邂逅するのは、突然に 三
それから数日ほど経った、早朝のこと。
本日はごみの収集日でもある。面倒だが出さないわけにはいかない。
俺はキッチンにあるゴミ箱から中身の詰まった袋を取り出して、その口もとをぎゅっと縛った。
前回は母さんに言われた父さんが、しぶしぶゴミ捨てを行っていたが、田舎に住む祖母がめずらしく上京してきたとかで、その付き添いのために、昨日の晩から両親ともに東京へ行っていたため、今は俺しかする人がいなかった。
正確には妹もいるのだが、今のあいつが自ら率先して家の外にまで出ることはないので、もとより期待はしていない。
指定の場所へゴミを捨て、外から戻ってくると、その妹がシャツとパンツだけのあられもない恰好で冷蔵庫を漁っていた。
「おいおい、陽葵ちゃん。俺がいんのにさー」
そのかわいいお尻を眺めながら、俺は呆れて言う。
「いいじゃない、べつに」
冷蔵庫からは、くぐもった返事が聞こえてきた。
こいつは陽葵と言って、俺の二つ下の妹だ。
とある心理的要因によって、一時は登校しない、したくともできない、そんな不登校に陥っていた。
日本国憲法第26条第2項の規定を受けた義務教育というやつは、小学校に入学してから中学卒業までの九年間、闇鍋のごとく医者の子供もハングレの子供も一緒くたにしくさるものだから、運が悪いと、そうした素行の悪いやつらと一緒になった教室に押し込められて、クラス替えをするまで、あるいは卒業するまで、ひたすら迷惑を被ることになってしまう。
いわゆる教室ガチャというやつで、妹はどうもそのガチャ運が悪かったようなのだ。
当時、まだ俺のいたころは、妹も目を付けられることはなかった。
なんたってそのアニキ、いつも藪睨みで眼つきが悪く、校内でも気の勝った個性で有名で、櫛を入れ忘れた髪などはまるでヤンキー予備軍のよう―――本人はまったく無自覚だったけれど、周囲からはそのように評されていたらしい。
そんなアニキを警戒してか、不良たちも妹にちょっかいを出すことなどしなかったのだけれど、そのアニキが卒業してしまうと、今までの鬱憤を晴らすかのように、さっそく妹へ手を出しはじめる。
気の優しい妹は、それですっかり病んでしまい、学校へ通うことを諦めてしまったというわけだ。
その後、担任の教師がなんどか家に訪れはしたが、教師といえどもやっぱりサラリーマン。話し合いばかりで具体的な対策を講じないのと、両親、というよりも主に父親の方が、妹の不登校についてたいへん理解があったので、無理に通わせることなどしなかった。
それでしばらく様子を見ていると、その不良の一部が、なんと別件で警察のお世話になったというのだから、ほんと、呆れて言葉もないのである。
校長も、その不面目はよくよく気になるとみえ、緊急の職員会議の中では渋い顔をして苦り切り、全校挙げての綱紀粛正などを宣言した。
その結果によって、市の教育委員会へ不名誉の返上をするつもりらしく、おかげで近頃は、ずいぶんと教室の中の雰囲気も違ってきたようだ。
「陽葵ちゃん、今日は学校行くのか?」
「うん、行く。翠ちゃんも待ってくれているから」
「ふうん。でも無理すんなよな」
「わかってるよう」
そんな親しい友達の勧めもあってか、妹もこのところ、やっと通うことができるようになっていた。
さて、俺はテーブルのいつもの席に座わると、この霞のような意識が抜けるまで、部屋の中をぼんやり見まわしていた。
キッチンの方では、かちゃかちゃと皿をひっぱり出す音がする。
テーブルの上の牛乳に手を伸ばして、母さんが食事の用意をしている音を聞いていると、おのずと目が覚めてくるものだ。しかしながら、今朝はふたりの親などいないはず。
「なあ、陽葵ちゃん、なんかやってんの?」
キッチンで調理をしている妹にたずねる。
「うん、めだまやき。お兄ちゃん、食べるでしょ?」
「そりゃまあ、出されたら食うけどさ。そんな面倒なことしなくても、俺はパンにバターを塗るだけで構わないぜ?」
母さんが料理をしている空想を打ち切って、俺はそう申し出た。
「なに言ってるのっ、お兄ちゃんは育ち盛りなんだから、きちんと栄養をとらないと」
まるで母さんが言うようなことを妹は言う。
ついこの前までつるペタの子供だったのに、ずいぶん言うようになったものである。
その妹は、調理したものをわざわざ俺の前に置いてくれた。
「お兄ちゃん、今日は何時ころ帰るの?」
「ん、まあいつも通り。なんもなけりゃあ、四時くらいかな、ってか、陽葵ちゃん、それ、マヨかけすぎ」
俺はとぐろを巻いたマヨネーズを見つけて、注意する。
「いいじゃない、これが好きなんだもん。お兄ちゃんだって、その醤油」
対して妹は、だぶだぶに醤油がかけられた俺の目玉焼きを指摘してきた。
いいじゃない、これが好きなんだもん―――妹のマネをしてそう言ってみせると、陽葵はケラケラと笑う。
まあ今朝もこんな調子で、俺は学校へ出かけるのだった。
通学によく利用するバス停のご近所には、中華料理店などがたくさんならんで、人がいても、前に出されたゴミ袋を狙うカラスなどがよく集まってくる。
そのカラスどもを俺が器用に足先で蹴散らすので、今朝はゴミ袋にまでたどりつけず、その辺に散らばっている小物を、手当たり次第に咥えて逃げていった。
そこからはまた、からからと音を立てて空き缶なども転がってきたりする。
どうやらこの店の連中は、燃えるもんも燃えねえもんも一緒くたにしくさるらしい。
そう軽い憤りを覚えつつも、空き缶を足裏で上手にキャッチすると、ゆっくり体重をのせながら逆回転を利かせて押し出して、つま先で器用に宙へ弾いた。
その空き缶を二、三度、足の甲でポンポンやったのち、身体をくるりと回転させて、もう片方の足の踵で蹴りとばす。
それがまあ見事にはかったように、自販機のすぐ隣にある、ゴミ箱の小穴にすっぽりと入り込んで、俺をびっくりさせるのだ。
周囲の人たちもその一部始終を見ていたらしく、なんだか拍手までもらってしまって、こっ恥かしい。
まるで自分が辻芸人にでもなった気分である。
そしてそのギャラリーの並びから、よく記憶に残る面構えの男がひとり、前へ進み出てくるのだった。
「すごいな、キミにそんな特技があったなんて。サッカーでもやっていたのかい?」
優雅な彫りの深いその顔は、この同じ人種ばかりが集う中にあっては、たいへん人目立ちのする優面であった。そしてなにより印象に残るのは、その瞳の色。いわゆるブルーアイズというやつだ。
はるか北欧にある蒼穹を思わせるようなその瞳が、流暢な日本語でこの俺なんかに話しかけてくる。
「ああ。ま、ガキの頃、な」
俺はそう、声になるべく抑揚をつけないようにして、返事をした。
たしかこいつはクラスメートの一人の、なんだっけか、見た目とは違ってずいぶん古風な日本式の名前の、普段から女どもがキャーキャー騒ぐ印象しか残っていないから、パッとはその名が出てこない。
そうした思考は、この男にもすっかり筒抜けのご様子で、
「おや、ハンチ君、同じクラスメートなのに薄情だなあ。蜷山 慶将だよ。きちんと覚えておいてくれたまえ」
うむ、たしかそんな侍みたいな名前だったと思う。
とはいえ、この男は普段からクラスの庶民出の男など、一瞥する価値もないほどの扱いで、俺の記憶によるところ、入学以来、一度たりとも口を利き合ったことなどないはずだ。
それが今朝に限っては、いやに親し気に話しかけてくる。
これから、嵐でもやってくるのだろうか。
こいつの、「くれたまえ」にはさすがにカチンときたが。
「ああ、そうだったそうだった。グッモーニン、ミスタトクミツ。ナイストゥミーチュ、ハバナイスデーイ」
そして、はよどこかへ行きやがれと手を振って見せても、こいつは眉ひとつすら動かさずに、むしろ喜々としてやがる。
「いいね、僕を堂々と揶揄するなんて。初対面なのに、そんな態度をとる男はキミが初めてだよ」
晴々とした顔をしながら、その初対面を強調するところに、こいつの悪意の底が覗けて見えるようで、むしろありがたいもの。
この男へむけての俺の印象は、どうやら間違っちゃいなかったようだから。
しかしまあ、俺が高校へ通うようになってから、すでにひと月ちょっと経つ。通学路でこいつを見かけたことなどなかったはずなんだが?
そんなことを聞くと、
「ああ、今日はね。ちょっと気分転換に」
「ふうん」
慶将君は気分次第でいつもの道のりを工夫する余裕があるらしい。
なんてことを、もちろん馬鹿正直に信じたりはしない。
まあ金持ちのご子息の考えることはよく分からん。
分かりたくもないが。
しばらくしてバスがやって来ると、並んでいた人たちは開いたドアから順々に乗り込んでゆく。
俺は慶将と親密さをつくろいながらも、嫌味をぶつけてにらみ合っていたせいもあって、ステップへあがるのは一番最後となってしまった。
ところがそのステップの上がり切ったところで、この金髪男は立ち止まっているのだ。俺はこいつの皺のない制服を見上げながら、新手の嫌がらせかと疑った。
ふと上のミラーを見上げると、はよ乗れとばかりに、運転手の厳めしそうな顔を見つけて、あたふた。
「おい、ちかまさっ」
そう声を上げかけたところで、俺の忍耐をはかっていたかのように、すっと前へ移動するのである。へんに面白そうな顔で俺に振り返ってくるのは、なぜなのか―――って、なるほど、俺もその理由はすぐに了解できた。
なんたって、むっちりした太ももがいきなり目の前にあらわれたのだからな。
ちょうどステップの上がり切った正面の座席に、うちの高校には珍しい、やたらと丈の短いスカートの娘が脚を組んで座っていた。
妹と違って、やっぱり脂の乗った女子高生ともなると、その魅力もたいへん違ってくるものだ。
おそらくわざと意地悪く、やってくる男どもに自分の脚をみせつけて、勝利の美酒をひそかに味わっているにちがいない。大人の階段をのぼる途中の、自分の魅力を覚えたての娘なんかには、たまにいやがるのである。
とはいえ、神経のやや太めな俺にとっては、目の保養以外のなにものでもなかった。
しげしげ観察していると、太ももちゃんも気分を害してか、眼をすがめて俺を睨みつけてくる。
―――はいはい、わかりましたよ。
その険しいお顔をかわすように、俺は苦笑を浮かべつつ、後ろの席へ移動した。
すると、空いている隣の席に慶将が尻をあげて移ってくるのである。
「おい、他にも席、空いてんだろうがよ」
俺が文句を言うと、慶将は意外そうな顔を向けてきた。
「おやおや、つれないな。クラスメートだろう?」
会ったことのない親戚と同じくらい疎遠な男に、そんなことを言われちゃっても、説得力なんぞ皆無なのである。
「なあハンチ君、あの大胆な女の子、キミはどう見る?」
「あん?」
言われて俺は目をぱちくりとさせた。
何だろう、この男は。俺なんかと額を寄せ合って、あの太ももちゃんの品評会でもやろうっていうのだろうか?
とはいえ、ここで意固地に無視を決め込んで、この男にガキのように扱われるのも、なんだか癪にさわるので、
「そうだなあ―――」
と、俺はしぶしぶ口を開く。
「―――あの太ましい脚よりも、俺は立派そうな尻の方に興味があるね」
慶将は呆れたような笑いをした。
「そうではなくてね。このバスの路線は、うちの高校以外にも、利用しているところがあるだろう?」
「ん? ああ、そういや学区がいろいろ重なってたなあ」
この高校への入試のさい、スマホで何度も確認していた地図を思い出して、俺もうなずく。
「うちの隣の高校、ちょっとガラの悪い連中が多いことで有名なんだよ。キミは知らないだろうけど」
そんなことを話しているうちに、もう次の停留所でそのガラの悪い高校生らが乗り込んでくる。うちらのブレザーと違ってまっ黒な詰め襟の、それはそれはもう前近代的な学ラン姿の勇ましそうな勇士たちなのであった。
その勇士たちが、やっぱりあの女子の脚にも注目した。
太ももちゃんの方も、最初こそ自分の魅力に満足して、まんざらでもなかったようだけど、男どもはバスが走り出してもなかなか離れようとせず、じつに親しげに、その背もたれに手まで伸ばしてねばってくるので、かなり当惑しているようだった。
「あれはいけないね。あの娘も、裕福なお坊ちゃんと同じ扱いでいたようだけど」
慶将は苦笑した。
そのお坊ちゃまの中に俺が含まれていないのは、まあご存じの通りである。
さて、どうなるのか―――。
しばらく見守っていると、その女子はたまりかねて次の停留所で席を立った。その後ろを、やっぱり詰め襟の集団がついて行く。
ここで降りちまうと、うちの高校まで結構歩くことになるのだが。
「アホかあの女、最悪の判断だな」
「ほら、ハンチ君も降りないでいいのかい?」
俺は小さく舌打ちをした。
「面倒ごとは御免被る」
「これから彼女がどういう目に遭うのか、想像できないキミではなかろう?」
「俺の腕っぷし、どんだけお粗末なのか、おめー知らねーだろ。みんな誤解してるようだけどよ」
「そんなことはどうでもよろしい。僕は、キミの正義感に問いかけてみたのだけれど」
ほんと、いちいち気に障る男なのである。