邂逅するのは、突然に 六
初夏の夕日がかげって曇る。
なんでこんなうんざりした気持ちが漂うのだろうと、体育館裏まで連れ出されてきた俺は、緑葉の垂れこめる幹に目をやって、少し考えてみた。
―――やっぱり、今日はさっさと帰るべきだったのだ
俺のほんの数メートル先では、もう慶将が準備運動などを始めていた。
根っからの格闘オタクらしく、こちらへ嬉しそうな顔を向けてくる。
「ハンチ君、なにか取り決めをしておくかい?」
「取り決め?」
「つまり、ルールってやつさ」
俺は背後にいるお嬢様へ振り返った。
「おいおい、マジでやンのかよ」
ミカンコは当然とばかりに頷いていた。まるでこの俺が、そこの危険人物に圧勝することを確信しているようだった。
さてと、あれからなんでこう、わけの分らんことになったのかをご説明しよう。
あのすぐ後、俺は呼び出された理由を、お嬢様に尋ねていた。
とはいえ、こうしたハイソな家柄のご息女というものは、せっかちな俺にすぐさま返答をくれるわけもなく、「よくって?」と、なんだかわからん了解を俺にとりつけると、奥の戸棚からティーカップ一式を持ち降ろしてきて、大卓の上に静かに並べだすのである。
「えーと、なんでお茶?」
「ハンチ君。そこは、おかまいなく、と言って一応の遠慮をするのが世間のならわしというものだよ」
慶将がいらんことを申してくる。
それで仕方なく、俺も椅子の上で畏まることにした。
淡い琥珀色の茶がとろりとカップに注がれる中、それがなんという伝統的な作法なのかは知らないが、そうした女性の柔らかな物腰には、たいへん惹かれるものがある。
この無風流な俺にすらそう思わしめるのだから、さすがは上流社会の子女といったところか。
そうしてしばし、皆で和やかにお茶を喫していた。
「だからさあ、用事はなんなんだよ!」
「ハンチ君、お行儀っ」
金髪が、またもや睨んでくる。
いやそもそも、呼び出された理由をはっきり聞かされないうちは、俺もおちおちくつろげやしないのである。
それにもう、夕方の四時をまわっている。こちとら親の留守中の家事一切をまかされている身の上なのである。そんな家庭の事情を話してみせると、ミカンコもようやく意を決したらしい。
「そうですね。このままあなたをお客様扱いで済ますわけには、いかないのでしょうね」
そして一刻、しいんとする。
何だか少し、空気の変わったような気配。
「今回、ハンチさんをお呼びした理由は、他でもありません、その右手のことについてです―――」
「だろうな」
そうでもなければ、そもそも俺は来やしない。
「私も、それを見せられたときには何かの錯誤かと疑ったものですが、今なら納得できるのです。どこの馬の骨とも知れないあなたがそれを所持していたからこそ、今までずっと平穏にやってこれたのでしょう。そうした意味において、私はおおいに安堵をしておりますのよ」
この女が何を宣っているのか分からんが、俺が馬の骨であるという箇所だけは、明瞭に明確に聞き取ることができていた。
「ハンチさん、あなたは、ご自身の右手についてどう思いますか?」
綺麗な瞳がそのながい睫毛の下から、俺の表情をうかがうように覗き込んでくる。
「どこぞの馬の骨といたしましては―――」まずはそう、厭味のひとつをご献上させていただいてから、
「―――今までずっとコンプレックスを抱いてきたことだけは、確かでございまするよ」
と、申してやった。
「そうでしょう」
この女、さも当然のごとくに馬の骨を否定しやがらない。
「その程度でおさまっていたのですから、むしろ幸運とも言えますわ。今なら私も、なんなりと力になって、あげられなくもありませんから」
俺はもう面倒くさくなって、ヒヒーンと返答した。となりでは、慶将がなにかを堪えるように肩を震わせていた。
「先に答えだけを申しておきましょう。あなたのその掌紋は、普通の人と同じように、きちんとその掌の中に刻まれております。ただひとつ違うことは、あなたは見えようもないものをご覧になっている」
「見えようもないもの?」
俺は首を傾げて、右手を開いた。
「いまだに筋のひとつすら見えねぇんだけど」
そう文句を垂れると、ミカンコは唇に笑みを含ませて、こう続けた。
「あなたの掌紋を見えないようにしているものを、あなたは見ているのです。眼には映っていても、意識の内部ではフィルターのようなものが掛けられて、普通の方の力では、それを認識することができないのですわ」
「マジで?」
それで、わが生活楽にならざりといった感じの吾輩は、ぢっと手を見る。
―――ふむ?
人間が肉眼で捉えることのできる大きさは、およそ0.2ミリメートルほどだという。それが網膜の限界らしいが、折りたたまれている皮膚の溝をみつけだすには、それだけでも十分なはず。
ところがミカンコは、何かそこに精神的なテクスチャみたいなものが貼り付けられていて、それで通常の意識下では、眼の焦点を結び付けることができなくなっているというのである。
これもまたかなりオカルトチックな疑わしい話でもあるのだが、たしかにそう考えれば、この折っても曲げても皺のつかない皮膚の謎にも、うまく説明がつくのだろう。
「あの、ハンチさんにお急ぎのことがないのでしたら、本日はそのことにつきまして、もっと私から詳しくご説明をしたかったのですが――――」
そしてミカンコは桜色の唇に手をあて、ご一考。
「―――そうですね、ただ見ているだけの私が、少し生意気を申すようですが、いち早くご理解を頂くためにも、やはり実地がよろしいのではないでしょうか」
「実地? 実地って、なによ」
なにやら不穏な感じの言葉の響きに、俺はたじろいだ。
「なぜそれが、あなたの目に見えないように為されたのか。私の話だけでは、きっとその真意がうまく伝わらないのでしょうから」
とたん、慶将がうれしそうに眼を輝かせた。
「本当に良いのですか?」
「はい、間違いなく『希人』の掌紋なのですから、あなたも、ご存分に」
「希人?」
俺は、そこの美男美女から聞こえてきた妙な言葉を、ぼんやりと反芻した。
はて、希人とはいったいなんのことだろう。
読み方によっては奇人・変人の類かとも想像できるが、このお嬢様のニュアンスでは、すこし違う気もする。
「ハンチさん、少し、じっとしていてくださいな」
ミカンコは上半身を少し屈みこませると、やおら大きく胸元をあけてきた。
「お、おい、ミカンコ、いきなりなんばすっと―――」
思わず見えてしまったその胸は、彼女の資質らしく、美しいの表現を被らせるのを忘れない。思わずはっとして魅入ってしまうほどに、ほんとにきれいな素肌であった。
ところがそんな場所から、お嬢様はあのぶっとい奇妙な筆を取り出してくる。
「さあ、その手を拡げてくださいな。今から、おまじないをしてさしあげますわ」
その膨らみかけの谷間から目を引き剝がせない俺などは、ただ言われるがままに右手を差し出してしまったが、こいつの自尊心を十分に考慮して、過大に見積もったとしても、いったいどうやったらその程度の谷間から、あんなぶっとい筆が取り出せるのだろう。
つまりはこんな経緯があって、俺は外へ連れ出され、そこの慶将くんと対峙することになってしまったのである。
いやはや、いまだ自分の立場をよく理解できていない俺であったが、もしガチでこいつとやり合ったのなら、秒で沈むこと請け合いだ。
もとより、やり合うつもりなど微塵もない俺は、それでさっさと負けを装って、このくだらねー芝居を終わらせるつもりでいたのだけれど。
「今は封印を解いておりますので、もう彼にルールはご無用ですよ。むしろ危険なのは、慶将くんの方なのですから。いっそのこと逃げてしまっても、私は卑怯だなんて思いませんわ」
そこのミカンコさん、むやみとこの危険人物の闘争心を煽り立てていらっしゃる。
「ほう、それは楽しみですね」
「ハンチさんも、なるべく手加減してくださいましね」
「いや、手加減もなにもよ―――」
そして恐る恐る眼を前にやって、俺はちいさな悲鳴を飲み込むのだった。
己の武を誇ることが生き甲斐のようなこの男にとって、目の前の女主が俺の方を認めているというのは、さぞかし業腹なことであったのだろう。
「な、なあ、ちかまさ、くん。わかっているよな、な?」
俺がそう宥めてみせても、慶将は唇を歪ませ、壮絶な笑みで俺を睨みつけてくる。その青い眼の奥には、これまでにない激しい闘争心が漲っているようだった。
「ハンチ君、期待しているよ。キミなら、この僕の鬱屈した心を、きっと満足させてくれるにちがいない」
「もうっ、だからさあ」
慶将という武将めいたその名は、ほんとうに伊達ではないようだ。世が世なら、一騎当千の強者と呼ぶにふさわしいその気迫。
あれ、ひょっとして、俺の人生ってここまでなのか?
そう思ってぼんやりたたずむ俺の後ろでは、ミカンコが足元の石をひろい、そしてやや駆け足で近くの樹木の下まで退避した。
「ふたりとも、ご準備はよろしいですか。私の投げた石が下に落ちましたら、それが合図となりますよ」
そしてその合図とともに、たぶん一撃でのされることになると思う。
俺はこの、握ったままの右の手のひらを開いて、そこに現れた幽かな掌紋をながめ見る。ミカンコの言ったとおり、あの不思議な筆の先が触れた瞬間、小さく瞬いて、俺の目にもすっかり見えるようになっていた。
未だに信じられないが、しかし生まれて初めて見る自分の掌紋である。こんなものすら無いせいで、俺は人生の中で様々な不利益を被ってきたわけだけど、あらためて考えると、奇妙な可笑しさがこみ上げてくる。
こんな荒唐無稽な人生ですら、なんだか面白く思えてくるのだ。
それと一緒に、オカルトチックな世界なんぞは、もうこりごりだと思うのである。
あとはこいつに殴られてひっくり返るだけ。それで晴れて俺は放免となるらしい。
怪我の保証はもちろんミカンコにしてもらうとして、とにかく俺は、これから普通の生き方ができるようだから、それで十分だった。
「いきますよ、それっ!」
普段はあまり大きな声を出すのに慣れていないような、そんなミカンコの声がした。
それと同時に慶将も、歩をゆっくり進めだす。
あのときのように突進したりせず、静かに歩みだすのである。
「相手を打つ本当の力というものは、身体の芯から湧いてくるものでね。その力を十分にキミへ伝えるためには、全身の筋肉を締めず緩めずにいることが肝要なんだよ」
「さ、左様で」
なにやら妙な説明をしながらも、その燃え盛る眼差しだけは、ひたりと俺に据えてくる。
その眼力だけで、もう右にも左にも逃げられなかった。
「ただ腕力に頼るだけでは、この力の冴えは伝わらない」
―――いや、伝えなくても結構ですからっ
ただ打たれるだけのつもりであったが、やっぱりこう近寄ってこられると、身体も怯えて、自ずと半身になってくる。
さて、この間合のはず。
俺の脳裏に、今朝あったあの光景が蘇ってきた。もっとも、あのときの自分は守られる立場にあったのだけど。
このとき俺は、何か嫌な予感がして、上体を反らせていた。
その俺の鼻先すれすれに、何かが上へと空を切る。
よく眼を見開いてみると、天へ向かって逆光となった黒い腕が伸びあがって見えていた。
ついで、ごうっと唸る風音とともに俺の前髪がもっていかれる。
―――え?
どうやら俺は、運よく、こいつの最初の一撃を躱してしまったらしかった。
とはいえ、今の一撃をわざと受けたとしても、どうかしら。
俺は呼吸を忘れて、慶将の青い眼を真正面から受け止めていた。その凄まじいまでの気迫に、身体の芯からふるえが襲ってくるようだった。
「よく躱したね!」
慶将の、嬉し気な叫びがする。
直後、俺の腹に猛烈な衝撃が加えられた。
腹直筋はおろか、その力は内臓にまでまんべんなく行き渡って溢れかえって、俺はその狂わしい激痛に悶えつつ、胃袋の中身をすべてぶちまけた。
そのまま身体ごと宙に浮いて、冷たい地面に打ち据えられる。
「かっ・・・!」
それは、なんという絶望的な痛みであったことか。
はらわたは無残に潰され、そこから湧いてくる鈍痛を脳の体性感覚野ですべて受けとめながら、俺の手足はぱたぱたと痙攣したように、機械的に地面を掻いていた。
慶将は少し距離をおいて、そんな無様な俺に向け、遠く射るがごときの視線を向けてくる。
「ほら、さっさと立ち上がりたまえ。まさかこれで終いというわけでもないだろう?」
―――こ、こいつ、本気で俺を殺す気なのか?
口元を拭うと、その手は真っ赤に染まっていた。
俺はふっと気が遠くなって、視界が静かに暗転してゆくようだった。