夢を補うるもの 七
いったい、何が起こったのか。
もちろん、まさか、と思って、なんども連絡を入れたさ。
でも、どうしても繋がらなくて、俺は、底なしに湧いてくる最悪の予想を打ち消しながら、妹のスマホ、母さんのスマホへとなんども連絡を入れ続けた。
けれども、まったく繋がらない。
神経が、ききっと鈍く鳴るようだった。
―――どうすりゃいい?
このときの俺はテンパって、頼りがいのあるミカンコや先生に縋ることすら、忘れていた。
そのうちに、なにかが落ちたようだと、乗客の一部が騒ぎだす。
俺は真っ青になって窓の外を覗いたが、遠望にもそんな痕跡はまだ見られなかった。
それからしばらくして、交通規制をはじめた警察官たちによってバスが停められる。
俺は運転手に、もうふたつ先に家があるからと懇願し、なんとかバスから降ろしてもらうのだった。
「ここ、ほんとうは降ろしちゃいけない場所なんだけど…」
「すんません! ありがとうございますっ」
まるで怒鳴るように礼を言って、すぐさま駆け出すも、周囲の通行人たちはこちらの気持ちなど少しも知らないで、平気で横に拡がってくれる。俺はこれをどう罵ったらよいのかと、途方に暮れてしまった。
それでも、俺は走り続けた。
家へ近づくごとに、周囲の騒がしさが増してくるようで、遠くからは様々なサイレンの音がしてくる。内心せき立てられながらも、家が見える近くの角をやっと曲がったとき―――
俺の全身を廻っていた真っ赤な血流が、一気に音を立てて引いていった。
―――おいおい、冗談だろう!
耳の中のどこかで、そんな声を放つ感じがした。
けれどもそれは、もはや記憶にすら残らなかった。何かべつの熱い憤りが、ただちに俺の脳内へと注入される。
……けがはないですか? どなたか、返事、できますかぁ!
助ける者、助けられる者が交錯する中、俺の家があった場所を中心に、その数軒先までもが、倒壊した屋根のすきまからオレンジ色の炎を吹きあげていた。
垂直にそそり立つ飛行機の尾翼らしきその下は、もはや溶鉱炉のような濃密な炎で覆われていて、妹や母さんの名を呼ぼうにも、一目で、生存は不可能であると思われた。
「なにをしている! あぶないぞっ」
近所の人のどなり声を背に、俺は、押し寄せる熱風をもろに顔面に受けながら、自分の家だったものを凝視した。
そして、ひょっとしたらと妹の名を叫び、周囲の人々の中からなんとか探し出そうと、懸命に目を血走らせる。
けれども、何も知らない誰かが、心配そうに話しかけてくるだけだった。
―――マジ、なのかよ
俺は、いつ熱い地べたに座り込んでいたのだろう、その俺の腕が、誰かによって吊り上げられる。
今の俺はまるで一個の人形のようだと、自分の存在をそう認識していた。
それから、笑うのだ。
さても運命のもつ残虐性というものが、こうして俺の下へもやってきたというわけか。
それがなぜ、俺へ向けてではなく、母さんと妹でなければならない?
<理不尽、きわまりねぇ>
いったい誰の声だったのだろう、ひどく感情を押しつぶした声がした。
目の焦点のあわない俺は、それでも、邪魔だとばかりに自分を拘束していた手を振り払った。ボキリともろい手ごたえがして、そのあとに大人の男性のする悲鳴が一筋、残された。
振り向けば、防火フードの隙間から、消防士の驚愕のまなざしが、化け物でも見るかのような目つきで、俺を射ていた。
<あンときも、そうやった>
また、その声が頭に響く。
とたん、どうすることもできない憤懣の炎が、再び胸中に燃え上がった。
右の上腕部すべてに施されていた複雑な紋様が、微かな明滅ののち、あっけなく吹き飛ばされる。
このとき、俺は目の前の現実を滅ぼそうとしてかかるような、そんな意志を、はっきり打ち出していた。
やり場のない狂気が、ただ一点へと集約されてゆく。
<そう、あンときの空襲でも>
この俺は、たった今まで、栞雫嬢の手を引いていたはずなのに、激しい熱風のさなか、無我夢中で探そうにも、煙で眼が不自由になって、足もとさえおぼつかない。
どこをどう歩いたのか、あるいはただ同じ場所をぐるぐる巡っていただけなのか、皮膚が爛れて垂れ下がり、喉がひどく渇いていた。ふいに足もとが濡れたので、俺はとっさに地面にしゃがみこみ、その水気を口に含もうとして、ただちに吐き出した。
ぬめる口元を拭い、煙に沁みた眼をむりやり開けると、この手は血と煤で赤黒く汚れていた。
呆然としていたところへ、ちゃぶ台ひとつぶんくらいの火の塊が背中へ飛んできて、ガンと意識が遠のく。思わぬ痛みに堪えていたところで、なにか柔らかいものに手が触れた。
その辺りには人が倒れたり、呻いたりしていたが、俺が触れていたのもその骸のひとつである。
黒い煙で肺が焼け付くように痛み、せき込んで息ができない。それでも立ち上がろうと膝を立てたところで、その骸の美しい顔がこちらへ向けられた。
「あっ!」と肝が冷え、思わず総毛だつのだった。
そのときに感じた絶望は、まことに筆舌尽くしがたく、へなへなと、俺は腰が抜けたように座り込んでいた。
思うに、なんと甲斐のない、人生であったことか。
俺は引きつった笑いを洩らして、その美しい顔に手を触れる。
どこか奥底から、快い暴虐の甘味が湧いてくるのを、しみじみ奥歯で噛みしめながら、このとき、自暴自棄に狂いかけていた俺は、狂喜の奮えが脊柱を伝わり昇ってゆくのを感じていた。
<もう、世界がどげんなろうと、知らんばい>
俺と、もう一人の俺は同じ意味の言葉を吐いていた。
そうして、感覚的にもそうとうな時間が経ったのち、周囲がほのかに明るくなってくる。
俺はぼそぼそと地の底から這い抜けたように、顔を上げた。
周囲がやけに賑わっていた。
通りがかる母子が、俺を不審そうに注視して、そのまま通りすがる。子供の方が俺を指さすと、母親はひとこと窘めてその手を降ろさせていた。俺はその母子の後姿をぼんやり見送りながら、しかしすぐにそのことは忘れて、目のまえの、賑やかな商舗の連なりに視線を移した。
ここは、駅前のアーケードの中、だったろうか。
ふらふら歩くと、以前、あの翠ちゃんに付きまとわれた茶屋の前では、古本屋が山のように漫画を積んで、朱の札を立てていた。
たしか俺は、なにか妹にと、そう考え、このワゴンの中を漁っていたはずである。
すると、はかったように手元に二、三冊、書籍がばさばさ落とされる。
見上げると、そこには知らない女子が笑って立っていた。
やはり、うちの学校の生徒である。
俺はその女子と、眼の前に落とされた書籍とを見比べた。本には「九州倭政権と蛮族」などのお題目があった。
彼女は興味深く、ひとわたり俺の顔を見廻している。
「まて、おまえ…」
俺は右手を伸ばし、ただちにその女子の腕を捕まえた。
彼女の表情からはなんの反応もみられないので、俺は脳裏にぱっと浮かんだ、その筋道の立たない解答だけを口にする。
「おまえ、飛鳥だな」
とたん、バチンと光が弾けた。
一瞬であるが、こいつと繋がったその一閃の中に、さきほどあった残酷な情景がまざまざと映し出されていた。それらすべての記憶を、俺の従者たる飛鳥はただちに一部の損ないもなく写しとってゆく。
「御名答」
女子に化けたまま、飛鳥はくるりと目をまわして笑っていた。
そこへ、俺の頭のはるか上空を、ゴーっとした爆音が通過してゆく。
「ボクを見つけたということは、そういうことなんだね。ほらっ、急ぐよ。今ならまだ間に合うはずだ!」
周囲が騒然とする中、飛鳥はこの手を握り返してくると、そのまま力強く引っぱって、どんどん明るい方へと駆け抜けていった。
どこを曲がってどう行ったのか、たしかな経路は覚えていないが、気がつくと、見覚えのあるロータリーのところにまで出ていた。ここには警察の輸送車両が停まっていたはずである。しかしまだその車両は現れず、今は客待ちのタクシーが一台、近くに停車しているだけだった。
飛鳥は、キレイにそった手指をしなやかに振りあげ、呼びかける。
タクシーの後部座席のとびらが、ただちに開かれた。
「ほら、急げって、この愚図っ」
扉の開いた後部座席の奥へと、その見事な悪態と併せて蹴られるように押し込まれた俺は、飛鳥と一緒に自宅へと向かった。
「本来なら、何が起こっているのかと、口で尋ねるべきなのだろうけど、大丈夫、もう分かっているから」
飛鳥は腰のシートに片手をついて左右に揺られる身体を支えながら、その女顔のままで話しかけてくる。
「なあ、ひょっとして、うちの妹、まだ大丈夫なのか、また、巻き戻っているのか?」
「ほら、落ち着いて」
一縷の望みを掴みかけたような顔でいる俺の頬に手をやって、飛鳥は小さい子でもあやすように話しかけてくる。
「安心しなよ。こんなときに、ボクだって戯れで意地悪したりしないからさ。この感覚にはなんとなく覚えがあるんだ、もうずっと昔のことだけどね。それよりも――」
飛鳥は車窓を見上げて、空に螺旋を描く航空機を見つける。
「――こんな状況になることまで視通す、あの女の恐ろしいことといったら、ホントないよね。ほらハンチ、今朝のこと、覚えてる?」
「今朝のこと?」
そう問い返しはしたが、今の俺の頭は家のことばかりが心配で、まったく働いてくれなかった。
飛鳥は苦笑する。
「そういうつもりで、あの連中はボクに伝言を届けさせたのだろうけど、ま、いっか。とにかく、ハンチの家族を救うことの方が先決だ」
タクシーが家の傍にまで来ると、俺はきちんと止まる前にもうドアを開けて、そこから転げ落ちるように飛び出した。
飛鳥は慌てて、運転手に何か詫びごとを言っていたようだけど、全ての謝罪は後回しである。
ランドセルを背負った子供たちが「わぁ、飛行機だ!」と無邪気に騒いでいた。
さっと仰ぐと、なるほど、くるくる旋回している旧海軍機のはるか上空を、自衛隊機が雲を曳きながら飛んでいた。
とにかく、まだ落ちてくれるなと、俺はすぐさま家の中に飛び込んで、わけもわからずにいる妹と母さんを力づくで引っぱり出した。
二日酔いの母さんは、履物くらい履かせてよと、額に手を当てながらひどく困惑していたようだけど、俺はけっしてその腕を離さずに、びっくりしている妹を後からやってきた飛鳥にまかせると、もうそのまま、皆で近くの堅牢な建物にまで避難するのである。
これで、ともかくも俺は、家族のふたりを失わずに済むことになった。
ただ、どうしたわけか、今回は俺の知っている現実と、やや違った展開をみせるのだ。
二機の空自機により上を押さえつけられていた雷電は、急降下の後、上昇してあわよくば反撃を試みようと、その引き起こしのさなかにエンジンが急停止し、推力を失ったまま、俺の家へと墜落することになる。
ところが見ていると、自宅からはやや逸れて、最近できたばかりの大きな介護施設の方へと尻から墜ちてゆくのだった。
その瞬間の映像は、後にネットで流され多くの人々が目にすることになった。
県の広域消防本部によると、建物内にいた62名のうち、17名の死亡が確認され、重傷者11名を含む21名がけがをし、それぞれ救急車で市内の病院へと搬送されていた。
その犠牲者の多さに、まず世間は驚かされた。
そして、なぜ今になって旧世代の戦闘機が住宅地に墜落したのか。
その後もしばらく、さまざまな憶測がワイドショーを賑わせていたが、もはや治安を侵害する勢力に警察力が追い付かないのは明らかで、今後、政府がどう判断し、事態がどう転ぶのか。
勘の良い連中は、そろそろ気づきはじめたようなのである。




