秘匿作戦:昆虫採集 四
それで三日ほど、公園は封鎖されることになる。
あとから事件を知った報道局の車両がやって来るも、機密保全上の配慮から、すぐに詳細は伝えられず、被害者全員を保護したうえで、警察もいくらか発表するつもりであったが、臨時記者クラブを仕切るマスコミがさっそく署までやってきて、情報を出すよう突き上げてきた。
「先生、そちらの被害は、どの程度なんです?」
その生中継を視聴しながら、慶将が尋ねる。
『ええと、今署内で聞いたけれど、記者、十三名が受傷、うち八名が重症。民警、二名受傷。それから警視庁部隊、六名受傷だそうよ』
それら被害の状況は、すでに被害者本人たちからもSNSに流されていた。なんせ怪我をしたほとんどが報道関係者だったから、情報が早々に漏れ出るのは必然だった。
『けれども実際に何が起こったのか、その真実を知る人は、私たち以外、おそらく誰もいないのでしょうね。こちらの本部長も、詳細が判明するまで、もう政治的な判断にまかせるそうよ』
「まあ、僕たちの言うことなんか、そもそも常識人は信じたりしませんでしょうしね」
しばらくは地上波も、自分たちの想像を電波に乗せるだけの話となるのだろう。そしてスタジオにお返しして、来るはずのない新しい情報を待つことになるわけだ。
「それでも時間が経って興味が薄れてくれば、こんなことですら、皆は平気で忘れるものなんだよ」
そんな皮肉めいたことを、慶将は言うのである。
その日の夜、家に戻された俺はベッドの上にひっくり返って、ぼんやり考え事をしていた。
ちいさく溜息をつきながら、左腕を枕に、のっぺりした右の掌をかざしてみる。
封印を完全に解いてこの掌紋をはっきりさせてしまえば、俺は希人とやらの力を得ることになる。そんなことを漠然と思っていたが、実際はそんな甘っちょろいものではなかったようだ。
俺の意識と身体が切り離されていた、ほんのちょっとの間。
かつての希人が、この身体をつき動かしていたと、慶将は言う。
そう聞かされると、頭の中にもう一人の自分がいるようで、たいへん薄気味悪かったが、そんなことが実際に起こってしまったのである。
ここで言うもう一人の自分とは、とある古い記憶のことだ。
それをミカンコたちは、『希人』と呼んでいた。
そして今の俺には、『希人』たる遠い叔父の記憶がほとんどない。その記憶のあるなしが、『希人』のほんとうの意味らしかった。
「―――ということは、なんだ。希人になっちまったら、今の俺の自我はどうなるンだ?」
それが先ほどから感じている、漠然とした不安なのである。
そこへ、妹が部屋に入ってくる。
中学の時に俺が使っていた参考書を探しに来たのか、あるいは漫画本か。とりたてて勉強するようにも見えなかったから、この前買った漫画の新刊でも漁りにきたのだろう。
「陽葵ちゃん、夏休みの宿題、今日の分はもう終わったん?」
「……」
よけいなお世話だったのか、妹はつんと澄ましたような態度で俺を見る。
きちんと宿題を熟したあとに、俺もこんなことを母さんに言われて、よく反発したものである。
そうした日々のことを思い返せば、妹が俺に「べ」と舌を出してもおかしくはなかったが、なぜだか妙に大人しい。
よく見れば、その頭にはへんなお面もあった。
白地に赤黒の目玉がひとつ、中央にでんとあって、ひどく崩された文字が回転弧を描きながらその目玉を取り巻いている。遠くから見れば、なにかの動物の顔に見えなくもなかったが、そんな妙ちくりんなものを頭に被せているのである。
「なにそのお面?」
俺が問うも、妹はなにも応えず、ベッドに横たわる俺のとなりに膝をついて、もそもそ這いあがってくる。そのまま寝そべる陽葵ちゃんは、伸ばした腕に頬をおしつけて、じっと俺を見るのだった。
まんまるの瞳は、好奇心いっぱいの目をしていた。
「安心?」
ちいさく可愛らしく囁いて、この腹にひっかけた夏掛けに顔を埋めてくる。
俺は声を立てて笑い、その艶のある前髪に触れてみた。
「うんうん、安心だねぇ」
その感触は、まるで赤ちゃんの髪のように繊細であったが、単分子ワイヤーのごとく強靭な髪に触れるさいは、くれぐれもご注意をと、ミカンコ嬢からはそのように仰せつかっている。
俺は笑顔のまま、放ってあったスマホを探り当てると、すぐさまお嬢様へ連絡を入れた。
ただちに応答があった。
「おおいっ、ミカンコ、うちに、向日葵ちゃんが遊びに来てんぞ!」
むこうが何かを問う前に、もう俺は叫んでいた。
この傀儡ちゃんはもの静かなものだから、ベッドで何をしてくるわけでもなかったが、家の中で俺の妹といえば、やっぱり陽葵ちゃんだけなのである。
それなのにまあ、こちらの騒ぎを聞きつけた本物の妹が、部屋にやってきてしまうのだから、たいへんだ。
「なあに、お兄ちゃん。夜なのに騒いで…」
きっと誰もが、その後の展開を期待せずにはいられまい。
俺は浮気現場に踏み込まれた旦那のような心境になって、夏掛けでくるくる包んだ向日葵ちゃんを秒でベッドの反対側に滑り落とすと、役者顔負けの平静さで応じるのだった。
「いや、ちょっと軽く腹筋をだな」
夏休みの不摂生が祟って腹がゆるみ気味なので、今はお願い筋肉をしているところだと、妹に嘘ぶいてみせる。
「じゃあ私、脚に乗ってあげようか?」
いつもしてあげているように――そんな妹のお節介も、今夜ばかりは困りもの。
「もう腹筋は終わって、これから腕立て伏せを…」俺は慌てて言った。
「じゃあ背中にのって重しになってあげる」
陽葵ちゃんは笑顔のままベッドに上がってくる。
うちの妹はこういう娘だし、他意がないのもわかっちゃいるけど、なんと間の悪いことか。
その妹が、前を向いて固まっている。
視線の先に、夏掛けから顔を出したばかりの向日葵ちゃんがいれば、それもそう。
「ハイハイハイハイ、陽葵ちゃんっ、詳しくはこれっ、これに尋ねてちょうだい! この子はうちに来た美人のお姉さんの、鷺ノ宮さんの関係者なんだからっ」
俺は目を丸くする妹の疑念をまじめに解きほぐす気にもなれず、それでもう、ミカンコお嬢様に繋がったスマホごと、陽葵ちゃんに渡すと、神にでも祈るような気持ちでその様子を見守るのだった。
まったく、これでは明日の日からが思いやられよう。
しかしこうした騒ぎも、今の俺にとってはさしあたっての救いでもあった。
このままひとり、陰鬱な気持ちで悶々と過ごさなければならなかったことを思うと、そこの何も知らない妹にすら、感謝せずにはいられない。
その日の夜は、とにかく大変だった。
妹が向日葵ちゃんを連れだすと、下では「まあ!」と母さんの声が大きく聞こえてくる、そして少し騒ぎがしんとする、陽葵の得意げな声がする、わっ、わっ、という父さんのどよめきが響き渡る。
意識を他に向けようがないから、俺もこの部屋で騒動の一部始終を聞かされることになってしまうわけだけど、まさか父さんに隠し子でもいたのかと、その品定めに、母さんがじろじろ見てきたのを知っているのかいないのか、おそらく向日葵ちゃんはなにも知らないでいたに違いない。
鷺ノ宮家ご令嬢による、日本の銀行の信用状に勝るとも劣らない概説がなければ、うっかり離婚の危機まで迎えていたのかもしれないと思うと―――ほんと迂闊なことはできないのだった。
そして翌朝になり、俺は起き出した。
下に行って、みんなに寝ぼけた声であいさつする。
「おあよ」
それで、母さんからは顔を洗ってくるように言われた。夏休みの息子は顔と精神がとても弛緩しているそうで、その緩みを一度、きゅっと引きしめないうちは、朝食もおあずけだとおっしゃるのである。
しかたなく顔を洗って戻ってくると、父さんのいるテーブルには妹がふたり座っていた。この視界の中にあんまりにも自然に納まってくれるので、俺もあやうくスルーしかけたほどだった。
さて、この傀儡こと向日葵ちゃんの存在を、ミカンコがどう繕って妹に説明したのか。俺もたいへん気になるところ。
「―――でも、元気になってよかったね」
という妹の嬉しそうな声が、まず聞こえてきた。なんでも向日葵ちゃん、幼い頃にいちど重い肺血症にかかったらしく、その影響で、つい最近になるまでひとりで出歩くことすら許されなかったらしい。
「肺血症は大変おそろしい感染症だからね。それで今でもよく人が亡くなっているんだよ。だからキミのお姉さんも、たいへん案じていたのではないのかな」
いや父さん、おそらくミカンコ嬢が案じていたのは、向日葵ちゃんの正体がバレやしないかというその一点のみ。つか、あのお嬢様は、病弱な向日葵ちゃんのお姉さん役という設定なのか。
そうした話のさなかも、妹の顔をした傀儡ちゃんはどこに心があるのか探りようのない表情で、そのお口もきわめて淡泊。しかしながらこの俺の相当なフォローと気苦労のおかげで、朝の会話の中からなんとか抜け出すことに成功する。
それで、俺の部屋にまで傀儡ちゃんを避難させると、妹も当然のようについてくる。
「でも、ほんとうにそっくりで、隠し双子でもいたのかと思ったよ」
妹はのんきに笑った。
なんと申しましょうか陽葵さん。それ、たぶん俺のせいだから。
「きのう、一緒にお風呂に入ったときもさ――」
え、大丈夫なの? 防水仕様だったっけ?
「蒙古斑の形までおなじでさ――」
そうそう、陽葵さん、水滴みたいな形してんだよな。
「それで、見るとなんか太腿に、お札みたいなのが貼ってあったんだよね」
ああ、それは、いやまて、どうフォローしよう?
としたところで、俺を見かねてくれたのか、向日葵ちゃんご本人が口を開く。
「内股膏薬」
「……」
まあ確かにそうした理屈というものも、節操なく、いろんなものにくっつけられると申しますしね。
「そうそう、ちょっと変わった膏薬だって言ってたよ。やっぱりそれも、後遺症みたいなの?」
お可愛い妹でよかったと、俺はほんとに安堵した。
そのお札とは、おそらく校舎の屋上で慶将が貼り付けていたものにちがいない。あの位置が向日葵ちゃんの太腿にあたるとは、まったく思いもしなかったが。
ふたりは俺のベッドに腰かけて、お面の紐であやとりなどを始めていた。
それは手先の機能を確認するために、ミカンコ嬢が向日葵ちゃんに教え込んだものだと、あとで聞かされる。
あのお面が頭にないと、このふたり、たぶん俺でも見分けがつかない。ただ向日葵ちゃんの方は、本来の明るさを取り戻した陽葵と違い、以前のお嬢様によく見られたような、人を遠ざける感じがその身にまつわって、うっかりすると、また虐められていた春の頃に戻ってしまったのかと―――よって元気な今の姿がまた、俺にへんな安堵をたびたび思い出させるのである。
部屋でふたりのあやとりをぼんやり見ていると、家の前に一台の黒い車が現れる。
覗いた窓の向こうには、まもなくステンレスの門扉をあけてやってくる、その人物の姿が見えていた。
ゆったりとした白いシャツに短パン、やや金髪を伸ばした好男子らしい面影は、あの慶将くんのものにまちがいない。
これもまたミカンコ嬢に何かお願いでもされたのだろうか。迎えた父さんに、俺の友人であることを簡単に告げて、そして同じ部活の部員であるとの弁を申し述べているところへ、この俺が向日葵ちゃんを連れて降りてくる。
「智則、友達が来てるぞ」
俺が慶将をはっきり確認した後も、父さんは自分が引っ込む理由を見つけたようにそう言って、部屋へ戻っていった。
「よう、たいへんそうだな、おまえも」
疲れた表情をみせる慶将に、まずはそう労う。
「うん、ほんと、大変だったよ。あの後すぐ、傀儡が行方不明になって…」
「え? 捕まえたんじゃなかったっけ?」
たしかあの端末から、傀儡の元となった御守りらしきものを確保したと、芹沢先生から連絡があったはず。
「や、そっちじゃなくてね」
ああ、こっちの娘の方ね。
俺はとなりに並ぶ向日葵ちゃんの頭に手を置いて、お面の位置を正してやった。
「その向日葵さんは全ての傀儡の基礎であり、また凌駕するものでもあるからね。今はまだ、きっちり見張っていないと危ないんだよ」
「へえ。でも、この向日葵ちゃんだよ? なんかおまえ大げさに言うけど、杞憂じゃね?」
「実情を知って、なおそう言えるのは、この業界広しといえども希人であるキミくらいなものだろう。そもそも、その向日葵さんの価値を知ったら、仰天するぞ」
「価値って、JCの人身売買はまずいだろ」
「いや、冗談じゃなくてね」
こう隣にいると、人らしい温みも感じられてくるようで、とても作られた物のようには思えないが、改めて向日葵ちゃんが人工物だと知らされると、やっぱり妙な気分がするものである。
とはいえ、興味もあったので、一応は聞いてみるのだが。
「因みにこの向日葵さん、おいくら万円なのかしら?」
「これでも国宝級のものだから、本来、値段すら付けられるものでもないけれど、もとは人ひとりを蘇らせようとさえしたものだからね。僕が彼女から聞いた話では、この娘一体で、戦艦大和一隻分には相当するそうだ」
「ほほう」
さぞお高いのだろうが、一般人にはまったくピンと来ない尺度である。
「何分の幾つの尺度の?」
「プラモデルじゃなくてね」
俺のちょっとした冗談に、慶将はようやく笑みを取り戻していた。
玄関を出て、車の開けた後部座席へ向かうとき、後ろから向日葵ちゃんを呼ぶ声がする。振り向くとそこには妹が追いかけて来ていた。
「ねえ、また遊びに来てね」と、妹は明るく呼びかけた。
向日葵ちゃんからの返事はなかったが、代わりに慶将が笑顔で応じた。
「ええ、ぜひとも、遊んであげてください」
その魅惑のイケメンスマイルで、校内にはたくさんの陶酔者を拵えたというが、あいにく俺の妹には効かなかったようである。
俺はひひひと笑って、その慶将の背をたたいた。
「おやおや、慶将殿の神通力も、近頃はあまり冴えないようでございますなあ」
「ふっ、僕だって万能じゃないからね。目当ての娘さえ落とせれば、それでいいのさ」
よくもまあ減らず口が尽きないものである。
その慶将は、車へ乗り込むさいに、俺の耳元へ囁くように言ってくる。
「今はこの向日葵さんを、人と一緒に安全に暮らせるよう、彼女が調整しているところでね。本来、傀儡を仕上げる際には、術式の中に必ず規則を守らせる文言を仕込んでいるものなんだが―――」
「ああ、そういうのなら俺も知ってるぜ。たしか急急如律令とかいうやつだっけ」
ついこの前、深夜アニメで見たばっかりだ。
「たとえるに今は、米軍の戦術核搭載型AI兵器が、セーフティプログラムなしで勝手に動きまわっているようなものなんだよ。そう説明すれば、キミでも分かるかい?」
なるへそ、それなら慶将が青い顔をしてすっ飛んでくるのも当然か。
「だったら、昨日電話したときに、すぐ来ればいいのに」
「いいかい、この傀儡は、『自由』なんだよ?」
なんだか慶将は、妙に真面目な顔をして俺の眼をのぞいてくる。
「うん?」
「つまり、推定出力数十万馬力もあるあの小さな身体に、突然へそでも曲げられて大暴れされてしまったら、都市丸ごと一つ整地にでもしない限り、もはや取り押さえることなど不可能だ。だからその情緒が十分に安定しているのを見計らって、このタイミングで僕が来るしかなかったんだよ」
なんと返事をしてよいのか困惑している俺に、慶将はなおも続けた。
「これが、独立した自我を持つ傀儡の、恐ろしい面でもあるのさ」
作者より:
体調不良のため、更新はしばらくお休みします。夏頃に復帰できればと思っております。
ここまで読んでいただいた皆さまには、心より、感謝申し上げます。