予兆、醸して 一
ながい夏休みも、あと五日ばかりを残すのみとなり、駅前の学習塾も今日が最終日となる。俺は二学期に学ぶ内容の先取りだけをしていたので、全講習の連中とくらべ、まだしも楽であった。
その選択した講習はたいてい午後から始められた。あいだに昼休みをはさむので、俺は自販機の置いてある控室でじっと待っていた。
最初の頃は、おフランスへ留学しなければならない宿命を持つような、そんな南麻布のお嬢様たちのようなのが、外国の雑誌を小脇に抱えて、よく日本なまりのへんな外国語でお喋りをしていたものだが、一週間ほども経つとおいおいにいなくなり、この広い控室も俺を含めて今は数名ほどである。
ガランとした中を話す相手もなく、また話しかけられることもないままに、俺はぼんやりスマホに目を落としていたわけだけど、この数少ない連絡先名簿に登録されている連中は、今頃なにをしていらっしゃるのでしょうかねえ。
日比谷公園の騒動で大変だったご令嬢は、まあいいとして、希人の僕たる久場くんは、この夏、新幹線で宮城の実家に帰省していた。
いずれ両親の林業を継ぐという彼は、あの大きな体を活かして山から丸太でも降ろしてくるのかと思いきや、ほとんどは管理業務で、その指に比して小さなキーボードを扱うのに、たいへん難儀しているようだった。
もうひとりの僕、飛鳥くんは現地の人なので、呼べばすぐにも参上するのだろうが、そのさいの出張費や交通費は、すべて俺持ちになるという。
そうした福利厚生は、従者とのコミュニケーションの促進やモチベーションを高めるのに必須だというので、夏休みのあいだ、俺は飛鳥の存在を努めて忘れ去ることにしていた。
しかし僕と呼ぶのなら、やはり三つがデフォである。もう一人は空を飛ぶ怪鳥あたりがぴったりな気がする。しかしあいにくと、従者はこのふたりだけが名簿に登録されているだけで、残りは全て身内だった。
一度でいいから、頁のはじめくらいは、びっしりと他人の名で埋め尽くしてみたいものである。
そんなことを思い、無料の麦茶でぼんやり口を浸していると、その候補のひとりが通りかかる。
「よう、このくそ暑いのに、その立派な臀部は相もお変わりなく」俺は片手を上げて呼びかけた。
「ハンチも、性懲りもなく元気じゃん」
「おいおい、誰が性懲りもなくだよ」そう文句を垂れるも、「言い出しっぺはアンタでしょ」とアリオに呆れられてしまった。
さても、俺はながらくここへ通っていたが、このギャル嬢を見かけたのは数えるほどしかなかった。
アリオが真面目に来ていなかったといえばそれまでだが、ひょっとしたら俺とは逆で、一学期の復習だけを選択していたのだろうか。
その派手な髪とコーデなどはギャル道の型のごとしで、夏の分だけ布面積が減少している。アリオはたいへん魅力的な腰に手をやると、少しかがめて、テーブルに置いた俺のスマホを覗いてきた。
「ところで、どう? 世界はまだ無事?」
「そりゃあ、無事だが…」
俺はそのホットパンツを検め、そこから伸びる太腿の曲線美をしみじみ嘆じてから、おや、と思う。こいつは俺の対面に腰かけると、膝にのせたバッグの中身を探っていた。
そして、にっと笑ってアリオが見せてきたものは、まえに向日葵ちゃんがしていたものと、瓜二つのお面である。
「ほら、もらっちった」
「あれ、なんでおまえが持ってんの?」
俺は意外に思ってたずねる。
「なんでって、もらったからに決まってんじゃん」
俺は周囲にすばやく目をやり、アリオに顔を近づけた。「あいつは鷺ノ宮印のお面でも、売り出すことにしたのか?」
「ハハ、まっさか」
アリオは放埓な顔で笑う。
「なんかマズいときには、それを被れってさ。どういう意味なのか尋ねたら、これからが本番なんだって」
俺はぽかんとした顔でアリオを見た。
「は? なん言いようとや?」
思わず方言がでちまったが、そこではっと気づくのだ。それからすこし用心深い顔つきになって、急いで頭を巡らせた。
「ええと、おまえ、ひょっとして―――いや、バカだなあ。知らないでいりゃあ、普通に生活できんのに」
「なに、迷惑なの?」
アリオはむっとする。お面を持つその腕には、銀のブレスの飾り玉がチリチリと相触れて、冷たく鳴っていた。
「そうじゃねえけど、わざわざ面倒ごとに首を突っ込まないでもって思っただけだ。あのお嬢様、なにもアリオまで巻き込まねえでも」
「いやあ、それがさあ、どうやらアタシも当事者らしいんよ」
アリオは視線をそらし、なにか恥ずかしそうに、ネックレスの張り付いた自分の鎖骨を指でなぞった。
「当事者?」
「うん。実は、学校でもここでも、ちょいちょい試してたんだけどね。気づかなかった? ハンチにも練習台になってもらってたけど」
具体的に言ってもらわないと分からないが、俺を練習台にしていたとは、どういうことだろう。
「つまり、俺が四つん這いになって、知らずうちにアリオのイイ尻を試乗させていたということか?」
「アンタ、頭膿んでるでしょ」
「よし、やってみろよ。俺の背中にライドゥン」
アリオはお面で俺の頭をはたくと、唇を引き結んでそっぽを向いた。
「いやわりぃ、マジなお話だったな」
俺はすぐさま謝った。噴火寸前の女の前触れくらいは、さすがに察するものである。
「ちゃんと聞け。ほら、よくハンチの頭に、石とかのせてたでしょ」
「石?」
「覚えてない? じゃあ消しゴムとかは? よく隣の可愛い系の女子のとこに、置いてあげてたよ」
――あ?
「ハンチさ、なんか、あの荒川って娘にすっごい気があるみたいだったから…」
それには、ほんとうに吃驚してしまって、俺はそのギャルメイクをまじまじと見つめるばかり。
「なに、あれ全部おまえの仕業だったわけ?」
「全部かどうかは、わかんないけど」
アリオはすぐに真面目顔になった。
「あ、ごめん、ハンチ、マジだったの?」
「なにが?」
「だからあ、アンタあの荒川って娘に気があんでしょ?」
なにかお互い、話が一節ほどずれているような気がするが、俺はその聞き落とした話を整理するために、一度アリオの口を止めさせた。
「ちょっと待てや、まず俺な。アリオは、その、狗だったわけ?」
「ワンワン?」
一度はそうしたプレイも楽しんでみたいものだが、今はそれどころではない。
「たわけっ、つまり、変な力を持ってるかってことだよっ」
「ああ、それね」
アリオは、ちらと視線をそらせて、また笑顔を作った。
「ものすっごく弱っちいけど、鷺ノ宮さんが言うには、それはその狗だかなんだかの、先駆けみたいな力だって――」
アリオのその話しぶり、不安というわけではないが、そう安心できるものでもないらしい。そもそも、狗になるのかならないかは、自身で選択できるものでもないのだし。
「まあ、なっちまったんなら、仕方ねえか」
「ハンチはさ、その、希人とかいうんでしょ?」
アリオはおずおず訊いてくる。
「ふん。まあ仮免みてーなもんだけどな、ってか、今のこの右手、封印中なのによ、おまえ力使えんのかよ?」
「アタシのは、まだ、ほんの気の迷いみたいなもンだから。特別な力はいらないってさ」
「具体的にどんなもンなんだ?」
しばらくためらった後、ぽつぽつと語り始めたアリオの話は、俺の興味を引きつけるのに十分だった。けれどもまわりを他の講習生がざわざわ通っているし、それを気にして、今はちょっと口ごもっている。
それで俺はふと思うのだ。アリオのその力、だれにも気づかれないのであれば、今のこの場でもできるのではないかしら。
「できることはできるけど、誰かに意識されていたら、隠れられないみたいなんよ」
「へえ。それなら、今ちょいとよそを向いてやるから、そのあいだにやってみせろよ」
それで、俺は窓の外に目をやった。
通りを挟んだ喫茶店の客が、窓越しにぼんやりこちらを眺めている。俺と目が合うと、気まずそうに顔を背けていた。
よく都心で電車などに乗ったさい、並走して走る隣の車両の人と視線が合ってしまって、なんとも気まずい思いをしたものだが、あの人もそんなことを思って恥じているのだろうか。
俺は苦笑して、再びアリオへ視線を戻す。
そのアリオは席を立って、こちらに尻を向けているところだった。
「うむ、いい尻だな」
「あれえ、見えてる? おっかしいなあ」
「なら、もう一回だ」
そしてまたよそを向くも、振り向けばその尻はテーブルを迂回したところで止まっていた。
「おいおい、だるまさんが転んだ、じゃねーんだからよ」
アリオは鼻を鳴らして、納得できずに首を傾げている。
そのギャル嬢へ、見知らぬ男子が片手をあげて近寄ってきた。廊下を走ってきたのか、少々息を切らせて、髪もやや乱れていた。
アリオの知り合いかと思ってぼんやり見ていると、なんとそのままぶつかって、ふたりともつまずき転ぶのだ。
「ひゃあっ!」
アリオが悲鳴をあげる、俺もあわてて腰を上げた。
テーブルを回って床を見ると、バッグをひしと抱えたアリオの下に、ちょうどその男子が重なり倒れていた。お互い、かなりの勢いで硬い床に転んだため、すぐには起き上がれない様子だった。
俺は急ぎ駆けよって、混乱しているアリオを抱き起す。
「おい、大丈夫かよ?」
「う、うん…」
ショックのあまりか、目がとろんとしていた。ざっと診たところ、頭を打ったわけでもないらしい。
それでアリオが退くと、ぶつかった男子も起き上がってくる。膝のあたりに手を添えて、痛みに顔を顰めていた。
無理もないその玉串の紙垂飾りのような細っこい脚に、こんな重量感たっぷりの鏡餅みたいな尻が落下してきたのである。むしろよくぞ折れなかったものだと、褒めてやりたいくらいだった。
まだ見物人はいたって少ないので、今のうちに離れておけば、アリオもはにかまずに済みそうだ。
そう思ってこの場を離れる俺たちの後ろから、ぶつかった男子が詫びてくる。このたびの落ち度の原因は、不注意にもまったく気づかなかったからだと言って、また詫びた。
それで俺もはたと思い、今のアリオを考える。
こいつの能力は、自身の姿を相手に認識させないことだという。つまり、道端に生う雑草のように、見えてはいるが気づかせない―――なるへそ、ぶつかってしまうのも当然か。
「おいアリオ、他のやつらには、たぶんおまえ見えていなかったみてぇだぞ」
「えー、そうなの?」
アリオは乱れた髪を手櫛で整えながら、俺を見あげてくる。
「それで、運悪くやって来たあいつと、ぶつかったんじゃね?」
振り返るとその男子、待ち合わせをしていたグループの男女に介抱されて、席に着くところだった。
「でもよ、マジで地味だな」
「うるさいなー」
なんだったら、この俺でも知らずうちに使えていた気がする。
それは中学の、個人ではなく団体の場で、適当な相手とペアになって柔軟体操をするときに、よく発揮されていた。俺という孤高の存在のみが、唯一得られる能力でもある。
「ハハ、でもそれ、先生には効果がないっしょ」
アリオは手で口元を隠すと、ニンマリ笑った。
まったくもってそのとおり、先生はもうペアの組みあがる前から、当然のように俺だけを見つけてきて、よく一緒に身体中の筋という筋を伸ばしまくったもの。
今でもときおり目に浮かぶ、わびしい一場面でもあった。




