邂逅するのは、突然に 四
それで俺もご苦労なことに、あのお馬鹿な女を救うため、慶将と一緒にバスを降りることにしたのだが、もしこの男の一言がなかったら、やっぱり俺はそのまま無視を決め込んでいたのだろうか。
そう思って、少し考えてみる。
とにかく、まずはあの女のあほぅな振る舞いだ。
限界まで短くしたスカートの生脚を、俺みたいな男に見せつけるなど、まるで腹をすかせたヒグマに生肉を投げつけるようなもので、はた目にも、かなり危なっかしい行為にちがいない。
そのくせ、男がその気になるとぱっと突き放して、自分だけはつつましい常識の世界へ逃げ込もうとするのだから、始末に置けないのだ。
そうした女子の悪戯も、常識の通用する相手であればよいのだが、今ではこの通り、めんどうな連中を後ろに引き連れて、たいへん困ったことになっている。
自業自得といえばそれまでなのだが、俺がこのまま知らんぷりをしても、はたしてどうかしら。
この春、俺が合格の知らせを受けて有頂天になっていた頃というのは、妹が酷いいじめを受けて苦悩していた頃でもあり、かつ妹はそのことを恥じて、ひたかくしに隠して、その感情を押し殺して、かわいそうなほどに俺の前では笑顔を振る舞っていた時期でもあった。
そんな現実を後で知って、俺はどれだけ自分のマヌケぶりを悔やんだことか。
慶将の一言がなくとも、きっと俺はバスを降りていたと思う。
そうした後悔の念が残っているうちは、もうどうしたって、俺は動くより仕方がないのである。
ゆえに俺のこうした行動は、あいつの言うようなかっちょいい正義感などでは決してなく、ただ単に、あの苦い感覚をまた味わいたくないだけ、ただそれだけだったのだ。
バスを降りて少し歩いた先、公園のトイレのわきに着くと、役者はみんなそろっていた。
鞄を抱えて立ち竦む女子に向かって、他校の連中の一人が、男をからかうことがどんなに危険なのかという警告めいた言葉を吐きながら、その震える肩に手を置いた。
それを見て、俺たちも静かに歩きだす。
相手は四人もいた。この俺が役に立つか立たないかはさておき、こちらにはもう一人いるのだから、万が一のことがあっても、救急車くらいは呼んでくれるのだろう。それに、かならずしも暴力沙汰になるとはかぎらないし。
そう思って、俺はいくぶん恐れの気持ちを軽くした。
「おい、おまえたち何してんだよ」
まずはそう、お約束の言葉を投げかける。すると、意外にも連中は狼狽えてくれるのである。
えっ、この俺ってそんなに強そうにみえるの?
ちょっとだけ喜んで勘違いしてしまったが、よく見ると一同の目はこの俺を通り越して、後ろの慶将の方へ向けられていた。
―――うっわ、外人だよ
―――どうするよ、おまえ、オレ英語はニガテなんだよっ
連中からは当惑したような声が聞かれる。「どっち見てんだよ」と、俺がさびしく不平を垂れても、こちらを見ようとさえしてくれないのである。
しかしその女子だけは、俺の制服を認めるや、ぱっと目を輝かせて、男たちの間を駆け抜けてくるのだ。
そしてすれ違いざまに「あざーっス!」と、そうした感謝の言葉だけは聞こえたけれど、そのまま俺の背にいじらしく隠れるでもなく、公園の樹木をさっさと抜けて、人の多い通りの方へと一目散に逃げてゆくのだった。
後に残された俺たちは呆然と、その女子の走り去った方角を眺めているだけ。
その中でいち早く我に返った俺だけは、「じゃ、そゆことで」と片手をあげながら退散しようとしたけれど、連中は、やっぱり見逃してなどくれやしない。
この人気のない公園の、青い芽の映えた花壇のすみっこに、ようやくあのいたずら子猫ちゃんを追い詰めたところで、ぜんぶがパーなのである。それを思うと、連中が憤慨するのも無理はなかった。
「てぇんめえ、何してくれちゃってんだよ!」
そんな恫喝めいたお言葉に、俺はゆっくり瞼をとじると、この度の理不尽な気持ちを胸の中へしまいつつ、あのでかい尻の女子の幻像に文句をたれるのだった。
ついで、頭を振るって、その幻も振り捨てた。
目を開けると、連中の中でもっとも体格の良さげな男がのしのしやってくる。ちょっとすさんだ感じの、そのズボンのダブダブしているのが、なぜだかやたらと目に付いた。
こいつの拳でまともに殴られたら、ちょっとだけでは済みそうにないな。
そう恐れる俺の肩に、慶将が触れてくる。
「意外だね、キミにここまでの度胸が、本当にあっただなんて」
振り返ると、感心したような青い眼が俺を見ていた。
「てっきり後ろでおどおどしているだけだと思っていたけどね。ミカンコさんの言った通り、少し評価を変えないといけないな」
そして目を丸くする俺を後ろに押しやって、素行の悪そうな連中の前に、ひとりで立ちふさがるのである。
――――ミカンコだって?
混乱する俺をよそに、慶将はひとつふたつ、挑発する言葉を投げつけていた。
最初こそ、流暢な日本語を話しだすこの男に驚いていたものの、連中もそのことを理解してくると、またさらに喚きだす。
ヤツらの暴言を苦笑いとともに受け止めていた慶将の目つきが、にわかに険しくなった。
「きみたち、僕の前に現れたことを後悔させてあげよう。ちょっと痛いけれど、歯を食いしばって我慢してくれよ」
この優男、マジで力に訴え出るつもりなのか。
「お、おい、ばかっ」
その背を止めようとする俺の手が、宙を掻いた。
俺にとって、この男の好戦的な態度はじつに想定外だ。
もし俺一人ならば、上手におだてて宥めすかして、お互い何事もなく別れることに注力したのであろうが、こうなってしまっては、もう仕方がない。
「あー、くそ。ちかまさ、しらねぇぞ、もうっ」
俺もあきらめて、びくびくと拳を作るのである。
周囲に立ちならぶ樹木の葉が、たださらさらと落ちてくる日常の中で、素行の悪そうな連中の怒気だけが、しだいに脹れあがってくる。
この男、ほんとうに勝つ算段でもあるのだろうか。俺は不思議に思って、その広い背中を眺めていた。
鬼気せまる雰囲気の中、まるで俺一人だけがぽつんと取り残されているような、そんな奇妙な感覚―――。
いったい、何がこの喧嘩の合図となったのかは分からない。
まずは先頭に立っていた男が、奇声を放って慶将に殴りかかった。
と同時に、慶将の豊かなブロンドの髪が弧を描いて男の懐に飛び込んでゆく。
あっと思った瞬間、ゴキッ、と鈍い音がして、もう男はくぐもったうめき声を上げていた。
そして、そのままの姿勢で崩れ落ちると、頭を地につけ転げまわるのである。
「え?」
慶将の一連の動きを男の背後でしか見ていなかった連中の目には、たった今、何が起こったのかさっぱり分からなかっただろう。それは正面で見ていた俺も同様である。
電光石火。
そんな言葉を、俺は頭の中で思い起こしていた。
「おっと、勢い余って手首を外してしまったようだね。でも大丈夫、折れたわけじゃあないから」
痛みを堪えて蹲る男を振り返って、慶将は飄々と言った。
後で聞かされたのだが、それは小手返しとかいう技だったらしい。
慶将は余裕のある表情で、周囲をきっと睨めつけた。
思わず息を呑んだ男たちの顔には、先ほどまでなかった怯えの色が混じっていたが、まだまだ、数の優位性を意識していたようである。
その空白となっていた間が動いたのは、視野の端からひとりが不意打ちを仕掛けたときだった。
「そやっ!」
なにか古木の枝のようなものを、男は慶将の顔面に向けて鋭く突き出してくる。
その枝を慶将の腕が巻き取るや、パキンとなかばから砕け飛んだ。
続けて押し倒そうと飛び掛かってくる男へ、慶将は上体をひねりざまに膝を繰り出した。
それは男のアゴに見事に命中し、悶絶する。
「おお、すげえ!」
俺は感嘆の声を上げた。
しかしそのとき、背後から忍び寄っていたもうひとりの男が、慶将の眼に掬った砂を投げつけてくるのである。
さすがに防ぎきれず、目を閉じたところで、卑怯にもその金髪を鷲掴みにした。
死に物狂いの雄叫びで、男は慶将を手前に引き込もうとする。
男の膂力に抗しきれず、上体の平衡を崩しかけたそのとき、「ほゃあ!」という間の抜けた掛け声を発して、この吾輩が、滑り込みざまに男の両足をうち払うのだった。
これがまあ、たいへん上手くいってしまった。
上手くいきすぎて、後ろに控えていた男のちょうど足元で止まってしまうほどである。
俺が地べたからぽかんと見上げていると、そいつは嬉しそうに見下ろしてくる。今にもとろけそうな、そんな嗜虐的なお顔に向けて、俺がひとつ「こんちゃらごわす」と愛想笑いをしてみせると、そいつも「せからしっ」と、にこやかに方言を返してくれた。
泥にまみれたスニーカーの足裏で、この俺をどう調理しようかと、たった今そう思案しているようだった。
将来はイケメンになるかもしれないこの顔面を踏んづけられてはたまらんので、俺はただちにヤツのふくらはぎの下あたりを両脚で挟み込むと、くるりと腰を返してみせた。
これもまた、たいへん上手くいってくれる。
男は足の位置を組み変えてなんとか姿勢を保とうと、しばらくは奮闘するも、この俺の足癖の悪さに打ち負けて、ついには腰のあたりから崩れ落ちた。
ところが、最後の悪あがきらしく、俺の方へ故意に倒れ込んでくるのである。
上空から迫ってくる黒い背中を見上げつつ、俺はめっちゃ慌てていたが、もう時すでにお寿司。
「ぐえっ」と、俺は潰されたカエルのような愚声を上げた。
そうこうするうちに、首のあたりを二の腕でがっちり固定されてしまって、呼吸すら満足にできやしない。
顔を真っ赤にさせてもがく俺を見て、慶将が吹き出していた。
「はははっ、なにをやってるんだいハンチ君。ま、連中の意表を突いてくれたことに感謝はしているけど、ねっ!」
そうして、慶将は俺の首を絞めあげている男を蹴り飛ばした。
その男は落葉の路をころころ転がっていって、地べたでもがく他の仲間たちと合流する。
「ほらほら、まだやるのかい? キミのお仲間たちは、もうすっかり意気消沈だよ」
男は驚いた様子で仲間たちの惨状を目にしていた。
その口からは、悲鳴にも似た声が飛び出してくる。
「おやおや、情けないな」
男の慌てように、慶将の闘志も急速に萎えてゆくようだった。
この金髪野郎、覚えていろよっ――――それが、遠くへ逃げてゆく彼らの捨て台詞であった。