はうんざりした顔である。
そういえば、鷺ノ宮家も男子は何代か続いた入り婿ばかりで、あとはみんな女性と聞く。今では唯一、当主の天一郎氏だけである。それでふと、思い出したのであるが―――。
「おまえから聞いて、俺は初めて知ったんだけど、ミカンコのお母さん、臥せっていて病気なのか?」
「うん? 聞いていないのかい」
「なにが?」
その問題に触れるにつれ、慶将は少し、憚るように声を落とした。
「あの家の血筋なのか、どうも女性は身体の弱い人ばかりのようなんだ―――あまり口にするような話じゃないぞ」
慶将の声にはするどい棘が含まれているようだった。
それで、この話はすぐさま終わりである。
俺は慌ててなにか別の話題を探し、かえっていつもよりも快活な言葉になっていた。
「おい、俺ばっかじゃなくて、おまえの話も聞かせろよ。あの日の夜、いったい何をやってたんだ?」
俺は奥の冷蔵庫へ向かうと、常備してあったペットボトルのお茶をふたつ取り出した。そのひとつを慶将の前に置いてやり、自分はソファに深々座って、足で電気ストーブを引き寄せる。
めずらしく俺が接待らしきものに努めるので、慶将も仕方なさそうに笑って、素直に口を開いてくれた。
その日の夜、急ぎ慶将が同乗した車で運転していたのは、公安の加藤という特徴のある若い男性だった。
折しも芹沢女史が不在のさなか、狗が現れたとの一報を受け、その専門知識の不足を補うために、未成年でも今ばかりはご容赦願いたいと、慶将は鷺ノ宮家を通して正式に依頼を受けたのである。
しばらくは首都高を走り加平にて一般道へ、やがて見えてくる大師前駅に到着すると、公安の習慣でいち早く加藤さんが降り、周囲を確認した。
すると先に来ていた外国人らしき人物が歩み寄って、挨拶をしてくる。加藤さんが手を向けてオブザーバー役である慶将を紹介すると、その若さにたいへん驚いているようだった。
「あ、あの、大丈夫ですよ。彼はうちの芹沢からも信頼が厚く、すでに何件かの依頼もこなしていますから。頼りなく思われるのでしたら、それは杞憂だと思います」
「そうデスか。失礼。ワタクシどものマテリアルでは、日本人だと伺っていたものデスから」
それで慶将もすぐに了解できた。この外国人は若さに驚いていたのではなくて、欧州風の容姿の方に驚いていたのだろう。
とはいえ、加藤さんの方も相当である。その肌の白さもさることながら、頭髪の方まで真っ白なのだから。
先天的なアルピノなのだろうか。
失礼に当たるから、慶将もあえて尋ねることはしなかったが。
その外国人は米国軍人で、アンソニー・J・ディファーソンと名乗った。在日米軍に所属する少佐だそうだ。
アンソニー少佐は現場での留意事項について簡単な説明を受けると、所轄に先導され、警察の張った黄色いパッキングテープをくぐり、石畳の続く路の奥のほうへ歩いていった。
「こんな人目のあるところに、狗が?」
「はい、そ、そうです」
慶将が尋ねると、加藤さんはどもってちいさく頷く。どうも内向的な性格の人のようで、先生たちのように冴々とはいかないようである。
対して少佐の方は、常日頃からたっぷりと身体を苛め抜いているせいか、スーツの上からでも、首周りの筋肉の盛り上がりがすさまじい。自分は昼行燈などとおどけていたが、在日米軍の佐官であれば、少なくとも、司令部を構成する責任者のひとりくらいではあるはずだ。
ここは、関東にある厄除け大師のひとつとして有名なスポットである。日中は近隣の県からも多くの観光客が訪れる名所であったが、年末まではいくらか余裕があるので、まだ露店も少なく、夜は閑散としていた。
ところが、宝照殿の脇につながる路へ出てみると、少し先の東門の片隅に、スピーカーで大音量を焚き上げ騒いでいる一団を発見するのであった。
「こんなところでダンスですカ。若い人たちは元気ですネ」
少佐は苦笑した。あまり珍しくもないものだから、そのまま通り過ぎようとすると、案内していた警官が言う。
「じつはあれが、今回の事件のようでして…」
「え、ほんとですか?」
慶将も思わず声を上げていた。
覗いてみると、それは若い人たちなどではなくて、袴をはいた人や観光にやって来た外国人らしき人、中には警察官までもが混じって踊っていた。その真ん中に、サングラスをかけた若い男が、レトロなラジカセを片手に大きな口を開けて騒いでいるのである。
「In order to save this earth, which is gradually dying out! (刻一刻と滅びゆかんとする、この地球を救うために!)」などと叫んでは、身体全体を回す。
「With the blood shed by foolish people! (愚かな人間どもの流す血潮をもって!)」と言ってはまた身体を回す―――。
こうして叫びの合間に必ず身体を回す。すると周囲の人たちも、つられるように身体を回す。警帽や土産物の紙袋が散乱するのもお構いなしに踊っているのである。
そしてラジカセ男は毛深い腕をぬっと上げると、毛髪を掻き上げながらポーズを決めて、声高く叫ぶのだ。
「Shake it up, baby ! (シェキナベイベー!)」
口でエコテロっぽい何かを叫ぶ、身体を回す、毛深い腕をさらして伸ばす、そして決め台詞を言う。
これをまあサングラスの男がほどよい間隔を置いて繰り返していた。
「ECG (環境保護団体)ブームも侮れませんネ」
アンソニー少佐も呆れている。
そこへ、まわりで見物していた若い男性のひとりがこちらへ駆け寄ってくる。加藤さんの知った顔らしく、彼も公安のひとりのようだった。
「加藤さん、あまり近くへ寄らんでください。あのへんな術にかかって、踊りだしてしまいますから」
「ああ、そういうことですか」
それが、あそこで警察官も一緒になって踊っている理由らしい。
「石井くんも大変だね。それで、く、区内の警備はどう?」
「所轄は民間人が新たに立ち入ることのないよう、規制線を敷いて周囲をがっちり固めていますけど、なんせほら、普段は日常業務につく警察官たちばかりでしょ。現場へうかつに近寄らせるわけにもいかないんで、俺たちもあまりいい顔されていないんですよ」
「近づいたら踊りだしてしまうだなんて、彼らに、い、いちいち説明するわけにもいかないからね。ところで、こちらは―――」
加藤さんは隣に立つ在日米軍の偉丈夫を紹介した。
「ええ、存じてますよ。アンソニー少佐ですね。お噂はかねがね」
公安内でもそうしたプロファイルは周知されているのだろう。石井さんは自分の名を名乗り、軽く手を差し出したが、少佐の手があまりにも大きいため、どこに握手をすればよいのか迷っているようだった。
けれども、なにも聞かされていない慶将には、いまひとつこの少佐がいる理由がわからない。
それで、その疑問を口にしてみる。
「あ、ああ、ごめん、うちの芹沢さん、まだ話してなかったんだね」
加藤さんは、まごついた。
「そうですよ、僕は、その助言を請われただけで」
慶将も意識して、どもる加藤さんをあまり委縮させないようにと、あえて微笑んでいた。
「じ、じつはね、こんな騒ぎが起きるのも日本だけではないみたいで、今では、謎の怪奇現象が世界各地で頻発しているんだよ。それで、その根源が疑われているこの国に、べ、米国から調査が入ったというわけなんだ」
「へえ」
慶将は、すこし少佐の方に目を転じて、なにか思惑ありげに頷いた。
「しょ、少佐も、というよりは、在日米軍も上層部へ指示を仰ぐのに、この通り、ありのままを報告しただけでは正気を疑われるに決まっているから、だ、だから少佐も、ええと、軍の伝統と経験によって培われた、本国との交渉戦術を発揮するためにも、大使館を通して直接現場へ視察に来たというわけなんだ」
本来ならば慶将も、夜遅くにこんなふざけた狗なんぞ、公安のチームだけにまかせて、さっさと撤収したいにちがいない。
しかしながら、かの女史は向日葵ちゃんの件で官邸へのレクが長引きご不在な上に、狗への経験が少ない彼らだけで何の情報もなく対処をすれば、一般人も巻き込んでの大騒動になりかねない。
それは過去の経験からも、容易に推察できることだった。
「わかりました。この程度なら、僕でも十分に役に立てそうです」
「そう? 助かるよ。こ、高校生に頼りっぱなしというのも、なんだか悪い気がするけれど」
この加藤さん、慶将のひねくれた目から見ても、ほんとうにヒトのよさそうな人物である。
「もともと、そうするようにも主から言われていたものですからね」
「あの、ご令嬢にですか?」
「ええ、そのご令嬢に…」
僕らの常識は世間の非常識―――口ではそんなことを呟きながら、すぐさまスマホでミカンコ嬢に状況を伝え、その指示を仰ぐ。慶将の表情をよく示す綺麗な蒼い相貌が、キリリと引き締まってゆくようだった。
「こ、こちらでも、なにか手伝えることはないかい?」
加藤さんは、なにか冴えない顔で伺ってきた。
それで慶将は、彼ら公安にもいくつかの頼みごとをするのである。




