傀儡たちの狂騒曲 四
七月も夏の盛りになると、陽の光もたいへん眩しいもの。
そんな高一の夏休み前といえば、健康な男子にとって、やっぱり彼女を得たくてしかたのない盛りでもある。
よく漫画などでは、遅刻寸前の道のりなどを食パンを咥えたまま疾走すれば、待ち人来たるの神籤引きを得られるというが、俺もその真似をしたら、たちどころに彼女ができるのではないかしらん――半ばずり落ちかけたベッドの上で、微睡ながらもそんな幻想に浸っていた。
そこへ、妹がフライングボディアタックをかましてくる。
「お兄ちゃん、ホントに遅刻するってば!」
「ぐえっ」
陽葵ちゃんがまだ小学生だったころ、寝坊した俺へ向けてイイ角度で飛び込んで、よく腰のスペアを一本取って悶絶させてくれたものだが、しだいに妹も俺の立派さ偉大さが分かってくると、そのことを大いに尊重し、今ではやさしく腹の上へ飛び込んでくるようになっていた。
それでまあ、今朝も目玉をむき出しにして飛び起きてみると、もう出かける十分前ではございませぬか。
「ぎゃーっ、まじヤベぇじゃん!」
内申点を確実に稼ぐために、もっとも安易かつコスパが良いのが無遅刻無欠席なのである。今朝、夢に見ていた神籤引きに、俺はあやかるつもりなどなかったのだが――。
それでもなんとかバス停にたどり着く。しかし出発時刻には間に合わず、一便乗り遅れてしまった。
停車場所をしめす丸い標識の下には、四角く細かな時刻が記してある。ここは便数が少ないのでハラハラしたが、目を眇めて計算すると、次のバスならまだ間に合いそう。
それで俺は安堵しながら、食パン代わりに家から持ってきた『翼を授けるう』みたいな缶飲料のタブを開けるのだった。
通りの反対側では、中華店の奥さんが如才なく店の奥と入り口を行き来している。店では夏の売り出しの支度をご主人としているようだった。
そんな朝の忙しい様子を眺めながら、俺一人だけがバス停の脇に立って、エナジードリンクをぐいっと飲み干す。
すると、頭にのっていた何かがぽたりと落ちるのである。
足元には、小石が一個、転がっていた。
俺は不審に思って、上空を見上げる。はて、カラスにでも悪戯されたのだろうか。
腑に落ちないまま、原因を探ろうと足任せにあたりをうろうろするも、結局は何も見つからず、やがてバスが到着するのだった。
バスに乗ると、隣の席に腰をおろしてきた同じ制服の女の子――明るい色香と、そして俺の直感にしたがえば、なにか只者ではない感じの尻と嘆じるにふさわしい娘が、短いスカートの脚を組んでニヤリとした。
「ブエンディア」
「なんだって?」
これがまあ、久方ぶりに対面するアリオとの一声であった。
この娘、どっしりとかまえた太腿の貫禄おのずと備わり、またその快活な明るさと派手な雰囲気もあって、生活指導の恰好の標的にでもされているようだと、校内ではもっぱらの噂である。
背後には、アリオを担ぎ上げて風紀開放の音頭を取る、マイノリィティ気取りの生徒会の姿もあったというが。
「そんなモん、ないって。アタシはアタシ」
「あの厳粛な高校の中を、ひとりで闊達自在に動き回れるおまえも、考えてみりゃ大したもんだよな」
俺はそこに笑いを加える。
朝からお色気ギャル嬢と話しができるのは嬉しかったが、しかしながら俺の御目目は放っておくと、固定資産税のかかりそうなでかい尻にばかり向かうものだから、あえて理性からもその話を持ち出さなければならないというのが、少々面倒なところ。
「ところでアリオ、どっから湧いたよ。バスに乗ったとき、いなかったじゃん」
俺は気になったそのことを訊いてみる。
「いたさー。ハンチの目が節穴だったからじゃね?」
「いや、そんなことねえよ」
俺は自信をもって断言した。
なぜならこの俺が、その尻を見逃すことなどあり得ないからである。
「たとえば昨日だと、朝に職員室の後ろの扉から。つぎは二時限目が終わった後の女子トイレの前で。そして放課後は、なんか中庭で陽気に尻振ってたじゃねえかよ」
「べつに陽気に振ってたわけじゃないけど、アンタ、アタシのなんなのサ」
俺の言動が甚だしくよろしくなかったのか、ギャル嬢は不審人物でもみつけたような顔をして潮のごとく引いてゆく。
「たまたま俺の灰色の脳細胞に記録された、おまえの尻の在りかを申し述べただけだっつーの」
それでもアリオは釈然としないようだったが、「アリオが美人だから目立つンだよ」のお世辞をまともに受けて、なにやら可愛く照れていた。
次の停留所で、また乗客が乗り込んできたので、そうした話は、ちょっと途切れる。
ふたたびバスが動き出すと、
「今日、部室に顧問の先生が挨拶に来るんだって?」
とアリオが訊いてきた。
「ああ、今日らしいなあ。おまえもミカンコに来いって言われてんの?」
「うん。誘われてんだけどさあ…」
この女は、なにか逡巡している。
「名簿に名前を載せてんなら、顔見せくらいした方が良くね?」
俺はつとめて、アリオの顔を見ずにそう言ってみせたが、今朝、この女がわざわざ待ち構えていたように俺の目の前に現れたことで、おおよその見当はついている。
それで、ピンクの爪の綺麗に合わさった両手を顔の前にもってきて、さっそくお願いをされてしまった。
「ちょっと、放課後は友達とお稽古事があってさ。今週は、どうしても抜けられないンよ」
「お稽古事? パパ活とかじゃなくて?」
「あほかっ」
こんな要領の良さげな女でも、ちょっと引け目を感じつつ、身動きの取れない状況に陥ることがあるらしい。
「これでもちゃんと、真面目に生きてんのっ!」
「わかった、わかった、あとでミカンコに言っといてやるから」
「えっ、ホント?」
とたん、アリオはぱっと顔を輝かせ、ほがらかな言葉を工夫して甘えてくる。それがまた、いかにもおじさんの好みそうな振る舞いなので、俺の鼻の下も底知れず。
「じゃあさ、次、ハンチがなんか困った事あったら、アタシがお手伝いしてやんよ。アタシにできることだったら、なんだってしてあげるよう」
「マジ!」
いやあ、こいつのお父さんでなくとも、ゆるゆる防御のアリオの将来が心配になってしまうのだ。
そうしたわけで、取り巻きどもの隙をうかがいつつ、午前中になんとかお嬢様へ通達する。
なにか憮然としたお言葉でもあるのかと思いきや、意外にも、朗らかな、しかも嫋々とした声で、「あの方にはその方がよろしいのでございましょう」とのご返事。
ミカンコ嬢の受け答えはいつも柔らかで上品で、そのたびに俺はムーと感心したくなる。
ついで、顧問の先生のことにふれると、またもや心地よい声に含みを持たせて、「綺麗な方ですが、それはまた後でのお楽しみですよ」
よって俺はちむどんどん、放課後になるとさっそく部室へやって来て、扉をノックする。
開けるとお嬢様が立っていた。
その後ろにはやや長身の、たいへん美しいお姉さんがいた――――くせのない黒髪を脇から垂らして綺麗になでつけ、美雪のごとき清潔なブラウスの上には、細い紐の結び玉が、これまた胸に柔らかくとんと乗って、そして両手を重ねて畏まっている姿などは、まことに優艶きわまったとばかりに、俺も二度見をしてけっして忘れないほどであった。
「はじめまして。芹沢里美と申します」
芹沢さんとおっしゃる、その物腰とご挨拶の優雅なることに俺はすっかり肝をつぶしてしまった。
「ハンチさん、彼女は本日から私たち情報分析部の、顧問をしていただくことになりました。つまり、先生ですわね」
ミカンコはその先生の横に、いそいそ近寄って肩を並べると、華奢な首をかたむけて朗らかに笑った。
「よろしいですね、芹沢先生?」
「巫女さんに先生と仰がれるのも、まるで人を他人にしたがるようで、私もちょっと落ち着かないのですけれど」
顧問の先生も、口許をおさえて胸を揺すらせた。
「あ、あの、よろしくお願いします」
とにかく、俺はつっかえながらも頭を下げる。
それで他にも部屋の中を探してみたが、そこの二人の美人さんと、今は俺だけのようだった。
「慶将くんは今、先生のお連れの方と、打ち合わせをしておりますの。荒川さんは、彼女のお兄さんのいる生徒会でお手伝いを、と」
それだけ言うと、ミカンコ嬢は茶器のある奥の戸棚へむかう。
残された芹沢先生は、そのお嬢様を見送っていた。
「いやその、綺麗で若くてびっくりしました」
思わず漏れでた俺の本音に、先生は振り返って可笑しがった。
「あら、お上手。あなたが半田くん――」
曲学阿世の狡猾な徒輩はびこる、あの永田町界隈を起臥してきた人物と聞かされていただけに、俺はほんと、驚かされてしまった。
もしここの制服を着て、道端でなんとなく挨拶をされてしまったら、きっと俺は上級生のひとりだと思って疑わなかっただろう。
それにつけましても、まあなんと、立派なお胸のブラウスでありましょうか。
あまりにも立派なので、今朝のアリオと同様、暖簾と化したブラウスが俺の眼球にへばりついて離れないほどである。
しかし、残念だ。
この俺だって、もうすこし経験を積めば、顔に何重もの仮面を塗布して、お近づきのしるしに今夕お食事でも、では後刻―――などと顔まで貴公子そのものに変えられたかもしれないのに、今の若輩者ごときでは、眼を胸から引きはがすだけで精いっぱい。
「半田くん、ちょっと、その手を拝見させてもらって良いかしら?」
芹沢先生は言う。
本来であれば少しは躊躇したものを、美人の色気とはすごいものである。
素直に差し出された右手を、先生はじっと確かめて、そして納得したようだった。
「詳細は、巫女さんから聞き及んでいるわ。あなたが『希人』さん」
こんな美人のお姉さんに真顔でレアリーメンなどと呼ばれては、どうにも気分が落ち着かない。
「ま、まあ冗談みたいな話ですけどね」
「ふふふ、冗談で済むのだったら、東京であんな騒動にはならなかったのでしょうけど」
ひょっとしたらミカンコ同様、このお姉さんも奇想天外な事象に深く関わりを持つ人物なのではないかしら。
そのことについて、奥からミカンコ嬢が申してくる。
「ハンチさん。彼女は本来、皇宮警察の方で、私が無理を言ってお呼びしたのですよ」
「えっ、警察なんですか?」
「警察といっても、今は宮内庁も併任していますからね。そんなに固くならなくても大丈夫よ」
先生はそう言うが、国家権力の保持者たる身分であると明かされてしまうと、固くなるなという方に無理がある。
そんな俺の態度をみつけて、先生は「ほら」と言わんばかりの眼でミカンコを咎めた。
「いえ、彼にもきちんと知っておいてもらった方が良いのです。余計な猜疑心を持たれたままでは、チームも上手く機能しませんから」
「チーム?」
俺は首をかしげる。
「はい。『希人』という災厄をきちんと回避するまでは、きっとまた幾つもの騒動が持ち上がることでしょう。でしたらその後始末をするのに、あらかじめ国の方を交えておいたほうが、都合がよいというものですから」
確かに、今週の怪獣を倒してハイ終わり、というわけにはいかないのだろう。先の久場と同様、その片付けも、誰かがきっちり行わなければならないのだから。
「そうしたご予算は、国にいかほどあるのでしょう?」
ミカンコは先生に尋ねる。
「予算なら、今は公益事業向けのゼロ国債をいくらでも利用できますから、心配ご無用よ。むしろそれで景気と支持が少しでも上向けば、次の選挙が迫っている与党の議員さんたちも喜ぶのでしょうし」
ゼロ国債とは、次の年度に国債を必ず発行するという約束を担保とし、それを元に事業を展開するもので、いわば飲み屋のツケみたいなものである。
「ハンチさん、もちろん、ただの公務員にそんな権限などありやしませんが、なにせこの女史ですからね。なかなかに波乱万丈の経歴をお持ちですのよ。かつては―――」
かつては、防衛省の日本版スプリクト・シティともよばれ、今でも市ヶ谷に本部を置く情報収集機関に彼女は在籍していた。
それからさる事情もあって、公安部の別室へ。貴賓のように迎えられて華やかだったけれども、いくつかのコネクションを断たれた途端、慶賀という意味の簡単な辞令のみで、皇宮警察へ異動となった。
「つまり島流しにあって、中央から排除されてしまいましたの。皇宮警察はいわば避難所ですね。それ以上手を出そうものなら――」
なにせ神様が目を光らせておりますし――と、お嬢様は口元を隠して典雅に笑った。
「神様?」
俺がぽかんとして問うと、先生はさも可笑しげに言う。
「その呼び方も、まあ方便みたいなものよ。それよりも巫女さん、こうあまり贔屓にされてしまうと、私も後々のことが心配なのだけど」
「あら、鷺ノ宮家が、貴女を贔屓にしてただ後援する分には、天下に恥じることなどありはしません。ご迷惑でも、お節介をしますから、今後ともそのおつもりで…」
こんな高嶺の美人二人に、重ねてしゃべりまくられては、俺もそれこそ圧倒される形で、居場所がない。
そういえば鷺ノ宮家も、公方に誼があると言っていた気がする。まあなんだか俺ごときが、あまり深入りしてはいけない話のようでもあるが。
「ところで、半田くんのその右手。かえって騒ぎになるのなら、むしろ弄らない方が良いのではなくて?」
それも俺のかねてからの考えであったが、返答はすでにミカンコ嬢から頂戴している。
「その封印は、当時、曾祖母たち大勢が施した呪いが、今も辛うじて機能しているに過ぎませんの。ちょっとしたことで、今日や明日にも解けてしまうやもしれません」
「ふうん。なら、同じことはできないの? 私の知り合いにも、そこそこ腕の立つ法師がいるわよ?」
「先生、残念ながら、呪術のスクリプトは各々の血統にしたがって独特なものでして、そうでなければ、流派がいろいろあったりしませんでしょう?」
外ではたいへんなご経歴をお持ちのようでも、お嬢様は気やすく先生と呼びかけていた。校内に一歩入るとそれが自然だとおっしゃられるミカンコ嬢の前では、芹沢女史も形無しのようである。
「いつも気力にあふれて仕事をなされる先生は、いつまでもお変わりありませんのね。お写真にあったころと同じですよ」
「それは、まだ半田くんの前ではやめてちょうだい。きっと彼、びっくりするでしょうから」
そして先生は、皇宮警察のトリビアのいくつかを雄弁に語って、この場をけむに巻くのである。
顧問の先生の顔見せはこんな感じで、それから間もなくして、夏休みに入る――。
永田町に現れたあの傀儡を駆除するために、これからお嬢様は何かとくべつな支度をするのだという。