予兆、醸して 三
その後しばらく、あのときのこと、あの娘のことなどと、惜しまれる日々を思い出しては、乙女のように追憶にふけることになる。
慶将先生によれば、このたびの心のケガは全治一週間ていどとのご診断。なるべく気持ちを落ち着けて、それでも症状が改善しない場合には、問診にも応じてくれるという。
よけいなお世話であるが、事実、俺が打ちのめされていたことには間違いないのである。
浮かれてギャル嬢と遊んでいたら、この体たらく。禍福は糾える縄の如しとは、昔の人もよく云ったもの。ひょっとしたら人生初の彼女ができていたかもしれないのに、この度のことは、ホント、慚愧に堪えなかった。
そんな元気のない俺を見つけて、時折、陽葵ちゃんが部屋にやってくる。
下からポテチやら煎餅やらを持ってきてくれるけれど、あいにく、俺は食欲を失っていた。ベッドの横に座ってさかんに話しかけてくるのにも、悪いけれど、もう煩いという思いばかりで、ぐったりと二つに折れたように背中を向けると、寝たふりを決め込んだりしていた。
それでも、数日経つと少しは冗談を言うようになって、元気も出てくる。
妹も、だんだんと俺がいつもの調子に戻り始めて、嬉しいようだった。
天高く、涼しげな風も吹くようになってきたころ、俺はしばらくぶりに部室を訪れた。
それは珍しく芹沢先生の来訪を受けるというのと、遅れに遅れていた、我が部の文化祭の出し物について、そうした提案を聞くためでもあった。
顧問を除けば、部室のソファは先着順が慣わしなので、ビリで到着した俺は、壁ぎわの折りたたみ椅子を自分のために引っぱり出すことになる。一同揃った中に見渡すと、そこには向日葵ちゃんの姿もあった。
「あれ? いいの、来ちゃって?」
「かまいませんよ。むしろ今は連れてきた方が、なにかと都合がよいものですから」
ミカンコ嬢との話の途中、向日葵ちゃんはひとり立ち上がって、俺の隣にやってくる。そしてそのまま、この膝の上に座ってくるのだ。
「ホホホ、まったく向日葵さんも甘えん坊ですね」
お嬢様は長閑に笑っていた。
先般の、日比谷公園での傀儡騒ぎは、解決困難なものとして国でも不要不急と見做されたらしく、その手持ちぶさたの折に、先生も先生らしいことをしておきたいと、本日はそうした考えでやってきたという。
「あなたたちも学業の方が大変なのに、あんなことまでして、ほんと、頭が下がる思いよ」
慶将の持ってきた文化祭の資料に目を通しながら、芹沢先生はそんなことを言った。
たいして化粧もしていないのに、ほんと、血色の良い美人さんである。
慶将が情報分析部の出し物を提案しているあいだ、その目は優しく、あるとき鋭く、物腰はたいへん穏やかであったが、そこにはいささかの軽々しさもみられないところが、やっぱり大人の女性らしかった。
「その、慶将くんのやり方でも良いと思うけれど、ビッグデータの活用は、必ずしも最適化だけを求めているわけではないのよ。私たちも、膨大なデータからパターンを見つけ出すことには、よく利用しているけれどね」
「そうなんですか?」
「ほら、株の運用なんかでも、実際はそうでしょ?」
慶将は感心したようにひとつ唸る。
「ふうむ、ちょっと僕も拙速すぎましたか。ところで、このような、社会やビジネスに影響のあるパターンを見つけ出すのも、国ではやっぱりAIが行っているわけですか?」
なにやら慶将くんは、たいへん面倒くさいものを文化祭に展示したいらしく、はたして、そんな勉強会みたいなもので集客が見込めるのでしょうかね。
それは先生も、同じことを思っていたらしく、
「あなたたちがしたいのなら、むしろこちらの方が面白いのではないかしら。この行動観察というものは、ごく小さな狭い部分だけをじっと観察するだけのものだから――」
そう言うと、先生は親指と人差し指でちいさな輪を作り、そこから覗くそぶりをしてみせる。
「――こうして、組織の集団のほんの一部分だけを捉えておくの。ふだん海の底深くに体積のほとんどを沈めて、その先端をわずかに覗かせているような大きな物件ほど、却って人目立ちをして、考察しやすくなるものなのよ」
あのう、それは情報分析というよりも、まるで諜報活動のようではないですか。
分析することすべてをそうかなと考えると、まあ間違っちゃいないのだろうけど。
そのあと、一時間ほどで打ち合わせは終わり、慶将も実行委員会に提出するものを決めたらしく、することのない俺は、流しでミカンコの後片付けを手伝っていた。
すると先生のスマホがぶるぶると鳴る。
なにか知り合いに呼ばれたとかで、先生は持参してきた資料のいくつかを慶将に渡すと、いそいで腰をあげた。その先生の後ろを、まるで子犬のように向日葵ちゃんがついてゆく。
俺たちも立ち上がって、扉の前まで見送った。そこで先生は、「かねてから巫女さんに頼まれていたその資料、あなたたちも一通り、目を通しておいてくれないかしら」とおっしゃられる。
お嬢様も先生の見送りのために、一緒に部室を離れたあと、慶将は、まるでお菓子をもらった小学生のような顔つきになって、A4の茶封筒に入った資料をさっそく中央の応接卓の上に広げていた。
「どんなことが書いてあンだ?」
資料に目を落としたまま何も語らないでいる慶将の背中を眺めながら、俺は興味なさそうに訊いた。
「いや、これは…」
それだけ言って、慶将は口をつぐむ。
「なんだよ、気になっちまうじゃねーかよ」
のんびり菓子をつつくつもりであった俺は、文句を言う。
すると慶将は、その資料の束の一部を俺に投げて寄こしてきた。
「うん、なになに? イギリスの雇用審判所は、職場で『このハゲ!』と嘲笑されたことで、会社を訴えていた男性の申立てを認める判断をした? すげぇ、この国でそれが認められるんだったら、よく男性秘書をいじめている女性議員なんて軒並み…」
「ちがうだろー」
慶将は、俺様のボケに古のツッコミで応じてくれた。
「ああ、わかってるよ。下の赤線が引かれているやつだろ?」
各報道機関の、様々な事件が網羅されているその資料。なぜそんなものを先生は俺たちに見せたがったのか。
「なるほど、日付ね」
「ほう、キミでも気づいたか」
珍しく慶将が感心する。
「馬鹿にすんなよ。あのとき、ミカンコもずいぶん心配していたことだからな。俺だって、少しは気にするぜ」
前回行われたあの作戦、いわゆる『昆虫採集』なるコードネームで呼ばれたそれのことだが、作戦時間を過ぎてもまだ行われていたことが、やっぱりあらたな頭痛の種ともなっているらしい。
「キミも見てみたまえ、ちょうどその時刻、妙な自然現象が日本の各地で頻発している」
「まあ全部が全部、そうとは限らねえと思うけど、それでもこう連発していると、なんか怖ぇな」
こちらは素人だから、ついよけいな先を考えてしまう。
「それから、こんなものもあるぞ。以前、キミが言っていた、あの砲撃のことではないのかな」
卓の上を滑らせ寄こしてきたその資料を、俺は掌で押さえつけた。
「おいおい、丁寧に扱えよ」
「おや失敬、すぐにでも見たいのかと思ってね」
慶将の言う、あの砲撃の事とは―――そう、あのことだ。
いつだったか久場に潰されそうになったさい、実弾が飛んできて俺を助けてくれたのである。
そうそう、あのことを思い出すと、今でも感謝せずにはいられない。薬莢ひとつでさえ失くすことの許されない組織の中で、街中で発砲などと、法律ともけっして相容れない善根的行為の罪を、みずから被ろうとは――。
始めこそ、俺はそのように考えて、名も告げぬ自衛隊の方々に感謝していたものだが、よくよく考えたら、そんな都合の良い場所、その時刻に、射撃体勢を整えて待ち構えている自衛隊車両なんぞが街中にいるわけもないのだし。
それでまあ、しみじみ読み込むことになるわけだがその資料、付録にあるのものが、学校近くにある河原のいくつかの地面の写真と、地図と、そして警備地誌の写し?
「なんじゃこりゃ」
「先生の情報人脈もそうとうなものだよ。たぶんそれ、情報部の内部資料じゃないのかな」
「へえ?」
よく分らんが、一般人が容易く触れられるものでもないらしい。
「ハンチくんの報告にあった場所からやや離れた下流域に、不審な轍がいくつか見つかっていてね。それが市道を外れてそのまま沖積平野へと伸びていて、そこで見失っている。また市道の一部が轍掘れによって、アスファルトの路面が隆起していて、これと通りがかった一般車両の底部とが接触し、軽い物損事故も起きているそうだ」
慶将は手元の資料を見つめたまま、そこで深く息を吸った。
「つまり、なんなんだ?」
「道路管理者の許可を得ていない、それだけ重量のある車両が走行したということだよ。そしてその轍というのも、ゴムタイヤなどではなくて、あきらかに装軌車両によってできたものだそうだ」
その装軌とは、転輪をぐるりと囲むように接続された履板の輪っか、戦車のプラモデルなどでは、熱したマイナスドライバーで焼きとめるあのキャタピラーのことである。
「え、マジで戦車だったってこと? 自衛隊の?」
「それを危惧して、あの先生も自衛隊の情報部に依頼していたのではないのかな。履帯の形状から、どうやら自衛隊のものではないらしいけど」
「へえ」
俺たちが卓の上でしばらく資料を散らかしていると、ふいに窓の外がチカっと瞬いた。
「おや?」
それには慶将もすぐに気づいたらしい。
窓から入る白い陽光は、この時間、すでに薄明りへと変わっていたが、どうしたわけか、今はまるで淡い鬼火のかたまりを投げつけたように、窓ガラスの明りがほろほろと紅く明滅しているのだ。
俺たちはいそいで窓辺に駆け寄った。
窓を覗くと、一面、真っ白な霧が立ち込めていた。
「うっわ、外が見えねえ!」
ひょっとしたら、ガラスの方が曇っているのではないかしらと思い、すっと指を滑らせてみたものの、そこにつくはずの水滴もなく、この夕刻、ほんとうに辺り一帯は霧に覆われているようだった。
「ほほう、残暑の陽の残る中、これこそが、不自然極まりないというものだ」
慶将は面白そうに言った。
すぐそこにあるはずの鉄筋校舎の向こう、その少し上空あたりで、なにやら紅い燐火のようなものが靄いでいる。それが反射して、この部屋の窓を薄赤く照らしているようだ。
俺が部室を飛び出そうとすると、すぐさま慶将が制止してくる。
「いや、キミは行くな」
「え、なんでよ」
外にはまだミカンコたちがいるのである。何かあったら手遅れになりかねない。
「こうした場合、むしろハンチくんから離れていた方が皆は安全なんだよ。ほんとうにあれがそうした超常現象なら、すべてはキミに関わってくるもののはずだからね」
たしかに妙な現象の元となるのは俺しかいないのだろう。けれども、希人は封印されたままだし、それでも活動できるものとなると――。
「そうだね、誰かの作った傀儡か、それとも、そんなスピリチュアルなものではなく、もっとこう、即物的なもの。たとえばドローンとか。そうとするなら、これは霧ではなく煙幕なのかもしれないな」
「煙幕? なんでそんなもン張らなきゃなんねぇんだ?」
「もちろん、自身の所在を掴めなくするためだろう。使用されているのは、おそらくHCかTA発煙混合物。まあ安心したまえ、むこうには向日葵さんもいる」
それで俺も部室に残ることにしたが、やっぱり気になるのは窓の外のことである。霜の下りたような風景を眺めながら、俺は卓の上に残された茶菓子をひろって、いらいらと口にした。
この気分のせいでもあるのだろうか、皆がいたときには甘かった茶菓子も、今は何の味もしなかった。慶将ははっと気づいたようにスマホを取り出し、ミカンコを呼び出していたが―――応答はない。
べったりと空をふさいでいた重苦しい煙が、にわかにうごめき、そして潮のように流れだしたのは、それからすぐのことである。
煙の流れをぼんやり目で追っていた俺は、突然にはじまった異変に目を丸くした。
「な、なんだ?」
そして、どこからかひと筋の白い光が、空に向かって放たれる。
それが消えるや否や、白光の軌跡にそって、紺青の空がぱっくりと現れた。
次いで、ものすごい衝撃。
「うっわ!」
びりびりと唸る窓ガラスから、俺はあわてて遠ざかる。
これも異常現象の続きなのか、はたまた別の要因によるものか、外面を激しく流れはじめた白煙は、そのどちらにも受け取れた。
俺と慶将が息をひそめて見守るなか、外の明りが急速に増してくる。
「見たまえ、青空が…」
「ど、どうなったんだ?」
俺はおそるおそる這うようにして窓辺に近づいていった。
外はすっかり、真夏のような生命あふれる色彩に戻されて、今までの灰色の世界が嘘のようであった。しかしながら、まだ校舎の上空には、もやもやとした紅いものが蠢いている。
「あれが、本体なのか?」
これに応えて、慶将が頷く。
「おそらくそうだろう。しかしドローンにしては、動きが妙に生き物くさいな」
そしてまた、カッと光が閃いた。
白く燃える光の一閃が、紅い靄を正確に貫く。
とたん、その靄は弾け、細かな破片となってパラパラ散らばり落ちてくる。少し遅れて、なにかギャーという悲鳴が、辺り一帯に響いてきた。
そんな異質な光景を、俺たちは息をつめて見守っていたが、やがて何も起こらないのが分かってくると、おそるおそる首を伸ばす。
「お、終わったのかな?」
「さて、どうだろう」
この間に、もう慶将は扉の方へ歩き出していた。
そしてこの俺には留まっているよう申し付けると、自分だけは扉の外へ出てゆくのである。




