夢を補うるもの 八
明日からは冬休みである。
校門脇の桜からは、このところの暖冬のせいか、新年へ向けてもう花のつぼみの膨らむような気配が感じられていた。
登校してくる生徒たちの顔も、日々お休み気分が濃くなってくるようで、皆うきうきと湧きたつようだった。
そんな彼らにすこしも同調できない俺などは、皆とぞろぞろ歩いているつもりでも、このちぐはぐな気持ちをどうにも拭えずに、しかたなく他のことを考えて朝の時間をつぶすのある。
けれども、校門を潜りゆく一団はやっぱりあの話を口にする。最近は街中でも自衛隊の車両をよく見かけることがあるらしい。それはなにをするでもなく駐屯地の間を行き来しているというが、そのことが、登校する生徒たちの間でも話題になっていた。
そこへ思い出したように、自衛隊の飛行機もずいぶん低く飛んでいたようですが、などと女子の囁く声もする。
それで思わず凝視していると、この俺の視線に気づいたのか、彼女たちは戸惑いつつも、こちらへ向けてちいさくお辞儀をしてくる。
俺は弁解するようにペコリと返すと、もう逃げるように立ち去った。
なんにしても、今朝はたいへん居心地が悪かった。
あのとき、母さんと妹の無事がようやく確定されると、俺はおもわず路上に座り込んで、号泣してしまった。
あれほどの絶望の中から、なんとか運命の奇跡を紡いでふたりの命を救ったのだから、本来であれば、そのまま感涙に咽んでいても良いはずだった。
けれども、ふと気づいてしまうのだ。
もし、母さんと妹が助からなければ、どうだっただろうか。
きっと、あの施設の人たちは皆無事だったのだろう。そして今も元気で、家族の訪れを心待ちにしながら余生を過ごしていたに違いないのだ。
それが、ひょっとしたら、俺のせいで。
なら、どうすりゃいい。
あのループを何度くり返そうが、皆が助かる保障なんて、どこにもない。
そもそも、そのループだって、現実に起こっていることなのかも分からない。
だったらもう、俺は自分の手で助けたいものだけを助けて、満足しているしかないじゃないか。
たとえ、俺の知らない誰かを、どこかで犠牲にしようとも。
今朝の俺が、こんなにもそのことに触れたくなく、彼女たちの話題から顔をそむけて逃げてしまうのは、それをよそから指摘されることをひどく怖れ、また、そうした呵責の念に堪えられそうもないからだった。
それでも終業式を終え、なんとか放課後にまでこぎつける。
まるで春を迎えたような伸びやかな、誰にとっても眠気をもよおす暖かさであったが、それを見かけた俺にとっては、ちょっとした一大事であった。
掃除の当番を終え、ゴミのあと始末のために、体育館脇のかつての焼却炉、現在はコンテナの置かれたその場所へやってくると、先にいた慶将に呼び止められた。
「まあ、笑わないでやってくれたまえ」
慶将は愉快そうに笑いながら、指先で俺の視線を導いてくる。
なんだろうと思って目を向けると、校舎から少し離れた花壇の脇に、ひとりの男の先輩が落ち着きなく立っていた。
大空は一点の曇りもなくすっきりと、そこへ鳶の声が細く長くたなびくのである。その彼の詣でるところ、現御神のごとき美少女が振り返った。
「さ、鷺ノ宮、さん」
先輩はやや気後れしながら、あのミカンコ嬢に声をかける。
お嬢様のいるガゼボ (西洋風あずまや)は、昼に若い女の先生もよく見られるなかなかの上席で、また開けた花壇の中央にもあったので、それらの声ならびに仕草が俺たちにまで届き、また見られるのだった。
「さて、どうなることか」
慶将はくすくす笑う。
その男の先輩は、美しい後輩の前へやってくると、勇気を振り絞って告白した。
「お、俺と付き合ってくれ、くれませんか?」
「お断りしますわ」
すぱぁんと間髪入れずに一刀両断した麗しきご令嬢は、小さく息を吐きつつ、空を見上げる余裕ぶり。
あっけなく断られた先輩は、哀愁の灯を背に燈らせながら、すごすご引き下がってゆくのだった。
ミカンコ嬢がこの高校に入学してから、はじめこそ、先輩たちも遠巻きにして眺めていたものの、一年近くもたてばワクチンへの耐性もできてくるらしく、高嶺の花へ手を伸ばしてくる不敬な輩も、ちらほら現れはじめてくる。
「まったく、分を弁えない愚か者だ。キミもそう思うだろう?」
慶将は冷笑を浮かべつつ、俺に同意を求めてきた。
「まあ、なあ…」
俺はおどおど、返事をする。
今そこで演じられていた茶番と、この俺の苦悩の境界は、とうてい相合しがたい溝であった。しかしながら、まだその境界を乗り越える力が、わずかながらも残されていたようである。
ミカンコ嬢と出会うまで、俺は呪術とか巫術とか魔法とか妖術とかいったものを信じたことはなかった。そんな突飛なものを信じるだなんて―――何かを成し遂げるためには、物理的な法則や膨大な時間、プロセスが必要になることは、子供の頭でもわかりきっていた。
けれども、みじめな猜疑心をいつまでも抱え持つには、俺はあまりにたくさんのことを経験してしまった。
希人となり、すべては変わりつつある。それが問題だったのだ。
俺は気を取り直すと、平然を装い口を開いた。
「それよか、おまえがそんな隙をよその男に与えたことに、俺はびっくりだよ」
「与えたわけではないが、何事にも抜け道があるからね。それに、今の僕の役目は、大事な彼女の護り手だから」
「そんなに大事なら―――もうおまえが公認のカレシにでもなっちまえよ。おまえなら、ミカンコもそう嫌な顔しねぇんじゃねえの?」
そうすりゃ、ハエ避けもできるわけで、一石二鳥というやつである。
「もし叶うのなら、とうにしてるよ。今の僕では、どうにも役不足なんだ」
「おまえほどのイケメンでも、ダメなのか」
「あの彼女に、容姿だけでは通用しないさ」
「つうか、最近、そんなにコクられているわけ?」
「僕がそばにいなかったら、きっと彼女は息をする間もなく言い寄られて、大変だったと思うよ」
慶将は目を細めると、腰のあたりに手をやって、ひっそりと笑った。
学年問わず皆の意識をそんなにも独占しておきながら、お嬢様はその好意を利用して暴君になるわけでもなく――――なによりあの名家のご息女だ。学校では、彼女のことを快く思わない女子たちも、ちょっと扱いかねているようだった。
「じゃあなに、今回の告白は、おまえの警戒の目をくぐり抜けてのことなのか?」
「あの先輩は、知り合いの女子に頼んで、どうにかミカンコさんまで手紙を届けたらしいよ。さすがに僕も、女子特有のネットワークにまでは手をだせないから」
「ふうん。でもミカンコ、よく会う気になったよな」
「そりゃあ、同じ断るにしても、彼女は律義だから」
その告白の勇気に免じて、拝顔の栄に浴することだけは、なんとか叶うらしい。
「ま、なんでもいいけどよ」
とにかく、放課後のこの取っつきやすい時刻に、あいつを見つけたのは行幸である。
この何日か、俺も避けるようにしていたせいか、気軽く声をかけることすら、満足にできないでいたのだから。
希人でない俺の方は、きっと彼女の前では価値のない男なのかもしれないが、それでもまだ、騒動は終わったわけではない。
もうどうしたって、あの女に関わらずにはいられないのである。
「なあ、ミカンコ。ちょっといいか?」
俺はやや気後れしながらも、すこし離れたうちから声をかけてみる。
あいつが今の俺をどんな気持ちで迎えるのか、感覚的に、まずはそれを知りたかったからだ。
「あら、ハンチさん。ご無沙汰ですね」
「あ、ああ…」
いやはや、なんともまあ、棘をふんだんに含んでいらっしゃる声音であったことか。
「そんなに長いこと、俺、話しをしてなかったっけ?」
俺がびくびく問うと、彼女は優美なその眼をすこし細めた。まるで鎖に繋がれてもいない美しい獣が、疑わしげな眼つきで俺を凝視してくるようでもある。
「ほんと、ずいぶんとご無沙汰しておりましたこと」
「そ、それほどでも、ないと思うんだけどなあ」
せいぜいが四、五日といったところだろう。
少しでも胡乱な態度を見せようものなら、容赦なく呪いでもかけてやろうかというその目つき。やっぱり、このところの不自然なよそよそしさが、ミカンコをそうした態度にさせてしまったようである。
「俺だって、たまには、ひとりで我が身を振り返りたくもなるんだよ」
自分の知っている日常からずいぶんと離れ、希人の中で善悪の判断があやふやになり、さらに、できることと、できないことを区別する概念が、すべてばらばらになってしまった今、まったくの未知の運命に放り込まれてしまった只中で、俺はいったい何をしているのか、何をすべきなのか。
右も左も分からない、ただの子供のようになってしまった気がしていたので…。
こちらが当惑していると、彼女は腰に手をあて、挑戦するような態度をみせてくる。
さて、お嬢様にはなんと申し上げようか。
すこし深呼吸すると、心なしか、冬の風がひやりと身に沁みて人心地がついてくる。いつもの馴染みある彼女だと思えば、そう気後れすることもないはずだ。
「この前のことが、まだちょっと、な…」
彼女は少しのあいだ黙り込み、また意味ありげな表情で慶将と顔を見合わせた。そして出し抜けに言う。
「妹さんは、お元気?」
「うん? いやべつに、いつも通りだけど」
ミカンコの、優し気な顔がそこにあった。
「ホホ、ひとかど気取ったつもりのあなたよりも、やはりそちらのお顔の方が、好感が持てますわね」
俺は今、どんな顔でお嬢様に接していたのだろう。
その彼女は、うってかわった和やかな態度をとると、俺の頬を指で突いてきた。
「あなたの身になにが起きていたのか、言わずともおおよそのことは、私も察しております」
「な、なんのことだ?」
思わず、声が裏返ってしまった。
「あら、言ってしまっても、よろしいの?」
未だ惚け通している俺の顔を、お嬢様はしげしげと見つめてきた。
「…おまえも、人が悪いよな」
「親族の者からも、よくそう言われますわ」
そしてひとしきり、彼女は喉の奥のほうをころころ鳴らすと、ふいに真顔になるのだった。
「それは、あなたがひとりで背負い込むものではありません。そもそも、希人とてそこまで万能ではないのですから」
俺は、はっとさせられた。
「私もいろいろ覚悟をしておりましたが、そのことは、私が考えていた展開ではありませんの。さまざまな経験から、私もすこし傲慢になっていて、希人のちょっとした努力さえあれば、どんなことでも切り抜けられると――」
そして、言葉がとだえる。
見ると、彼女は寂しく笑っていた。
落ち着いて考えれば、たしかに、俺ごときがどうこうできる話ではない。
けれどもやっぱり、亡くなった人たちへの感情があとを引く。
やや沈滞した気持ちを扱いかねて、その沈黙のあいだ、俺はずっと目をそらしていた。
「―――それを今、独りでやらされているあなたの心情までは、少し理解が及びませんでした」
ミカンコは艶のある側髪を下に垂らして、ていねいに頭を下げてくる。
俺はびっくりして、思わずその細い肩に触れてしまった。
「べ、べつに、おまえが謝る筋合いの話でもねえだろ。そもそも、なにも相談しなかった俺の方がわりぃんだし」
それから、あらためて俺の方からも頭を下げるのだ。
するとミカンコは、ほっとした顔を上げてくる。
「よかった。あなたに嫌われていたわけではないのですね」
「は? 俺が嫌う? なんでよ?」
なんだかとんちんかんなことを言ってくれるので、しばらくはその安堵したお顔を眺めているしかなかったが。
「ハンチ君も、うじうじせずに、最初から僕らへ相談すればよかったんだ」
今の今まで、ずっと黙っていた慶将も、そこではじめて喋ってくる。
「なんだ? おまえはそんなに俺のことを愛していたのか?」
慶将は目を丸くした。
「いったい、どうしたらそんな解釈ができるんだ?」
「だってよ、おまえ、いつも俺のことばっか気にしてんじゃん」
「気にせざるを得ないんだよ。ハンチ君の一挙手一投足が、発生を待ちわびている災難のようなものだからね。おかげで僕は、キミにかかりっきりになってしまうわけなんだ。ミカンコさんに頼まれているから我慢しているが、決して愛してなどいない」
もちろん分かっちゃいるさ。けれども、こうしたときの俺はしつこいのである。
「へえ、じゃあどのくらい愛してないんだ?」
おら、頭のよろしい慶将くん、具体的に答えてみやがれよ。
「そんなものに、尺度を求められてもね―――ふむ、でもそうだな。たとえるのなら、ある朝、奥さんが隣で寝ている自分の旦那を発見して、『このキモいおっさんは、いったいだれ?』と騒ぐくらいには…」
隣でミカンコが吹き出している。
その生活感あふれる喩えには、俺も唸らざるを得なかった。
つか、だれがキモいおっさんやねん。
「ハンチさん、妹さんの周辺で何が起こったのか、その辛苦にふさわしい重しを、私たちにもひとつ背負わせてくださいな」
お嬢様は、その澄んだ瞳でまっすぐ俺を見てきた。
「いや、でもよ」
「誤解なさらないで。なにもそれは、哀れめいたお節介から申しているわけではありませんの」
ミカンコは、こう言いざま、自然な形で俺の右手を取ってきた。
俺は、はっとして、うろたえる。
希人の不幸が、他の多くの人々を、さらに不幸に陥れているこのとき、俺はすまないと恥じ入るほどに、彼女の手の温かさを知って、慄いていたのだった。
「なにもキミひとりで思い悩むことはないぞ、ハンチくん。及ばずながら、この僕も力になろう。まあ担ぎ棒のひとつくらいなら、任せてくれたまえ」
そうしたふたりの言葉は、今の俺には優しすぎて、その優しさから逃れるように、ツタの絡まるあずまやの方へ顔をそむけているしかない。
空に向かって開かれた屋根の隙間からは、冬の陽がほのぼのと射しこんでいた。




