夢を補うるもの 三
話を聞き終わったあと、俺はミカンコにお願いして、庭の方へ向かった。
ふつうに生きてゆくだけではまず拝見できない邸宅の、玉砂利を敷いた庭園からの景観というものを、一度拝んでみたかったからである。
来るときには緊張してあまり見もしなかったが、あとで靴を履きながら遠慮がちに見回してみると、この式台つきの玄関には何某かの銘の鉄釉陶器らしきもの、また一枚板の手彫りの衝立や、塗骨の黒い障子などが、落ち着いた雰囲気の中に立ち並んでいる。
それら建具のたいへん立派なこと、すでにこれだけで俺は十分に圧倒され、美術的価値のあるそれら調度品の費用だけでも、自分の家がまるまる新築できるのではないかとさえ思われた。
「ですが、この邸も、じつはあとから流れてきたものでして…」
「え、そうなの?」
つまりはまあ、借りたお金が払えなくて売却された物件ということである。
明治の開化後に没落した、いわゆる斜陽族がどんどん土地を手放すので、そのうちの一つを鷺ノ宮が買い取り、移り住んで改築したというわけだ。
丸く樹形をととのえた庭木を眺めつつ、長い砂利路の中に、小島のように浮かぶ御影石の敷石を踏んで、俺たちはひょうたん形の池の脇を、のんびり通りすがる。
暖かい時期に手を打てば、きっとそこの錦鯉が等しく陸地へ押しよせてくるのだろう。してみれば、すべてが豊かな上流の生活をのぞかせた感じで、素晴らしい御庭であった。
ところがその景観なかに、ぽつんと粗末な感じのゴザが敷いてあるのが異色である。
あれが何かと尋ねたら、ワンちゃんの昼寝の場所なのだそうな。
「へえ、犬を飼ってたんだ」
「はい、徳松と申しまして、今の時間であれば、ここに大人しくしているはずなのですが」
徳松といったら、よく日本史のテストに出てくるあのお方の幼名である。上流に飼われるお犬様として、なるほどそれにふさわしい御名であろう。
そう思ってぼんやりしている俺の袖を、向日葵ちゃんがつんつん引く。
「なに、向日葵ちゃん?」
「お兄ちゃん、あそこ…」
向日葵ちゃんの指さす遥か先、軒下にある用具入れの小屋の脇で、大きな白いしっぽが揺れていた。
俺は手で庇をつくると、じっと目を細めて眺め入る。
「なんか、アレ、異様にでかくね?」
それは犬などではなくて、狗の方ではないかしらと、思わず疑いたくなるような体格であった。
「大丈夫、私、よく遊んでいる、よ」
そんな俺の弱気を悟ったのか、向日葵ちゃんが安心させるようにお口をひらく。
「サモエドですよ、ハンチさん。ロシア原産の大きな犬です。今は向日葵さんの、大好きなお友だちですね」
ミカンコも、犬の方を眺め見て、微笑んでいた。
「へーえ」
「ハンチさん、お呼びましょうか?」
「え?」
あのでかい犬を?
「いやあ、まあ…」
俺はお愛想を添えて辞退する。
どうしたわけか、アレを呼んだとたん、俺めがけて勢いよくドーンとぶつかってきて、無様に押し倒される未来しか見えてこないのだ。
「しかしまあ、犬ってえのは飼い主の言うことを、よく聞くもんだよな」
「そうですね。まるで子供のように甘えてきて、可愛いものですのよ」
犬の話を喜ぶミカンコをちらと見て、俺は栞雫さんのことを考えた。
「それだけ慣れ親しんでいるんなら―――なあ、あの栞…あの人の傀儡ってえのも、希人ならかつての命令を取り消せるんじゃねえの? いわば、彼女の上司みたいなもんだろ?」
俺は思いついたことを口にする。
「それはどうでしょう。徳松も私には忠実ですが、父の申すことには従いませんし、ましてや、あなたはあなたであって、あなたの遠い叔父様ではありませんので」
「そっか」
「それに、以前は希人であったその人も、当時とは、魂と呼べるものもずいぶん変容していると思われますから」
俺の命令だけで済むのなら、見つけた時点で即解決できるのに、まったく面倒なことである。
「ところで彼女って、今の時代、その、どうやって意識というか、存在を保っているわけ?」
「ホホ…、彼女、ではなくて、もう栞雫さんでもかまいませんわ」
なんというか、お嬢様には隠せない。
「そ、そうか。なら、栞雫さん」
「そうですね、従者としての心の欠片が、なにかを依り代として留まっているのは、確かなのでしょうが」
「なにかって?」
「それはご本人に訊いてみなければ」
「まあ、そうだろうな」
その栞雫さんも、さまざまな思いに倦み疲れて、消えてしまうということはなかったのだろうか。
「いずれ、なにかしら動きがあると思われます。栞雫さんの傀儡のいくつかを壊してしまえば―――私も先生も、もともとそういうつもりでしたので」
「物騒だな」
「使役者と傀儡は心の面でも強く繋がっておりますので、ひょっとしたらそれが、現在にまで彼女を強く縛り続けている原因なのかもしれません。そしてまた、あなたの叔父様も―――確証はございませんが」
人生とは愛する者たちとの平和な小さい世界をたのしみ、その質素な幸福のうちに死んでゆくものだというが、うちの曽祖叔父さまといったら、召された後でもなお、スケールのばかでかい恋愛奇譚を愉しんでくれているのである。
「傀儡の件は、いずれ芹沢先生からお話があるやもしれません。捜索はあの方のほうが専門家でしょう」
「ま、小僧なんかが心配していても仕方ないか」
歩き疲れて膝を屈伸させていると、近くにあるテラスへと案内される。
そこは和の内装をそのまま表に出したような、落ち着いた感じの造りで、ふた間を通したとなりの座敷では、つい先ほどまで、ご当主と代議士がご面談をなされていたらしく、女中さんたちがまだ片付けをしていた。
室内は数寄屋造りとでもいうのか、床の間わきの飾り丸太の床柱など、みな真白くてきれいだった。
「はあ、見れば見るほど、とんでもねえ家だよなあ」
ため息まじりに呟いていると、室中の女中さんたちが俺を見つけてきて、腰を曲げてお辞儀をしてくる。
すっかりはにかんで、しゃちほこばっている俺とは対照的に、前に座る向日葵ちゃんは、無邪気に手を振っていた。
そのうちに、ミカンコが盆にいろいろ載せてやってきた。その饅頭のひとつを、俺は味も分からず平らげて、お茶をぐいっと飲み干した。
あとは何もすることがないので、ぼんやり前の二人を見ていると、お嬢様の方から話しかけてくる。
「あなたの叔父さまは、なにか仰っておりませんの?」
「ん、叔父さん?」
あの人は、どうも俺の深層心理の奥深くにでもじっと籠っているらしく、ピンチのときならいざ知らず、日常の中ではその気配すら窺わせないのだ。
「なんでだろね」
「甥っ子さんのことを、きっと大事にしていらっしゃるのよ」
そしてミカンコは、前にある有田焼らしい急須を手にとって、空になった俺の茶碗へ注いだ。
俺はかるく礼を言って、その茶碗を受け取る。
「当時のことを直接聞けたなら、そりゃあ話も早いだろうけど、まあ、俺にとっては有難いことだよ。意識が混じらないように、ずいぶん気をつかってくれているみたいだしな」
「そうですね。そういう人でしょうからね」
ミカンコは、目を細めて俺を見ていた。
それで俺もついつい、その美しいご容姿を見返してしまったが、なぜにこうもお嬢様は、嬉しそうに楽しそうにしているのだろうか。
鷺ノ宮邸の人たちは、もっと堅苦しい感じだと思っていただけに、いささか毒気の抜かれた俺は、茶菓子をたっぷり頂いた後、多代さんに見送られて門を出た。
すこし歩いてから、うーんと伸びをする。
高台から眺める景色には靄もなく、ずっと遠くまで冴え渡っていて、きれいだった。
そうして気分を軽くしている俺の背へ、向日葵ちゃんと一緒に追いついてきたミカンコが声をかけてくる。豊かな白い毛並みのでっかいワンコをリードで引き連れて、スカートを翻して微笑んでいた。
「わたくしも、下まではご一緒しますわ。この子の散歩も、そのついでに。よろしくて?」
「そりゃ、かまわねーけど」
その装いからくる微笑みには、さきほどの、大人の女性が持つような態度とはうって変わって、同い年である俺への気取りと、それを意識したポーズが備わって、ほんとうに良いところのお嬢さん風だった。
「しかし着替えんの、早いな。さっきまで着物でいたのに」
そう問うと、一瞬口ごもって、ちいさくはにかむ。
「慣れると自然とできるものですよ。女の早着替えも芸のうちと…」
「それにしても、でっけえ犬だ。ええと、徳松くん?」
あまり犬に慣れていない俺でも、ふさふさの耳の後ろをこねくり回せるくらいには、おとなしい犬だった、今のところは。
「あの、この栗の入ったお羊羹、たくさんございますので、妹さんへのお土産代わりになさってください。近ごろは、お相伴役のお客様も、あまり参られないものですから」
ミカンコはそう言って、金糸に紺の風呂敷で包まれた羊羹を、紙袋ごと渡してきた。
「選挙が近いと、とかく代議士の方も、表向きはたいそう清貧になられるようでして、ホホ…」
「おお、わるいなあ」
物に弱い俺などは、その代議士の代わりにありがたく低頭、羊羹をちょうだいする。
いっそのこと、毎月それを行えば、この国の国会もさぞや清潔になるのではないかしらと、俺は軽口を言って、お嬢様を可笑しがらせていた。
坂を下ってゆく途中、ミカンコと連れ立って歩いている俺は、出会う人、出会う人によく注目されていたようだ。
彼女の方はそんなことなど少しも気にせず、ひとりでぐんぐん話をしている。
その内容は、まずこのワンコの話。それからオペラの独唱会へ行った話や、親族の結婚式の作法の話。そしてこの俺のついていけないのが分かってくると、あのときの文化祭の話へと切り替えられる。
「ご存じかしら? 慶将くんご考案のあの展示物、さる御方たちには、たいへんご好評でしたのよ」
ミカンコは、無邪気にこう言って、俺に自然な形で寄り添った。
「さる御方?」
「ええ。父とは少々疎遠な方たちだったのですが――」
「ふうん」
世の中には奇特な人もいるものだ。
「――それで、娘の私にまで仲介役として父へ取り次いで欲しいらしく、高校生の出し物に柄にもない賛辞を…、ね、可笑しいでしょう?」
お嬢様が店番をしていたときに、そんなけったいな人たちが訪れていたとはなあ。
「それでも来展者がいるだけマシなんじゃね? 俺のときには閑古鳥くらいしかいなかったぞ」
すると、「あら」という眼を向けてきた。
「清澄さんと荒川さんが、いらっしたのではなくて?」
やっべ、バレてたのか。
そのことを問われると、少し言いよどむ自分がいる。
とたん、でっかいワンコが俺にのし掛かってきた。
「これっ、徳松」
ミカンコが眉を張って、向日葵ちゃんと一緒にその徳松くんを引きはがしてくれるまで、俺は歯ブラシのような真白いお髭のお口から伸ばされたその舌で、顔面をべろんべろんと舐め回されてしまって、もうたいへん。
「す、すみません、ハンチさん」
俺の顔面はバケツの水でもぶっかけられたようにずぶ濡れとなった。
「あー、大大丈夫、大丈夫」
おそらくこの徳松くん、俺の態度に野性的な直感でなにか不審なものでも見つけたのだろう。
それで新選組の士になり代わり、徳松くんによる御用改めと相成ったわけだ。
まあそうしたものも、普段のお嬢様の、愛情味豊かにあふれすぎた躾の賜物なのだろうし、別に噛みつかれたわけでもないからね。
バスの停留所につくと、向日葵ちゃんはミカンコから離れ、こんどは俺に寄り添ってくる。
「うん、可愛いもんだ」
そのワンピースの立ち姿、ばっちり粧し込んできたらしく、馬子にも衣装の髪かたちとなって愛らしかった。
「これ、ミカンコが見立てたのか?」
「はい、本日はこの子の社会勉強のためにも、しっかりお願いします」
さきほどお嬢様に頼まれて、俺はこのあと、向日葵ちゃんを街中にまで連れ出すことになっていた。
とはいえ、これも封印の危うい俺へのお目付け役も兼ねているのであろうが。
「家についたら、連絡するよ」
「ええ。そうしたら、また慶将くんがお伺いしますわ」
「たいへんだなあ、あいつも」
俺は苦笑して、今はいない慶将を労うのである。




