妖精作戦 六
ところで、あの向日葵ちゃんが行動不能に陥ったとは、いったいどうしたことなのか。
そこのイオっちが手加減したつもりで荷電粒子の束を解き放ったとき、そのエネルギーは容赦なく傀儡の筐体を構成する物質に襲い掛かってきた。
向日葵ちゃんはエネルギーの一切を受け止めてから、押し寄せるエントロピー増大の法則に抗うことになるわけである。
それが高分子であれば即座に連鎖は分断され、あらゆる構造分子は解き放たれ、そこでは新たな化学反応も起こり、筐体は、取り返しのつかないほどに複雑に変性してしまうはずだった。
けれども、そこで崩壊する構成成分をあえて先回りして自ら破壊し、押し寄せるエネルギーを利用して瞬時に再構築を行うことができれば、結果的に向日葵ちゃんの筐体は、以前と変わらず維持されることになるのである。
もちろんそれを実行するだけの処理能力がなければ到底適う話でもないのだが、実際、向日葵ちゃんはそれを成し遂げ、体内に膨れ上がったエントロピーを見事に排出し切った、というわけだった。
「まあとんでもない傀儡じゃ。その能力に限っていえば、私らにも匹敵する力を持っておる。それを昔の人間が創り上げたなどとは、到底信じられん話じゃなあ。どう考えても、説明がつかんわい」
「なら、壊れたってわけでは、ないんだな?」
俺は縋るような目で、イオっちを見た。
「限界まで能力を出し切ったので、今は思考プロセスが麻痺してひっくり返っておるんじゃろう。そこへ運悪く、外国の怪しげな人間たちがやって来おってのう――」
この神さまは何か証拠を残してよそからの無用な詮索を避けるため、連中を止めることはしなかったが、バターレーズンサンドほどの呵責はあったらしく、そのことを飼い主へ伝えることになる。
そうした話を、首都高湾岸線から、途中、横浜横須賀道路へ移り、さらに下ってゆく中で、俺はイオっちと木村氏から聞かされていたのだった。
当時、商業区での爆発騒ぎの一報を受けた警察は、所轄が迅速に展開していたが、防衛省、とくに情報関連の職員もまたさまざまな対応を迫られていたようである。
『不審なYナンバーが現場から逃走したことに、警察庁から情報提供を求められていたみたいね』
スピーカー機能をオンにした木村氏のスマホから、芹沢女史の声音が車内に響いた。
『半田クン、今回は御免なさいね、なんだかうちの神さまがご迷惑をかけちゃったみたいで』
俺は膝の上に手を置いて、やや気後れしながら返事をした。
「あー、いえその、向日葵ちゃんもなんとか無事みたいですし」
『イオちゃんも、そこにいるのよね?』
先生は、こっそり俺の影に隠れようとしていた神さまにも呼びかけた。
「お、おるぞ。なんぞ文句でもあるのか?」
『いいえ、まったく。今回の不始末の穴埋めをきっちりしてくれるのなら、べつに文句なんかないわよ』
「大姉さまたちには、ぜったい内緒じゃからな!」
そこでは小さな拳をぎゅっとさせて、なにかもうこれだけは決して譲れない、そんなイオっちの態度であった。
『はいはい、分かってます』
そして俺がじっと見つめているのに気づくと、イオっちはバツが悪そうにそっぽを向いてしまうのである。
『これは市ヶ谷の奥の院で聞いた話だけれど、ひと月ほど前に、米軍では正体不明のJTF(Joint Task Fotce)が発足されていて、どうもこれが今回、絡んでいるようなのよ。ひどく機密性の高い部隊らしくて、在日米軍の司令官すら詳しくは知らされていないそうよ』
JTFとは、ある特定の事案などに対して、陸、海、空の一部の部隊をひとつの指揮下に置く枠組みのことで、自衛隊でも、弾道ミサイル攻撃を受けたさいのJTF (統合任務部隊)などが存在している。
『今回、米軍横須賀基地に向日葵さんを搬送していることから、そのJTFも太平洋軍司令部 (PACOM)隷下に置かれていると推察できるんだけど、おそらく主導しているのは本国の、国防長官あたりじゃないかって、こちらの情報部の人たちはそう考えているようね』
「また米国の、中央情報局が関わっているのですか?」
木村氏がたずねる。
『いえ、今回は前と違って、軍の方がむしろ積極的になっているみたい。ウクライナ戦争では、かつてないほどにドローンが投入されて、それは現代の戦争の様相を一変させるほどのものだったから、そうしたパラダイムシフトが起きているさなか、やっぱり傀儡というものは、彼らの眼にもたいそう魅力的に映ったのではないかしら』
「あのう、つまり、向日葵ちゃんを攫ったのは、やっぱ米軍ってことで間違いないんですか?」
『そうよ。怖い?』
「そりゃあ、一介の高校生にとっては途方もないことですし。けどまあ、向日葵ちゃんのためでもあるンですから」
こんな俺でも、腹を括ることくらいはできるはず。
『私も同じ思いよ。うまく言葉にできないけれど、あの傀儡っ娘には何か惹かれるものがあるのよね―――だからむしろ、巫女さんの方が恐ろしいのではないかしら。あの娘を溺愛しているだけに、放っておいたら、いったいどんな呪いを合衆国へ振りまくことになるのやら』
それに関しては、俺もまったく同意見である。
『厚木基地での傀儡受け入れに失敗し、ペンタゴン内部でも責任問題が懸念されている中で、それ以上の成果を手に入れることが義務づけられている国防省側は、その巻き返しとして、偶然にも行動不能となった向日葵さんを拾ったというのが、私たちの推測ね」
そう聞くと、なんと間の悪いことか。
俺は長いため息を吐きつつ、車窓から、夜空に流れる星々を眺めた。
今朝、翠ちゃんと一緒に向日葵ちゃんも誘っておけば、こんなことにはならなかったのかもしれない。けれども、あの傀儡ちゃんはなにか苦手意識があるらしく、翠ちゃんが近くにいると、決して俺の前には現れようとしないのである。
とにかく、はやく連れ帰ってあげたい、そう願う想いの半面で、米国まで絡んでくる事態のややこしさが、俺にそこはかとない不安を募らせていた。
『今の国防長官は、国家安全保障問題の次席担当補佐官を務めあげた人で、なかなかの切れ者よ。もし、そのJTFが太平洋軍司令部と同格に近い中身を持っているのだとしたら――』
木村氏が、その言葉を引き継いで口を開く。
「横須賀基地の方も調べてみなければなりませんね。身軽でない大きな空母などの艦船は除くとしましても」
『そうね、今から軍艦の寄港情報をあたってみるわ。公表していない分も含めてね。そちらは、イオちゃんがしっかりやってくれると思うけど、至らないところがあれば木村さん、がんばってね』
それで、しばしの間、芹沢女史との直接通話は断たれることになる。
産業革命も華やかなりし頃、ヨーロッパでは海外への通商貿易を求めて大きなうねりが湧きおこっていた。やがて、そのうねりはこの国にまで及び、浦賀港にイギリス船が来航して人々を驚かせるようになる。
幕府も外国船への対抗措置のために横須賀を海防の要として、弘化四年、東京湾の入り口に近い猿島に台場を築き、翌年には浦賀にも新台場を築くことになった。
近代横須賀が、今のような姿になったのも、その頃にフランス人技師ヴェルニーを招いて、造船所の基礎となる製鉄所を開いたからである。
今はJR横須賀駅を降りてすぐのところに、そのヴェルニーの功績をたたえて建てられたヴェルニー記念館があって、その歴史を学ぶ場としても幅広く利用されている。
「横須賀に今もって米軍基地があるのも、その製鉄所から始まった巨大な海軍工廠があったからでしょう。たいへん設備の整ったところで、海外で唯一、大型艦もまかなえる施設ドックまであるところですから、米軍さんもさぞや重宝しているにちがいありませんよ」
横須賀インターのすこし手前でウインカーを灯らせると、そんなことを話しながら、木村氏は車を左側の車線へ寄せていった。
「そういえば、半田くんのお父さんも、こちらのご出身だとか…」
それから思いついたように、こりゃ失礼と、その人は詫びる。
「いえ、かまわないですよ」
俺も苦笑をして言葉を返した。
公安であれば、俺の周辺などもすっかり調べ尽くしているにちがいなく、それと関連付けられるのも至極当然なのだろうし。
「のう、その父親から、米軍基地のことは、なんぞ聞いておらんのか?」
イオっちがシートベルトを巻く俺の腰の上に手を置いて、お可愛いお目々で見上げてくる。
「んー、まあ花火大会とか、ガキの頃の釣りの話とかは、聞いたことあるけどな」
「釣りの話?」
「おや、ご興味ありますかい?」
「現地に住んでいた者の話は貴重じゃからなあ」
「いやあ、あんまり期待されても困るんだけど」
俺は頬をかるく指先で掻いて、躊躇した。
「かまわんから、言うてみい」
イオっちがじっと睨みつけてくる。
なにかを語れというなら、語ってもみせますけれどね、ふむ――。
まあこの歳になると、夕飯のちょっとしたときに聞かされる父さんのネタ話も、いろいろ積もり積もってくるものである。
さて、そのなかでも特に印象深かったのは―――まあ四十近くで第一子をもうけた父親でもあるからして、その小学校低学年頃というと、昭和五十年代のかなり古い話にもなるのだが、近所の子供たちと連れ立って、初夏のある日、海辺へ釣りに出掛けたそうである。
まだ埋め立て工事が始まる前のことなので、国道十六号線ぞいの薬局の裏には、すぐに浅い海が拓けて見えていた。
ながい釣竿を担ぎながら、子供たちが防波堤の上を、現在のフェリー乗り場がある方へと歩いてゆく。その途中に、当時は米軍の施設があって、そのフェンスの手前にあった空き地が、現地の人たちもよく知る穴場であった。
前日に用意したイソメやゴカイを子供たちで分け合って、竿の先にぶらさげたジェット天秤を、三平にでもなったつもりで豪快に海へ投げ込んでゆく。
投げ釣りではキス、カレイ、マゴチ。浮き流しではウミタナゴ、アジなどの釣果が見込まれている釣り場であった。
ところがあいにく、その日は海が凪いで海底が見えるほどに澄んでいて、こうなれば魚たちも警戒してなかなか餌に喰いつかず、お子様たちは暇となる。
それで父さんは、釣り具入れの中にあったブラクリ (錘とハリが一体になった仕掛け)を取り出して、テトラポットの隙間を直に探ることにした。
うまくいけばアイナメが、外れでもワタリガニが獲れたりして、これを家に持って帰ると、大人たちには大変喜ばれた。
ところが隙間に仕掛けを垂らしながら少しずつ移動しているうちに、あろうことか、父さんは日米の境界ラインをうっかり越えてしまうのである。
おそらく、当時も監視カメラくらいはあったのかもしれないが、そこは普段、誰も釣りなどをしない場所なので、魚の方も無警戒らしく、仕掛けを放り込めばすぐにも魚が掛かって、父さんをすっかり夢中にさせていた。
そのうちに、なにか大きな鉄砲をかついだアジア系の警備隊職員がふたり、遠くからハァハァ息せき切ってやってくる。岸壁の上に立つと、下で暢気に釣りをしている子供を見つけ、大声で呼びつけるのだった。
父さんは学校で先生にするように「はい」とすぐさま返事をした。
それで、はっとして見上げると、むこうの方がよっぽど驚いているご様子である。
職員はあきれ顔で、上がれというジェスチャーをした。
知らない外国人が上で偉そうにしているので、いったい何事かと、しぶしぶ上がったところで、父さんもようやく理解する。
さきほどまで一緒に釣りをしていた子供たち、また近所の大人たち皆が一様に青い顔をして、フェンスの向こう側にへばりついていたのだから。
「おまえの父親、なんというか、そうとうなうつけ者じゃのう」
イオっちが渋い顔をしてくる。
そうあらためて言われると、その息子もうっすら赤くなってしまい、いやはや、弁明の余地すらございませぬ。
「これを我々公安がやったら国際問題にもなるのでしょうが、なんせ当時の子供ですからねえ」
木村氏も笑っている。
「それで、どうなったんじゃ?」
どうなったもなにも、身体検査を受けてから、銃口で赤い野球帽の頭をさんざん小突かれて、岸壁からテトラポットにいちど降り、そのままフェンスの向こう側へ戻ったそうである。
「ひと昔前のこの国なら、たとい子供といえど大和魂、火に焼くるとも名誉の死をもって倒れねばならぬ、などと訓戒めかしく言われておったのじゃろうが――」
気の抜けた顔で、イオっちは言う。
「もし私のような立場でしたら、地位協定の刑事特別法くらいには引っかかっていたでしょうね。それでうっかり抵抗したりすると、テロを疑われて、本国の連邦法で裁かれることになるのかもしれませんが、まあなんにせよ、その程度で済んで良かったですよ」
木村氏も苦笑しながら、ゆっくりハンドルを動かしていた。
車はかつての有料道路を通り抜け、市街地中心部へと入ってゆく。
中心部といっても、平坦な場所はほとんどが米軍の占有する土地なので、その余ったところに民間の建物がくねくねと建ち並んでいるのである。
高架橋を下ったところで信号待ちをしていると、イオっちが何か思いついたように口を開く。
「そうじゃ、基地の岸壁にテトラポットを積み上げた場所なんぞはあるかいのう?」
俺はここの地元民なんかではないわけですし、そんなワクワクした目を向けられても困ってしまう。
「たしか、日本の岸壁と接している境界付近には、あまりそうしたものを置かないよう、新たに措置が取られているはずですよ」
木村氏が代わりに返答すると、イオっちはまたつまらなさそうに頬をふくらませ、俺を指さした。
「こいつの父親がやらかしたから、そうした決まり事になったんか?」
いやいやまさか、滅相もございませんことですよ。
「つか、イオっち、何の話?」
「侵入経路のことじゃ。夜だとこの翅がよう光るけん、目立ってしまうのでのう」
「ああ、やっぱり不法侵入をなさるわけでございますか」
それで捕まったら、このちっちゃいのも刑事特別法になるんだっけ?
「傀儡のおる位置は、感覚でだいたい掴んでおる。もうかなり近いと思うぞ。おまえさんが近くに来れば、あの傀儡、勝手に起きるかもしれん思っておったが、まだ寝とるみたいで、やっぱり私が直接行かねばならんようじゃなあ。――さて、いつものようにこっそり忍び込んでみるか」
「ええと、大丈夫なの?」
俺は用心深い顔つきになって、ミラー越しに木村氏へ尋ねた。
「手短に申しますと、芹沢家の敬愛すべきイオさまは、よく情報収集という面倒な手続きを省くために、とてつもない思いつきをなされるのです。それがまた、芹沢さんをたいそう悩ませている所以でもありますが――」
つまり、考えなしというわけなのね。
「なんでもええから、どっか近くに停めえ。すぐにも連れ帰ってやるわい」
まあ向日葵ちゃんを米軍送りにしたのも、その向日葵ちゃんの在りかを突き止めたのも、このイオっちなわけだし、さまざまな法律を飛び越えて、すぐにも解決することができるのは、このイオっちしかいないというのは、こんな俺でも分かっちゃいるけれど、こう安易に任せてしまってもよろしいのでしょうかねえ。
「心配性じゃなあ。それよりも、さっさとソレを出せえ」
そう申してイオっちの小さなお手々が催促しているものは、俺が家から肌身離さず持参してきたあの額縁であった。
「またうっかり攻撃されんように、それがあればおまえさんの関係者だと理解してくれるじゃろ。まかり間違って、またあそこで再戦ともなると、こんどは基地ごと消し飛ばさねばならんし」
この神さまの不穏な言動には、やっぱり不安しかないのである。




