秘匿作戦:昆虫採集 三
本来、ここで右手に封印をかまして打ち止めにしておけば、まだしも騒ぎはビルの中だけで収まったのかもしれない。
しかしこの大混乱の中、皆が判断に迷っているうちに、蜜蜂の熱殺蜂球みたいな黒い塊は、十階の大窓を突き破って外へ出てしまうのであった。
『なんてことっ!』
先生の悲鳴にも似た叫びがした。
それからただちにドアを開ける音、廊下をヒールで打ち鳴らして踊り場の一角へ、そしてガラスに両手をついて窓の外を確かめるまでの、それら一連の動きは、気管を鳴らして荒い息をしてくる端末の方から生々しく聞こえてきた。
空へ飛び出た大きな黒い塊は、周りを雲霞のごとく虫たちが飛び交う中、体積を膨張させてゆっくり降下する。やや風にあおられ、そのまま通りの道路を越して公園へと流されてゆくようだった。
『まずいわね、公園の方に落ちていったわ』
「中の人たち、大丈夫なんですか?」
慶将が心配そうに聞く。
『あれだけゆっくりなら、死ぬことはないでしょうけど、とにかく他にも被害が出ないよう、市民の安全の確保が最優先ね。木村っ』
はいっ、では公園の外周にも阻止線を―――慶将の持つ端末からは、そんな応答の様子も聞こえてきた。
「なんか、大事になっちまったな…」
部屋の中で、俺は気まずそうに言う。
「もとより、承知の上さ」
「おまえはな」
俺は慶将をちらりと見て、ため息を吐きながらソファに身を預けた。隣の向日葵ちゃんは背筋をぴんと伸ばして、頭にのせた俺の右手を両手でおさえている。
はやく向こうの状況を知りたかったが、まだテレビでもネットでも情報が知れ渡っておらず、頼りは慶将の持つ端末だけ。今はそこからの連絡を待つより他にないようだった。
「もう五分、経ちますね」
ミカンコが固い表情のままぽつりと言った。その五分とは、本来の作戦時間のはずである。
「ただ、今封印してしまうと、現場の状況が分からないので…」
慶将はほうっと息を吐いた。
「仕方ないですか」
「ええ、人命尊重というやつですから」
隣の向日葵ちゃんが、なんだかそわそわして身体を動かしている。その様子があんまりにも目に触れるので、
「ん、どうした?」
と聞くと、ちょっと厚みのある可愛い唇を、すぼめたりして動かすのだが、あまりうまくは語れない様子。
そんな感じから、俺はひょっとしたらと思って言ってみた。
「おいおい、難しい漢字にしなくてもいいんだぞ?」
すると今度は、すらすら言葉が出てきた。
「〇〇クリニック」
「ん?」
「〇〇クリニック」
それはふだん俺でも聞いたことのある医療施設名だったが、しかしそれが今の状況とどう関連付けられているのかわからない。俺はぽかんとして、ただ向日葵ちゃんのお口を見つめるばかりである。
現場では、国会通りを中心に、パトカーや輸送車などが連なって停車し、防水難燃加工された紺色の、いわゆる乱闘服を着込んだ警視庁の機動隊員たちが、それぞれ透明盾を持って公園外周を移動していた。
部室にいる俺たちには知るべくもなかったが、その緊迫感だけは、端末機器よりとぎれとぎれに伝わってくる。
「あまり状況は良くないようだね」
慶将は表情を曇らせ、捉えどころなく呟いた。
その向かい側では、俺も頭髪に手をつっこんで悩んでいたが、やっぱり向日葵ちゃんの言葉が気になった。
そして今もまた、違った固有名詞などを口にする。
「青○○」
「それ、だれかの名前?」
「分かりませんね、いったいどういう意味なのでしょう」
ミカンコも、頬に手をあて、俺と一緒にその意味などを考えてくれていた。
「ひょっとして、他の傀儡の電波でも拾っちまったとか?」
「いえ、それでしたら、この子はきちんと教えてくれますから」
ミカンコ嬢が淹れてくれた熱いお茶を啜りながら、俺は落ち着かない気分を持て余していた。
「ふむ、じゃああっちの傀儡からで、間違いないわけか」
端末からは、警察官たちの号令やサイレンの音、そして通りがかった警備課長らしき人物をつかまえて、なにやら込み入った話し声。
それが、ふいにこちらへ向けても呼びかけてきた。
『そっち、聞こえてる?』
慶将は、慌てるように返事をした。
「は、はい、先生。聞こえています」
『陽が完全に落ちて暗くなる前に、なんとか公園内で安全に捕獲しようとしているのだけれど、あの大きな黒い塊、不規則に公園内を動き回るものだから、どうにもうまく捕まえられないのよ。だからもう少し、封印するのは待ってもらえないかしら』
「中には、まだ記者の人たちが?」
『ええ。手足がときどき見えるから、まだ捕らわれたままだと思うわ』
先生の話によると、一戸建てくらいに膨れ上がった虫玉が、自転車ほどの速度で公園内を縦横無尽に転がりまわっているのだという。近くの建設現場から拝借してきた足場用のメッシュシートで、その捕獲を試みているらしいが、進路の予測がうまくできず、現場はかなり混乱しているようだった。
「〇〇慎〇〇」
そんな最中においても、まだ向日葵ちゃんの呟きは続いていた。
『今度は右に折れたみたいね』
端末からは先生の声もする。
それで、慶将とミカンコ嬢は、いっとき顔を見合わせて、なにやら合点がいったように叫ぶのだった。
「そうか、思想か!」
「思想?」
俺だけがしょんぼり、蚊帳の外だ。
そんな俺を見かねたのか、慶将は苦笑して、ていねいに解説してくる。
「ほら、僕が以前にも言っていただろう? 傀儡に力を吹き込むのはキミだけれど、意志を持たせるのはその所持者だって」
ああ、言っていたなあ、そんなこと。
「傀儡の行動原理は、基本、所有者の意識の写しだ。向日葵さんの口にする言葉から鑑みるに、おそらく今回、自らが行動するための論理を、その所有者の強烈な思想で形成しているのだろうね」
「なるほど、よくわからん」
ミカンコが吹き出した。
「ああもう、つまりだね…」
論理とは「思考の道筋」のことを指す。今回、その論理を組み立てる言語の代わりに、極端な思想を持つ者の名を傀儡が利用しているのだと、そう慶将は言うのである。
「まさか、それで右だの左だの言ってるの? マジで?」
「そもそも、わかりやすく単純にしていく過程こそが、本来の論理のすることだからね。かつて帽子を思想に喩えた、昭和の評論家で、大宅氏ほどの品格はないが、ま、これならキミでもわかるはずだよ」
まあたしかに、こんな俺でも理解はできますけどねえ。
でもなぜだか釈然としない、この気持ち。
ところが現に向日葵ちゃんの口にする、その人物の思想の通りに、むこうの塊は右に左にと折れ曲がっているのである。
それで慶将は、進路の予測ができることを先生に伝える。
警戒包囲を厳に、アレを絶対ここから出しちゃだめ―――周囲にそう叫んでいた先生は、息を切らしながら応答にでてきた。
『ホント? それは助かるわっ』
帝都にふさわしく、また欧米諸国を模範して造成されたこの日比谷公園は、開けた幾何学模様を呈していて、敷地全体を支配しない程度に対称性が守られているので、あの巨大な黒い虫の塊は、メビウスの輪をなぞるようにいつまでもそこを転がり続けていられた。
そこで警備部のチームは考えた。現場にある人員輸送車の数は限られているから、公園内の、全ての経路を塞ぐことは無理である。しかしあるていど予測できるのならば、黒い塊の行動範囲をより狭める場所にだけ、重点配置し、後はもう、メッシュシートを括りつけた捕獲用の輸送車を、こちらの伝えた進路上に、あらかじめ移動させておけば良い。
その間も向日葵ちゃんは、「玉〇〇」とか、「桜〇〇」の固有名詞などを申していらっしゃる。
「しかし本当にこんな作戦打ち立てちゃっていいの? どっかからクレームきたりしない?」
「事を収拾しようとしているのに、いったいどこからクレームがくるというんだ?」
慶将は不思議そうに眉をひそめる。
「いや、だからさあ…」
―――この作戦はフィクションなのであって、登場する人物、団体、名称などは架空のものであり、実在のものとはいっさい関係ありません。あとそれから、向日葵ちゃんの言動やそれらに対する慶将の反応は本講のみで通用されることであって、世間とは違っているから、俺に向けて凸することなど決してお勧めしませんよ。って、これくらいでいいか?
「とつぜん何を言っているんだ? ハンチくんは」
「お嬢様じゃねえけど、厄除けの呪いみてーなもんだ」
まったく、イケメン小僧はのんきである。
そんなことを申しているあいだにも、向日葵ちゃんの呟きは続いている。
「○、元大統領容疑者」
「うっわ、よそもそれに含まれるのかよ!」
しかしさすがは慶将くん、慌てる俺をよそに、堂々と確信めいた口調で端末に伝えている。
「先生、次は左に曲がるようです」
『了解』
ほんと、ほっといても良いのでしょうかねえ。
それから向日葵ちゃんはこんな言葉も口にする。
「尊敬新聞」
「おや、そういうのもアリなのか」
人物名に限られるわけでもないらしく、これはちょっと俺にも意外だった。
「右の剛腕ですね」
『了解』
さて、それで次はなんなのでござんしょう。
「毎朝新聞」
「まあ、合体ロボみたいなもんだしなあ」
新聞を購読するよう、よく俺ン家のドアを叩いてくるのが、たいていここなのだ。
「左の本格派が続くようです」
『了解』
とまあ始終こんな感じであったが、最後のT字路だけは、慶将も即答できなかったようである。
「○○○」
「おや、また流れが変わったな」
その協会は、善良な風俗を一切損なわず、政治的にも中立であることを是とした、総務省管轄の外郭団体でもあった。
よく休みの日に起床して、居間に行くとたいてい父さんがここを見ながらコーヒーを飲んでいる。
「まずいぞ」
「なにがまずいんだ?」
先ほどまでは、普段とても公言できないようなことを、その舌でぺらぺらと滑らかに喋り散らかしていた男が、今は苦悩していた。
「いや、その経路から、どちらかひとつに絞らなければならないらしい」
「その経路?」
タブレットの地図を確認すると、進行方向はT字路で、なるほど右と左に分かれている。
まあここまで言いたい放題なのだから、慶将はあとで凸られでもして、頭を抱える運命でも背負って、もう大人しく黙っているのがよろしかろう。
「そうか、ヒントはあったんだ!」
慶将は夢中になると、もう、闊達自在にものを言う。
「いやもう黙れって」
「ほら、そもそものヒーロの呼称、なんだったか覚えているかい?」
そりゃあ覚えているさ、US・AIDマンだろう――って、
「おいおい、まさか」
「そのまさか、さ」
なにを言い出すのか、といった表情の俺の前で、慶将は大きく息を吸い込んだ。
『了解』
そして慶将の指示に応じた返答が、向こうからしてくる。
警備隊の待ち構えている場所へ転がっていった巨大な塊は、ふいに現れたメッシュシートの膜へと突進していった。
『よし、かかったわっ、はやく反対側も塞いで!』
端末からは、息を弾ませた先生の声が聞こえてきた。
大勢の警察官の怒鳴り声がする中、大きな黒い塊は、足掻くように逆回転を効かせるも、うまく網をくぐり抜けることができず、そのまま次々に投げかけられる網の束を、自身でどんどん絡め取っていった。
どのように回転してもうまく網を除けられず、せっかく除けてもまた絡めとる――――まるで恨めしく苛立ったように、どこからかひときわ大きな咆哮を放つと、取り入れていた記者たちをいっきに解放し、虫たちは突如、霧散するのだった。
そしてそれが、また一ヵ所に集まりだす。
『天呼ぶ、地呼ぶ、記者が呼ぶっ。与党を倒せと、俺を呼ぶ!』
その前口上は、人型になったときに放たれるもののはず。
「今だ!」
慶将がそう叫んだ時には、もう俺に筆先があてられていた。
その自分の右手を見て、俺も思わず「ひっ」と息を呑む。
ミカンコの握る太筆の、その玉のような穂先には、あまた蠢く奇怪な紋様。それがやにわに同心円状に拡がって、この右手に喰らいつくように覆いかぶさってくるのだった。
「ひえぇ…」
一見するとたいへん禍々しいようにも見受けられ、その気持ちの悪いものを、俺は目を瞠りながらなんとか堪えていたが、考えると、もともと呪いとは呪いの意味も持つらしいから…。
「はい、終わりましたわ」
ミカンコがワクチンを打ち終えたばかりの看護師のように、あっさり太筆を離したときには、さすがに俺もほっとして、さするように自分の右手の無事を確かめるのだった。