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その奇譚(きたん)、叶えるのは難あり  作者: あみの よもやま
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文化祭 八

 いや参った、お面を取っぱらってすぐさま―――俺はもう二度と神域には入るまいと誓った。

 それほどまでに酷い船酔い (?)になったのである。

 まずは胃の中で巨大なピロリがサンバを踊っているような胸やけから始まる、ついで猛烈な吐き気に襲われ、平衡感覚が狂いだした。


「うあ~、眼がまわるぅ」


 それでも口を両手でふさぎ、吐瀉(としゃ)の衝動をなんとか気力で抑え込んだ。

 ほんの少しの間でも、俺はずいぶん辛抱強く耐えたものである。

 すると背後で、何かが床の上に柔らかく落ちる音がする。

 青い顔のままで振り返ると、神域から担いで持って帰ったお嬢様の人形が、俺の背をするりと滑り落ちて、そのまま脚をたたんで床に座り込んでいた。


 ――あ、やべ


 それを慌てて引き上げようとするも、学校の制服までばっちり着込んでいるお人形様の、そのあまりにもの綺麗なおみ足に、俺の目はついつい釘付けとなってしまった。

 これがご本人ではないと分かっていても、ふだん清楚でいらっしゃるはずのお嬢様が、そんなあられもない恰好でいらしたら、人形とはいえ、やっぱりいらん幻想を抱いてしまうものである。

 俺はひとりの人間として男として、またもや新たな性癖に開眼するところであった。


 それで僅かばかりの気力を健気(けなげ)に振り絞り、誰もいないうちに、乱れたスカートだけはなんとか整える。

 眩しいまでの白き良き太腿(ふともも)さまを隠し終えたところで、飽和溶液の中から結晶が析出(せきしゅつ)してくるように、向日葵ちゃんが現れた。

 その丸いお目々をぱっちりと開け、ちょうどお面を外したばかりの姿で立っていた。


「きちんと戻れたようだな」

「お兄ちゃん、ただいま」


 向日葵ちゃんが自信たっぷりに大丈夫というので、俺はこの娘を一緒に抱えずに、先に(うつつ)の世界へ戻ったけれど、もし戻れなくても、壁をぶち破って校舎の外へ出てしまえば、それだけでも済むそうである。

 その場合は部室の中ではなく、跳び出た場所に出現することになる。

 捕らわれた者にとって、あの神域は恐ろしい空間でもあったが、自然発生的に生じた本物の神域ではないから、閉じる前ならば脱出する方法はいくらでもあると、出発前にお嬢様からはそう告げられていた。


 向日葵ちゃんは、腰の抜けたように座り込んでいるミカンコ人形を抱え上げると、ソファの上へ丁寧に据えた。そして制服のちょっとした乱れを、いつものお嬢様がするように整えていた。

 俺は(ねぎら)いの言葉をかけつつ、向日葵ちゃんについてぼんやり考えた。


 この向日葵ちゃんだって、本来は傀儡のはずである。しかしお面を外しても、月詠(つくよみ)の傀儡のように神域に侵されて狂うことなく、俺と同様、きちんとあの場から放り出されている。

 これはいったい、どうしたことなのか。

 向日葵ちゃんに直接たずねることもできるが、それはひとつの人格を持っているこの傀儡ちゃんに、物との違いを説明させるようなものである。

 そんなこと、できるはずもないだろう。


 ある日、地球へやって来た火星人が、おまえと猿の違いを句読点を含めて二百字以内で簡潔に説明せよ、なんてことを言ってきたら、俺だってすぐさまタコ焼きの具にしてやるのだろうし。


「お兄ちゃん?」

「ん? ああ、いやいや」


 俺は笑顔を返して頭を振るった。

 この娘が俺に知ってほしいと願えば、いずれ自ら語ると思う。

 俺がどう考えるにしろ、お嬢様のお気に入りの娘でもあるのだし、その敏感な問題に、今はまだ触れないでいた方がよさそうだった。



 俺は奥の棚から見慣れた湯呑(ゆのみ)を持ち出してきて、勝手にお茶を淹れる。

 そうしてミカンコ人形を前に(くつろ)いでいるところへ、慌ただしい足音が聞こえてきて、バンという音とともに扉が開けられた。

「ハンチくんっ、どうしたんだ?」

 慶将の大きな声が、部室に響いた。

 どうしたもこうしたも、俺たちは神域へ入り込んで、向日葵ちゃんが傀儡と戦って、そして向日葵ちゃんがミカンコ人形を見つけて、こうして無事に戻ってきたばかりではありませんか。


 やべ、俺、なんにもしてねーじゃん。


「え? ミカンコさんそっくりの、傀儡だって?」

 慶将は、俺の対面にいるミカンコ人形をそこではじめて見つけて、ぽかんと口を開けていた。


 こいつは気のいい男だが、高慢ちきなところがあった。よく上から目線で話しかけてくるし、その話し方にもやや親しみが欠けている。クラスの中では、俺を変質者扱いすることもしばしばあった。たかだか女子の尻を眺めて喜んでいただけなのに、それだけでもう変質者扱いするなんて――。

 そしてなにより厄介なのは、鷺ノ宮家のミカンコ嬢を、心底(しんそこ)惚れ抜いているところである。


「きさま、傀儡とはいえ、なにか狼藉(ろうぜき)を働いたわけではなかろうな」


 とうとう、「きさま」とまできたか。

 慶将は、おもむろに右手を腰のあたりにやると、まるで鮫皮を巻いた(つか)でも握るような仕草をしてみせた。

「おいおい、頭を冷やしやがれ、向日葵ちゃんもいるだろうがよ」

「そうか、向日葵さんもいたな」

 俺の返答に、慶将のきつい眼差しがすこし和らいだ。その代わり、こんどは困惑した様子で顔を曇らせる。

「なぜ神域の中にこんなものが、いったい何の目的で――」

月詠(つくよみ)でしょう」

 凛とした声が、それに答えた。

 そのまま、部室の入り口に立つ清楚な風采の彼女は、堪えかねたように息を切る。


「間違いなく、私への当てつけですよ。初めから、火廣兼(ひひろかね)のことなど眼中になかったのです。きっと今頃は、私の不愉快な顔を想像して、悦に入っているに違いありませんわ」

 腰に手を当て、自分そっくりの傀儡に目を向けたまま、ミカンコがうんざりした様子で入ってきた。

 それでも俺と向日葵ちゃんに向けては、感謝の気持ちを忘れなかったが。

「ふたりとも、本当に有難うございます。助かりました」

「いやまあ、ほとんどは向日葵ちゃんの手柄だけどよ」

 俺が一度死んだことは、わざわざ言う必要もないだろう。

「ちょっと調べてみなければ分かりませんが、私が神域に入ることを考えて、罠でも仕掛けていたのかもしれません」


 ミカンコはさっそく腰をかがめると、細い手指を自分と瓜二つの傀儡の顎にかけ、その顔容を観察する。

「造りは当時の古いもののようですね。たとえ偶然このような容姿をしていたのだとしても、髪型までそっくりというのはあからさまです。たんに私への当てつけでしたら、これも貴重な筐体ですので、収集物のひとつとして正倉に安置してもよいのですが――」

 そこでミカンコは笑みを消した。なにか妙なものでも見つけたらしい。慶将もいつのまにか顔を寄せてきて、お嬢様にご進言する。

「いちど符文を起こして、その内命を可視化したらどうでしょう」

「いえ、慶将くん、それには及びませんわ。内命の初段の文脈にも、すでに私への悪意がたっぷりあることが、ここで読み取れましたから」

「そ、そうですか…」


 ミカンコは顔を上げたが、もう不満そうな表情を隠そうともしなかった。

月詠(つくよみ)が関わっているというだけで、簡単な話がどんどん複雑になってくる気がします。そのうちに、直に敵対することになるやもしれませんよ。そのときは、皆も笑って月詠の謝罪を受け入れてみましょう」

「もう勝つこと確定かよ」

 するとお嬢様が挑むような顔で俺を見る。

「あら、まさかハンチさんは私が月詠に負けることを想像しているのですか?」

 いやもう、今のミカンコを鬱屈(うっくつ)から救い出すものがあったらなんであれ、俺は喜んで受け入れようではありませんか。

 うっかり言葉を口にすると(ろく)なことにならない。今の俺が良い見本である。


 不機嫌なミカンコを前に、まるで腫物にでも触るような雰囲気が室内に満ちていた。

 こうした状況に陥ったとき、やはり救いになるのは母さんを怒らせたときの父さんである。

 女のヒステリーはその土俵にのらず、親身になってかるく注意を()なすことで、案外にも早く鎮静化できると、経験者は語っていた。

 すこし視線を移すと、ちょうどお嬢様が入って来たばかりの入り口に、おあつらえ向きの大男が滞留しているではありませんか。

 室内の雰囲気を少しも知らずにいるアリオから、背中を()っ付かれて、たいへん難儀(なんぎ)しているようだった。


 その久場を、俺は呼ぶ。

 大男がのっそり入ってくると、部室の空気もそこはかとなく入れ替わる気がした。

 久場はそこで不機嫌になっているお嬢様の横顔を一瞥すると、「ずいぶん早かったね」と無理に笑みを見せ、緊張しているのを隠そうとした。

「早かった? なにが?」

「なにって、校舎に入ったと思ったら、一分も経たずに出てきたよ」

 俺は不思議そうな顔をする。

 その背後にいるアリオへ向けて、同じことを訊いてみた。

「うん? ハンチたちが入ったら、パアッと空が昼間みたいに明るくなって、すぐだったよ?」

 このギャル嬢、とくに口裏合わせをしているわけでもないらしい。まあこんなことに嘘をついても、誰が得するわけでもないのだが。

 ということは、校舎の中のできごとは、ほんの一分足らずのことなのか、いやまて、そんなことはあり得ない。


「なあ、校舎の中を探索するのに、俺たちどれくらいの時間が掛かった?」

 ミカンコ嬢の横に控える向日葵ちゃんが口を開きかけた。その返答を待つよりも先に、主が代弁をする。

「神域は、時間の流れが少々異なるものなのです。久場くんは一分と申しましたが、その間、数時間は経っていたのではないでしょうか」

「マジですかいっ」

 俺は驚いて声を上げる。だから久場の力もずっと安定していたわけなのね。

「なら、逆ウラシマってやつか、すげえ体験をしたもンだなあ」

 そんな俺の騒ぎが、楽にこの部室の雰囲気を救っていたようで、いろいろと話の糸口ができてきた。

「ハンチさんは、神域でどんなことがあったのですか?」

 すると皆も元気になって聞きたがる。


 まあ、お願いされてしまったのなら仕方がない。神域の中の校舎の様子、狂った傀儡に遭遇して困ったこと、そして気絶した状況などを、俺は()(つま)んで説明した。

 うっかりするとまた面倒な時間遡行の話をしなければならなくなるので、そこのところだけは黙っていた。いちども死んだことのない者に、三途の川を渡りきる苦悩を唱えたところで、心底まで伝わらないことを、俺も十分に心得ていたからである。

 そういえば、あの内蔵助(くらのすけ)はどうなったのだろう。

 そのまま蒸発してしまったのか、あるいは神域にまだ筐体の一部でも残されているのか。いまさら物言わぬ破片を見つけたところで、情が動くわけでもないけれど。


「ホホ…、その火廣兼(ひひろかね)でしたら、来る途中、階段に落ちていましたので、私が拾っておきましたよ。神域はこうしたものをひどく嫌うものですから」

 ぽかんとした俺の顔の前で、ミカンコが気持ちよさそうに微笑んでいた。

「これでまたひとつ、月詠の火廣兼(ひひろかね)を私たちは得たわけですが、さすがにこれまで返せとは申しませんでしょう。ほんと、いい気味ですこと」

 口元を隠して、なにやら可笑しがっている。もう月詠相手となると、お嬢様はたいへん勝気になるのである。


「そんなことよりも、ハンチさん、隠しごとがあるのは仕方ないですが、私たちの間では野暮でご無用、きちんと最後まで申してくださいな、謹聴いたしますわ」


 ミカンコは、ふいに改まって問う。

 それは、時間遡行の話などではない、じつは俺も戻ってきてからはじめて気がついて、どう思い切る決心をつけようものかと、悩んでいたところだった。

 ミカンコと同様、従者(ズサ)である久場も、最初から気づいていたようである。アリオはどうか知らないが、この大男はそれが気がかりで、わざわざ居残ってくれたらしい。

「じつは、これなんだけどよ…」

 皆の見ている前で、俺はおずおず右の掌をひろげてみせた。

 今までかけられていた呪いのような封印は、きれいさっぱり打ち祓われ、本来の希人が持つ(あかし)の相を、そこにはっきりと提示していたのである。


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