妖精作戦 五
夜になるといっそう冷え込んで、部屋もしんとしてくる。
壁に掛けた時計の短針は、午後の九時を少し回ったばかりであった。そんな時間に、もう俺は眠るつもりでベッドの上にひっくり返っていた。
すこし瞼を閉じていると、あの口の悪い娘の姿がぼうっと浮かんでくる。すぐさまスマホが鳴りだして、ふっと消え去ってしまったが。
ちっこい画面を覗くと、イケメン小僧の文字が騒いでいた。
「なんだ、慶将かよ…」
小さく舌打ちをして、そのまま放っておいてもよかったが、あやつめはきっと、こちらが応答するまで永遠と着信音を鳴らし続けるつもりだろう。
「メッセで済ませてもいいのによ―――あっ」
それで俺は思い直すのだ。
このしつこさ、たぶん緊急の用件にちがいない。
「はいこちら年金事務所です。還付金を振り込みますので、ATMに行って今から言う番号に電話しやがってください」
『ハンチ君か、もっと早く出たまえ』
なんだよ、せっかくボケたんだから、ひねって返せよ。こいつもつまらん男だな。
「んで、なんなのよ、こんな時間に」
『この僕が、自分から好きでキミに電話を掛けるような男ではないことくらい、キミも承知しているだろう?』
「……」
ごもっともすぎて、言葉もなかった。
すると一呼吸あって、
『先生からの伝言だよ。今夜、神さまがお詫びに伺うので、うまくしてくれとのことだ』
そんなことを、矢継ぎ早に言うのである。
「お詫び? お詫びって、なんだ?」
『ふむ、キミは本日、何が起こっていたのか、まだ知らされていないわけか』
「ってことは、お前は知っているのか?」
『向日葵さんがたいへんなことになっているらしいが、僕も今は別件で手が離せなくてね。それをキミに頼みたい、というか、キミが一番適任だろう』
どういうことだ、向日葵ちゃんがたいへんだって?
あの鉄腕少女が手に負えないほどの事態ともなると、エイリアンの襲来とか、あるいは、由比ガ浜に怪獣でも上陸したのだろうか。
しかしながら耳を澄ませば聞こえてくる演歌のようなこの伴奏、スマホの向こうで、あやつめはいったい何をさらしてけつかるのやら。
「おい、未成年のくせに、まさか飲み屋に行ってんじゃねーだろうな?」
『ちがうよ。ただ、今はちょっと胃の痛いことがあって―――ああ、そうそう、くれぐれも、神さまを第三者に見せないように。事態をややこしくしたくなかったらね』
「おい、いったい―――」
それで通話はプチンときれた。
俺はスマホの画面を忌々しく見つめながらも、たった今慶将から伝えられたばかりことを脳内で反芻するのである。
なんと、神さまが来るンだそうな。
これが学問とか、ロマンスとか、そうした神さまであるのなら、まだしも、気楽でいられるのだけれど。
とにかく目がぱっちり冴えてしまったので、下へなにか飲み物を取りにゆく。
途中、洗面所の扉が閉まって、奥からお湯を流す音が聞こえてきた。妹が風呂にでも入っているのだろう。俺はそのままキッチンまで行って、冷蔵庫の中身を物色する。
「わお、なにゆえにエクレア?」
思いもかけないものを見つけて、思わず小躍りしてしまった。
夕飯を食っていたときには気づかなかったが、気づけば妹が騒いでいるにちがいなく、ひょっとしたら、翠ちゃんの親父さんから頂いた手土産の中に紛れ込んでいたのかもしれない。
一応、ひっくり返して消費期限を確認してみる。
チョコとイチゴとピーナッツ、それぞれが二つずつあるなか、俺はチョコとイチゴをチョイスして、コーヒーカップ片手に急いで二階へと駆け上がった。
普段からあまり菓子などを置いていない家だったので、食い物のサプライズはとくに嬉しいもの。
こうした余暇の望めない進学生活の中でも、ほっと安らぐひとときである。
「そういや、最近インフレ激しいから、昼間の外食なんかも久しぶりだったなあ」
妹も長々と風呂に入っていることだし、今なら邪魔の入る恐れもなし。
そう思って油断していたところへ、大きな羽音とともに、なんぞでっかいモンが降ってくる。
「おおおおおっ!」
一瞬、ゴキかと思って殺虫剤を探したが、サイズからしてあり得ない大きさだった。とにかく扉にまで避難して騒いでいると、そのゴキではない何かに叱られてしまうのだ。
「これっ、夜なのに騒がしい! 近所迷惑じゃろっ」
ほう、これはこれは、よく見たら美少女フィギュアやネズミーランドの通販なんかによく見られる、翅の生えた小さなお稚児さまではないですか―――などと暢気に構えていられるはずもなく、机の上の小さな娘が勝手にエクレアを漁っているのを目にして、俺は言葉もなかった。
「たしか、エクレールとかいう菓子じゃな。日本語で、稲妻という意味らしいぞ」
そのお稚児さんはなにやらしたり顔で頷いてみせると、満足げに俺を見上げてくる。
「うむ、わたしにぴったりのお菓子じゃ。よいぞ、よいぞ。供物としても、合格点じゃ!」
まあなんとも言い現しがたく、捉えがたい状況であることよ。
そもそもこれは生き物なのか、生き物だったら、普段はどんな地域に生息しているのだろう、霊長目か鱗翅目か、やはり雌雄もあるのだろうか―――そうした推考はさておき、先ほどの慶将の話とも併せて、まずは緒言に神さまとしるして脳みそに捺印し、それをすぐさま確認するのだった。
「ひょっとして、おまえさんが神さまであらせられる?」
小さな神さまは口にエクレアの皮を咥えながら、振り返った。
「ひょれは、にゃにをもっへ神と定義するはで、返答が異なるにょう」
「口にモノを入れて喋んなや」
おもわず行儀の悪さを指摘してしまったが、意外にも素直に受け入れて、飲み下し、詫びてくる。ちっちゃいながらも神さまのはずなのに。
むしろ俺の方が戸惑ってしまう。
「ふむ。この国では、自然現象やら信仰やらで、畏怖の総称として神と崇め奉られることが多いから、わたしもやっぱり神なんじゃろうか」
なんか、自信なさげである。
「勝手に神だと持ち上げられて、人間どもからいらんおねだりをされても敵わんからのう―――ああ、そうじゃな、今はイオとでも呼んでおけ」
「いお?」
「おまえたちの発音の中で、わたしの本質にいちばん近いものがそれなんじゃ。かつては、様々な国で様々な呼ばれ方をしておったが、今はそれがしっくりしよる」
「ふうん」
イオ、ねえ。
「イオちゃん? イオさま? イオの助?」
「もう好きなように呼べ。どのみち、おまえは神なんぞに媚びへつらうような、敬虔な人間でもないんじゃろ」
そして、可愛いお顔をニヤリとさせるのである。
はて、これもまた、狗とはちがうのだろうか。
この世の妙なモノすべてが狗であると定義づけられるのなら、そうなのだろうが、しかしどうもこのイオちゃんには、それとはまったく別の観念の支えがあるように思えてならなかった。
というのも、背に負うその鮮やかで複雑な翅のカタチと紋様には、畏怖を覚えるほどの独特の美があり、その美の根源には、俺たちの想像すら及ばない力が秘められているというのは、たとえそれを証明できなかったのだとしても、なんとなく察してしまうのだ。
「ふむ、おまえも分かってきたようじゃな。あたりまえじゃが、わたしらは狗なんぞとは次元が違う。力だけで比べるのなら、希人よりもはるかに強力じゃぞ」
「へえ…」
この小さな娘の存在は、俺にとってあたらしい世界観の芽生えでもあった。
すでに扱いきれないこの力でさえ、あっさり見下してくるのである。お嬢様たちが神であると表現するのも、なるほど頷ける。
「しかしまあ旨いのう。このくちどけ、この甘さ、まさに至福のお菓子じゃわい!」
口のまわりをベッタベタにさえしていなければ、それなりの威厳もあったのだろうが。
「―――と、ところでイオ、ちゃん。なんで俺なんかのところに? まさかご相伴に預かりに来たわけでもないんだろ?」
そう尋ねると、一瞬、呆けたような顔をして俺を見る。
それから口の中にあるものを飲み下すと、ティッシュボックスから一枚を引き抜き、顔を拭いて、
「うむ。実はおまえの妹をうっかり攻撃してしまってのう。あの女狐めがあまりにもうるさいので、仕方なく詫びを入れに来てやったというわけじゃ」
そうして偉そうに平らな胸をふんぞり返している。
「妹? 攻撃?」
その妹は、翠ちゃんと元気に過ごして、今は風呂に入っているはず―――って、ちょっとまてよ。
「それ、向日葵ちゃんのことじゃねーのか? 攻撃したの? イオっちが?」
慌てて尋ねたので、文法もめちゃくちゃになってしまったが。
「わたしを狗かなんかと勘違いしたようでな。地面の下へ逃げても追いかけて攻撃してきよるので、騒ぎが大きくなり過ぎんうちに、仕方なく、一発かましてやったんじゃ」
「おいおい、それじゃあひょっとして、昼間の爆発騒ぎって…」
俺はひとつ、うーんと唸って天井を仰いでみせた。
そこには白い幾何学模様の板が見えるだけであったが、今のこの動作と姿勢にこそ、俺の申し上げたいことがぜんぶ詰めこまれていた。
「やー、里美のやつにも家で大人しゅうしろ言われとったんじゃが、あまりにも退屈なんで、つい、なあ」
豪華な翅の紋様をきらきらさせながら、そこのイオっちは言いわけめいたことを仰られる。
つまりは、その退屈を紛らわそうと、散歩がてら希人たるこの俺を一目見るつもりで、周囲を警戒していた向日葵ちゃんにばったり出くわした、というわけか。
「ああっ、わかった、もうわかった、詫び入れの意味が。今日のこと、要するにイオっちが全部悪いわけだ」
「ぜ、全部というわけでも。…イオっち?」
「あーあ、どうすんだよ、あの後始末。建物の外壁や窓ガラス、破壊した公共施設や店舗の休業補償まで入れたら、いくら弁償しても足りゃあしねえぞ?」
「だ、だからこそ、こうして謝りに来とるわけじゃろっ」
小さな神様は、気まずそうにたゆたいあそばされる。
「いや、そもそも俺なんかに謝ってもさ。つか、女狐って、ひょっとしてミカンコのこと?」
「そうじゃ。あいつになんぞ謝りとうないんじゃが、里美にも迷惑をかけてしまったしのう。延々と呵責を訴えられてはたまらんので、こうして仕方なく来てやったというわけじゃ」
つまりこの忙しい大変な時期に、先生の飼っている神様が暇を持て余して、町を破壊して向日葵ちゃんまで攻撃して、そりゃあお嬢様だってお冠になるはずだ。
「だから、うちなんかに来られてもさ」
「それで、まずはヤツへの詫びの土産として、その向日葵とかいうのを取り戻すのに、ちいっとばかりおまえの協力が必要なんじゃよ。もちろん一緒に来てくれるじゃろ?」
「ええっ、取り戻しにって、これから―――向日葵ちゃんが?」
まさかあの向日葵ちゃんに実害を与えることができるとは思ってもいなかったので、俺もただごとではない気がした。
何が起こったのか知らないが、とにかくすぐに服を着替えて、スマホもポッケに突っ込んで、両親に気づかれないよう、あまり足音を立てずに下へ向かう。
なにかイオっちから希人の関係者 (?)であると、ひと目見て納得できるものを貸してくれと頼まれたので、俺はあの、以前にミカンコから頂いた霊験あらたかな宮参りの御守りを、もう額ごと脇に抱え持つのであった。
それで洗面所の扉を開けると、タオル一枚だけを身体に巻き付けた陽葵ちゃんが、目をまん丸にしている。
「わりぃ、ちょいと向日葵ちゃんのことで急用ができたから、なんかあったときの対処はお願いな?」
俺は返事を待たずにそうとだけ告げると、もうせわしなく家を飛び出すのであった。




