妖精作戦 二
不意の美人の来訪に、ほんとなら喜ぶところ―――ややこしい現状を教えられてしまっただけに、俺はなにか重苦しい気持ちで黙りこくったまま、顔を前へ向けていた。
これがまた大風呂敷をひろげた、誇大妄想の話で済んでいたなら、どれだけ気楽でいられたことか。
いち高校生の俺なんぞには、もはやついていけない話である。
先生の方はあらかた用事が済んだのか、もうお嬢様への義理を果たしたつもりで、明るく言う。
「どうかしら、私もいろいろ話をしてきたせいか、喉が渇いてやりきれないのよ。希わくば、近くでお茶でもご馳走しようと思うのだけど?」
木村氏も、そうした雰囲気を察したのか、ただ流すだけの運転をやめて、もうすでにハンドルを切っていた。
そして次の交差点手前の横道へ入って少し進んだところで、ふいに車は停められる。木村氏はあたりをキョロキョロ見廻し、車の見えない死角まで、画像に映して丁寧に探していた。
「どうしたの?」
先生が不審そうにたずねる。
さほど広くない、横道への入り口で車を停めたまま「なにか子供を見かけたようなのですが」といって、木村氏は車を降りようとした。
その太い首を、上から垂れてきた華奢な手が、シャツの襟ごとむんずと掴み、星いっぱいの夜空へ吊り上げるのである。
木村氏の、ひゃーっという悲鳴だけが冷えた空気に吸われていった。
先生は足元に置いてあるハンドバッグの中へ手をつっこむと、そのまま車外へ跳び出してゆく。
その一連のできごとに、小生なぞはまったくついてゆけず、車内でひとり、ぽかんとするだけである。
こうした場合、やっぱり一般人は身を竦めてオロオロしていることしかできないのが、現実であった。
それでも木村氏を案じて、遅ればせながら、俺もドアを開けて顔を覗かせる。
するとその木村氏、自分を片手だけで吊り上げている恐ろしい相手へ向けて「ああ、これはこれは―――」
もう百年来の知己のように、のんきな声で挨拶をしているのだ。
俺もドアから半身をのりだして、ルーフの上を見上げると、ほそぼそと孤灯の光を浴びる人影の、そのほっそりした白い脚がまず目の中に飛び込んできた。
左の脚は影のように暗く映じてわからなかったが、右はスカートの下にも光が真白くあたってよく見えていた。
そして重心のバランスを保つように、ほそい背が夜空にすいと反り返って、まっすぐ伸ばされた右手だけで大の男を吊り下げている。いやはや、この怪力少女―――俺は安堵をしてドアに寄りかかった。
「はぁ、なんだ、向日葵ちゃんかよ。びっくりしたなあ」
陽葵ちゃんの可能性も少なからずあったが、木村氏の運転する車に飛び乗って仁王立ちになった上、片手で軽々と大人を持ち上げているだなんて、もうこの傀儡ちゃんしかいないのである。
「誘拐?」
向日葵ちゃんは、平然と向こうを見つめたまま、訊いてくる。
「あー、そうじゃなくて、いつもの先生たちだよ」
「――そう」
呟くようにぽつりと返事をすると、この娘はすぐさま木村氏を下に降ろして飛び降りてくる。そして俺を見上げてくるお澄まし顔は、さながら今の騒ぎは知らぬ風であった。
「お兄さんの警護をしていたのよね」
車の反対側から、先生が安堵をした顔で向日葵ちゃんに呼びかけた。
「私もうっかりしていたわ。巫女さんにお願いされたから、てっきり話は通っているものとばかり」
いわゆる、ミス・コミュニケーションというやつなのでしょう。
本来ならお嬢様側の失態でもあるのだが、そこの向日葵ちゃんがまったく気にしないでいるようなので、なんだか俺の方が申し訳なくなって、どうにもばつが悪かった。
「いやすみません」
「あなたが謝ることじゃないでしょ」
先生も笑う。
「なら、今夜はもう、向日葵さんにお兄さんの見送りを頼んだ方が良いのかしらね。もしよろしければ、私たちが車で家まで送るけれど?」
たった今、こんなことがあったばかりなのに、もう先生は向日葵ちゃんに打ち解けた親しみを示して、顔を寄せてくる。
そして両手を膝について、目線を合わせると、「どうかしら?」
その先生のお誘いの言葉とともに、右だか左だかのどちらかの足を後ろへ下げて、この娘がすうっと後退っていたのは、どうしたことなのか。
「必要ない」
「そ?」
先生は微笑む。
「お兄ちゃんは、私が連れて帰る」
向日葵ちゃんはきっぱり言った。
先生の方も、無理に申し出るつもりはないらしく、夜道に気をつけるようにとだけ言ってくる。
それからふと思い出したように、ハンドバッグからなにかの白い封筒を取り出すのだ。
「半田クン、これ、すぐそこのコーヒー店の優待券なの。今日はご馳走できなかったけれど、なにか機会があるときにでも、使ってちょうだいな」
「え、いいんですか?」
「気にしないで。沢山ありすぎていつも無駄にしちゃってるから、使ってくれた方が、むしろ助かるのよ」
この場合の優待券とは、株主へ贈られる企業からの無料サービス券のことである。
公安ともなれば、一般の役人のように、領収書で気軽く落とすわけにはいかないし、ましてや、諜報を担う機密のかたまりのような先生の部署ともなると、足が付くのを恐れて、そうしたものを利用せざるを得ないのだろう。
「いえ、そういうわけじゃなくてね。これは私物なの」
おや、さいですか。
「ちょっと資産運用していると、不要なものがすぐ溜まっちゃうから、投資するのも大変なのよ。巫女さんのところも、毎年すごいらしいわよ」
「へぇ……」
日々の苦しい生活の中で、そうした優待券一枚すら手に入りがたく、ほそぼそと昼飯代を浮かして、いずれはオシャレなお店を満喫してみたいと考えるお年頃の男子にとっては、たいへん羨ましいお話でもあったので。
「はい、どうぞ」
「じゃ、じゃあ、遠慮なく…」
その先生の笑みに釣られて、俺は同じく笑いながらも、平民の哀愁とやらを多分に含ませた笑い方をしなければならないのだった。
鹿児島県南西部の坊ノ岬沖、北緯30度43分、東経128度04分のアノ場所から、およそ十キロほど離れた海底を、海自がドローンのソーナーで探索していたところ、再生しつつある旧帝国海軍駆逐艦『浜風』の一部を発見することになる。
『浜風』には火廣兼が使用されている可能性があると、市ヶ谷の情報本部から寄せられた情報は、佐世保を経由して第二護衛隊群へもたらされ、そこから自衛艦が急派されていたのであった。
事案の概要を聞かされていた幹部たちは、暗黙のうちに脅威に対し指向していたが、何も知らされていない現場の自衛官たちは、また違ったらしい。
不用意にも、艦の大型スクリューで海面を何度もかき回しているうちに、海底に眠る傀儡を呼び覚ましてしまったというのである。
その際、61cm魚雷発射管に装填されていた一発の魚雷が射出され、それを海自が追跡するも、あえなくロスト。
そのまま南シナ海方面へ抜けた魚雷は、それ自体が火廣兼の含まれる傀儡だったらしく、やがて中国沿岸部で何らかの物体に命中し、TNT換算で最大20キロトン相当の水中爆発を引き起こすことになるのだった。
「え、今朝そんなことあったの? つか、20キロトンて、もう単位がヤバくね?」
朝から気品ある紳士然とした慶将くんが、バッテリー残量もあと僅かのスマホの向こうから、そんな情報をいきなりお茶漬けさらさらと語りだすものだから、ベッドの上の俺もしばらくはついてゆけず、その刺激的な数値を受けて、やっと気づくほどだった。
『広島ですら15キロトンほどだったから、なかなか盛大な爆発だったようだね』
「盛大って…、そもそも、比較対象が広島なのかよ」
いやはや、とんでもねえ数値である。
「で、どっちに命中したんだ?」
『どっち、とは?』
「いくら傀儡魚雷といったって、あの当時の魚雷は通常炸薬だから、そこまでの威力はねえはずだろ」
あたりまえだが、原潜にでも命中しないかぎり、そんな規模の爆発はありえない。
『ハンチくん、原潜はその秘匿性が最大の抑止力となっているから、たとえ米中どちらかの原潜に命中したとしても、それを公表することは決してないと思うぞ』
「公表しない、つってもさあ」
放射能はどうすんのよ。
『まあまあ、落ち着いて。そもそも本当に命中したのかも分からないし、海の中のことなんて、黙っていればそれだけのことなのさ。実際、核爆弾を搭載したままの攻撃機を沖縄近海に落として紛失しても、なんら騒ぎは起きなかったわけだしね』
「まてやっ、米軍って、そんなもンまで海に落っことしていたのかよ!」
かくて、傀儡は今や周辺国を巻き込んでの騒動となっていた。
希人という一個人にまつわるワードの中で、今はそれを誰も知り得ないのだとしても、なお我が良心、若干の痛みは残るわけで、その責任を賄いきれない俺などはもう利己的になって、傀儡の残痕が海の底深くに永遠に沈潜してくれることを祈るばかりである。
『それで、今朝の妹君のご様子はどうだい?』
慶将が訊く。
「どちらの妹君のことかな?」
俺は先ほど、実妹が出ていったばかりの部屋の扉を見つめた。
『もちろん向日葵さんのことだよ。今朝のこの連絡も、なにか不手際がなければ、と僕も案じてね』
「不手際っつうか…」
昨晩、先生と会っていたことは、もうすでに伝えてある。
誘拐犯と間違えて、向日葵ちゃんが一戦やらかしそうになったことを不手際と呼ぶのなら、そうなのだろうが。
『それは明らかにこちらの通達ミスだろうけど、今はミカンコさんもちょっと身動きが取れないんだよ』
「うん? なんかとんでもない狗でも現れたのか?」
『そうではなく、今は月詠の法師との、ちょっとした睨み合いをしているところでね。本来なら、かつての宮司として法師として呪い師として、また占い師としての真骨頂を発揮する場でもあるのだろうが、相手もそれなりの熟練者だから』
ミカンコ嬢と競り合うことのできる法師がいること自体、俺も驚きであったが、またずいぶんといっぱい肩書があるものだ。
『そうだね。彼女自身も、自分をどう呼ぶべきか迷っている節がみられるけれど』
慶将は笑う。
「いいじゃん、もう法師で」
『彼女にとっては、未来を視る占い師がいちばんしっくりするそうだ。僕もそう思うよ。なんたって、今も彼女は月詠側と、その情報処理の鍔迫り合いが行われている最中なのだし』
それでともかくも、慶将との定時連絡っぽいもンを終える。
希人の封印がガタガタになったとたん、にわかに情勢が慌ただしくなってきたようだ。
本来ならミカンコ嬢が先手を打ってくれるはずが、月詠側によって妨害を受けているらしく。こうしたものには指針やマニュアルなどはないから、今は各々が手探りで対処するしかないようなのである。




