文化祭 七
俺と向日葵ちゃんは、お面を被ったまま渡り廊下から木造の部室棟へと、ふたりで足を踏み入れた。
本来ならば、磐座という神域へ入るために、向日葵ちゃんはお面を必要としないはずなのだが、ミカンコが強く念を押すのと、俺も被っているから、という理由で今は本人も被りたいという。
お互いが逸れないよう、入る前から手を握り合っていたけれど、向日葵ちゃんがさっさと歩き出すので、勢い、重心を崩した俺は簀子と廊下の段差に足を引っかけ、転んでしまった。
そんな俺を、向日葵ちゃんは下から掬い上げるようにお姫様だっこをするのである。
そしてそのまま、この娘は平然と歩き出そうとするので、俺は小さく笑って降ろしてもらった。
さすがにだっこをされたままでの探索では、体裁が悪すぎると思うのだ。
ところで、人がこうした神域へ入るのには、お面のような機能を持つ何かが必要とされる。しかし希に、特異な体質を持つ人間がうっかり迷い込むこともあるようで、それを法師たちは神隠しと呼んでいた。
この神域の最奥は、二階の情報分析部となっており、それまでに人と見紛う何かしらを見つけなければならない。
俺が手を放したので、久場の燃料はあと十分ほどで尽きるという。たかだか部室までの探索だろうから、それだけあれば余裕だろう。
そして探索を終えたら、直ちにお面を外すよう厳命されていた。それでこの空間からぽーんと排除されることになる。そもそも神域というものは、煩悩を祓い清め、本能から解放されて、そこではじめて留まることを許されるというのだから。
いわゆる悟りの境地というやつで、生き物にとっては死に相当する場所でもあった。
なるほど、生き物でない傀儡ならば、あっさり入境を許されるわけだ。
「見た目はいつもの校舎と何ら変わりねーはずなのに、なんだか妙に、肌がぴりぴりしてやがる」
今の俺の顔面には、お嬢様を前にしたアリオに勝るとも劣らない緊張感がお面と一緒に張りついていた。そのへっぴり腰の俺の手を、向日葵ちゃんが優しく握って先導してくれる。
傍目には、まるで痴呆を患ったお爺さんを介助する施設の介護職員のようでもある。
「大丈夫、お兄ちゃんは、私が看取る」
「まだ死ぬつもりはねーよ」
俺は笑った。
いやいや驚いた。この向日葵ちゃん、冗談も言うようになったのか。
さて、入り口から奥へ入るにつれ、照明は灯っているが明かりは薄く、闇が鬱蒼と視界を覆ってくる。
先に入った傀儡たちが何をやらかしたのか、廊下に散らかった椅子や机に遮られることもしばしばで、いったん教室へ入り迂回を余儀なくされることもあった。
勝手知ったる校舎のはずが、いつもの階段まではずいぶんと遠い道のりである。
俺も神域の気配に神経質になっているのか、今は忍耐強く辛抱しなければ、ふいの物音にも怯え立って、無様にどこぞへと逃げ出しかねなかった。
「ど、どうした?」
向日葵ちゃんがいきなり足を止めただけでも、この怯えよう。
それで思わずしがみついてしまったが、向日葵ちゃんはお面の下から「よしよし」と宥めてくる。そして不思議なステップで螺旋を描くようにあたりを踏むと、目の前にとつぜん、二階へ続く階段が現れるのだ。
先へ急ぐ気持ちは強かったが、まさか階段のほうからやって来ようとは思わなんだ。
「今、なにかやったのか?」
すると向日葵ちゃんは首を傾げる。
「まっすぐ歩いているだけ」
「まっすぐ?」
それで俺も首を傾げた。この神域ではなにかこう、お互い見えるものでも違っているのだろうか。
いつもの校舎の風景と思って、ただ自分の視界だけを信じていたが、油断ならない、と俺はあらためて自分を戒めていた。
階段をそろりそろり上がって、まずは踊り場にたどりつく。そして手摺をたよりに、上の階を仰ぎ見た。
そこに見えてきた光景に、思わず息を呑む。
壁や天井にはびっしりと、まるでオブジェのように隙間なく傀儡たちがめり込んでいたのだから。
「なんだ、これは…」
そう言い終わるや、俺を庇うように向日葵ちゃんが前に立った。
すべての丸い筐体は、なにかの大きな力に拉げ裂かれて、そこからキラキラした赤い雫が垂れこぼれている。その雫を全身に浴びた一体の傀儡が、仁王立ちとなって中央にでんと構えていた。
足下は一面、輝くばかりの赤い色彩を呈し、そこに艶やかなる景観を造りだしている。
「什麼生! 無貪を積みし善根あり、無貪に何の善行あるっ」
いきなり、傀儡が吠えるように謎かけをしてきた。
そして訝しげな顔をするこの俺をことさら無視するように、威圧的な態度でその太い脚をデンっと踏み出し、歌舞伎のように首を振るってみせるのだ。
これはいったい何のマネなのか、困惑している俺の前で、向日葵ちゃんがぽつりと返答する。
「無貪は俗に無頓着なり。執着なければ永続なり」
雫を浴びて朱に映える傀儡のお面が、いちだんと朱に染まった。
「ハッハッハ、無の永続など、滑稽ナリ!」
その怒声に驚いて下がりかけた俺の顔面にも、赤いしぶきが降りかかる。やや明かりの不足するこの中で、べたべたと纏わりつくその気持ちの悪いものを、俺は腕でごしごし拭いとった。
「なんだこれ、ひょっとして血なのか?」
妙に鉄臭い粘度のある液体を見て、俺は眉をひそめる。しかし傀儡に血なんてあるのだろうか。
「無なるものには、抗わン!」
月詠の傀儡はいきなりそう叫ぶと、階段の上で、筐体を屈めながらなにやら力を溜めはじめていた。その面にひび割れのあることから、あれが火廣兼を所持した棟梁であることは、俺でも容易に推察できた。
ということは、破壊し尽くされている筐体はみな子分ということか。
「向日葵ちゃん、すぐ来るぞっ、あのウニみたいなトゲトゲの、特大版!」
俺はそう叫ぶと、向日葵ちゃんの頭に右手をのせた。
こうして俺がとっさに行動へ移すことができたのも、とある理由があったからだが、この娘もそれを承知したのか、無理に避けようとはせずに、顔のお面を少しずらし、ただ唇を軽く開いた。
そして俺の右手が、今までにないくらい熱く脈動しはじめた、そのときだ。
この視界いっぱいに、深紅に染まったトゲトゲの筐体が迫ってくるまで、おそらく瞬きひとつすらも要さなかったのだろう。
まさに今、二人そろって串刺しにされるところで、光が爆発した。
向日葵ちゃんの口から発せられた火扇筒を正面からまともに受けた針まみれの筐体は、高く跳ね上げられ、宙に舞った。
真白い光芒の迸る中、その強烈な眩しさに俺は眼を逃しつつも、命中した火扇筒の光が、油紙の上を流れこぼれる雫のように、筐体の上を奇麗に滑り抜けてゆくのを、ほんの一瞬、眼の端にした。
棟梁クラスともなれば、その筐体にはなにかしらの知らない細工が施されているらしいのだ。
「なら、今から、本気だす」
それを見せられた向日葵ちゃんは奮起し、いったん、火扇筒の灯は落とされた。
次いで、俺の右手が激しく痙攣しはじめる。
「ちょ、ちょい待ち――」
などと声を上げる暇すらなく、俺の意識は虚無の彼方へ魂ごと吸い込まれ、ただちに遠のいていった。
おそらく、新婚の旦那さんのよく頑張った今朝の体調などがこんな感じと思われる。
まるですべての生命力をいきなり掻き攫われたように、精も根も尽き果てて目の前が真っ暗になってしまった吾輩は、このひどく衰弱した微睡の境で、世界の砕くる如き百雷の響きを、辛うじて耳にすることができたのだった。
そのとんでもねー光景を直に目にできなかったのは、ホント惜しまれる。
45口径三連装砲すらも軽く凌駕する戦艦向日葵ちゃんの主砲が、咆号を轟かせるや、ウンッと空間が波打ち、大小の石が弾かれるように躍りだした。
小さな白光が、はるか天空で十字に煌く。
その光点へ向かって、ひと抱えほどもある銀の光箭が、ぐんっと勢いよく伸びていった。
それは天地を揺るがす轟音とともに、傀儡を吞み込み、校舎を貫き、神域の外の、はるか現実の世界に至るまで―――今宵は天高く、聖なる光柱を関東平野へ顕現させることになったのである。
はて、それからどれくらい経ったのか、ふっと目覚めた俺の真上から、ハラハラした様子の向日葵ちゃんが覗き込んでいた。
このまま俺が目覚めることなく、呼吸を止めてしまうのではないかと不安に思って、この意識のない間、ずっと見守ってくれていたらしい。
声をかけると、「お兄ちゃん」と小さく声がして、向日葵ちゃんのお面がこつんと俺のお面にあたってくる。
傀儡の娘は、俺が気絶したのはぜんぶ自分のせいだと、ひたすら自分を責めていた。
「いや、そうじゃねぇよ」
俺はできるだけ元気そうに振舞って、向日葵ちゃんのさらさらした髪を撫でまくる。感謝すれこそ、いったい誰がこの娘を責められよう。
希人の力をよそからこんなにも引っ張り出されるのは初めてだったので、きっと俺の身体も吃驚していたのである。
けれども心配には及ばない。
なんたって、もし本当に時間遡行ができるのだったら、ブラックホールをまるまるひとつ生成するくらいのエネルギーを、このちっぽけな身体の中に蓄えているのだろうから。
それに、実は先ほど、俺はその巻き戻しを行っていた。
内蔵助と呼称する傀儡の、最初の針千本攻撃を受けたときに、俺はほんとにひでぇ死にざまを晒してしまったのだ。
それでとっさに巻き戻して、向日葵ちゃんに警戒させ、主砲を撃たせたというわけである。
俺は、向日葵ちゃんに感謝の言葉をはじめに言う。それから、二度目に近い言葉を言った。
返事がないから、まだ感謝が足りないのかと思ってぐるぐるお面を見上げると、向日葵ちゃんは戸惑っている。人からまっすぐ感謝をされたときに、いったいどう返事をすればよいのか、誕生してふた月ほどしか経っていない傀儡の娘には、まだまだ難しいようだった。
戸惑うお面の娘を、また笑って呼びかける。その娘の向こうには、馴染みのある天井が見えていた。
ちょっと考えたら、ここは部室なのではないかしら、いまだ現の世界ではないようだけど。
つまり今のこの部室も、悟りの境地に至った者のみが許される、死者の聖域というわけか。
この神域は、ほんとに奇妙な空間だった。
あの内蔵助の筐体を受け入れはしたが、心だけは決して許さなかったようだ。情動を発揮し得るだけの心を持った唯一の傀儡は、それで神域の力に中てられ、狂ってしまった。
わけの分からん最初の謎かけを、あとで慶将に尋ねたらそういうことらしい。
傀儡であるが故に、神域から排除されることもなく、しかし唯一の自我を持つのが棟梁たる内蔵助であった。
その内蔵助にとって、この上なく大切な自我を捨てるということは、死と同義であったにちがいない。
そうした選択を神域に迫られ、無理に抗って、抗い尽くしたあげく、心を持たないすべての相手を敵とみなし、突如、攻撃しはじめた。
その結果が、階段の踊り場で見せられた、あの光景というわけである。
おかげでお面を被った俺たちも、同じ扱いを受けることになったのだ。
そして今は、部室でソファに寝かされ、向日葵ちゃんに優しく介抱されている。
部室といえば、神域の最奥のはず。最奥であれば、もう帰って良いのではないかしら。
でもなんだろう、なンか忘れている気がするが。
「行方不明者」
向日葵ちゃんがぽつりと言った。
ああ、そうそう、もともとそういうつもりで、俺たちは苦労してここまでやって来たのだし。
「つか、あれからどんだけ経っているンだ? 久場のやつも、そろそろまずいだろ」
俺は額にかかる前髪を掻き上げたところで、無言で指さす向日葵ちゃんの姿に気がついた。
「なに?」
そう尋ねて、ソファから身を起こし、ひと息ついてから、その細い指の先へと目を向ける。
黒檀の机の向こう、大きな窓枠の正面には、よく見知った人物が立っていた。
鷺ノ宮家ご令嬢の、ミカンコさんである。
「あれ? ミカンコもいるのかよ―――ってことは、もう俺たち、戻ってきたのか?」
そう思って声をかけてみたが、返事はなく、その綺麗な顔はなかば光に浮かび、闇に沈んだままだった。
向日葵ちゃんが俺の肩に手をおいて、揺すってくる。
「あれが、行方不明者。お姉さまではなく、傀儡」
俺は目を丸くして、お嬢様そっくりの傀儡を見た。
まさか神域の最奥で、こんなものを見つけることになろうとは。




