傀儡たちの狂騒曲 一
三日ほど続いたテストも、たった今、無事に終わった。
とにかく自立して働くようになるまでは、こうしたテストばかりをたくさん熟さねばならない生活を思うと、やや憂鬱に思われたが、どうせ俺は目の前にあるものに全力を出し切るしかない人間なのだから、考えると学校なんてそれだけのものである。
帰りのHRも終わり、俺はあれこれ思い悩むのを放棄して、さっさと家へ帰ることにした。
けれども珍しく、廊下でお嬢様が直に声をかけてくる。
いつもであれば間に通達者を置くか、あるいは口を利き合うにしてもあまり人目の届かない場所を選んでくるはずが、鞄を手にする生徒たちの往来のど真ん中で、この俺にはっきり呼びかけてくる。
俺の腕を掴み上げると、顔をまっすぐ向けたまま、ずんずんと脇目も振らずに歩きだすのだった。
「おいおい、なんなんだよ、いきなり」
それまで黙々としていたミカンコが口を開いた。
「私もそっと、こっそりお呼びしようとしたのですが、ハンチさん、急いで帰ろうとするんですもの」
「そりゃあテストも終われば、誰だって羽を伸ばしたくもなンだろ」
「あら、どこかへ、お出かけだったのですか?」
ミカンコは意外そうな顔で振り返ってくる。
白磁器を思わせるような白い頬のその丸みが、たいへん綺麗だったものだから、俺はつい見惚れてしまって、やや言葉が遅れた。
「ハンチさん?」
「あ、その、もう夕飯に呼ばれるまでは、家で寝倒してやろうとだな」
皆も経験があると思うが、テスト前はたいてい、徹夜まがいのことをして暗記物をむりやり詰め込むために、終わればこの通り、睡魔がどっと押し寄せてきて堪らない。
「それなら、羽を休めると仰った方が―――」
そう言うとミカンコは、その肌の白さに比して鮮やかな色彩の唇を、手でそっと隠した。
「――ホホ、ごめんなさい、ひとりで笑ったりして」
「いやまあ、べつにかまわねぇけどよ」
最初こそ、また飛鳥の変装かと疑っていたけれど、力の出せないあいつは今、凡人と変わりないはずだし、やっぱり本物はずいぶんと趣が違うものだなあと感心させられた。
「なんだ? あの砲撃のことで、なんか分かったのか?」
先般の騒動のことを久方ぶりに思い出して、俺は訊く。
「それに関連することかもしれませんが、ハンチさん、しばらくテレビやインターネットなどは、ご覧になっていらっしゃらなかったのかしら?」
「ああん?」
たしかにミカンコ嬢のおっしゃる通り、俺はテスト前になると、外部の情報をなるべく絶つようにしている。気が散って勉強に集中できないからである。
職員室を過ぎた先の渡り廊下から、旧校舎の入口へ――簀子の上を女子生徒が二、三人、いちはやくミカンコ嬢をみつけてお辞儀をしてきた。
すぐ後ろにいる俺なんぞはもう下男扱いで、ちいさく「おめでとう」と、わけの分らんことを申してくすくす笑う。失礼なことに、ご令嬢の後ろを一緒について歩くのが、この俺の名誉だとでも思っているらしかった。
部室に到着すると、珍しく慶将がいた。
「やあ、来たね」
その爽やかな微笑み、この男にとっては月並みであろうが、俺が鏡に向けて同じようなことをしてみせても、どうにも叶わない種類のものである。
「来たっつーか、捕まったんだよ」
いまだ掴んで離さないミカンコの御手ごと、俺は腕を持ち上げてみせた。
「今回ばかりはキミにも、きちんと釈明してもらわなければならないからね。すぐに帰ってもらっては困るんだよ」
「なななな、なんの話だよ」
ちょっとこう上目遣いにじろりと見てくる慶将の態度が恐ろしくて、つい眼をそむけてしまったが、釈明などというおそロシア的な響き、いったい何に向けてのことなのか。
「心当たり、あるのかい?」
「心当たりも何も…」
そりゃあもう、前回の事も含めまして整理券すらまったく追っつかないほどにございますよ。
「フフ、なんだか分かってないようだけど」
そう言うと慶将は、黒い机の上に置かれてあるPCのディスプレーを返して、俺の方へ向けてくる。
「つい先日、永田町で官房長官のぶら下がり取材の際に起ったアクシデントを、たまたま映像に撮っていた記者がいてね」
「は、なんだって?」
その画面には、通路で足を止めた初老の男性へ向け、いくつもの録音機材を差し出す大人たちの映像が映し出されていた。
これも報道番組などではよく見かけられる光景であったが、こんなお畏れた現場なんぞとこの俺に、いったいどんな関係があるというのか。
「まあちょっと見ていてくれたまえ」
不審がる俺に向け、慶将は苦笑した。
アプリの枠の中には副長官らを左右に従え、記者の視線を浴びながらもひとり問答に応える官房長官の姿が地味にあった。こうした政治の話も一般教養として、俺も入試の際の面接ではたいへん苦労させられたものだけど、もう入学さえしてしまえばこちらのもの。今の俺に見る価値があるとは到底思えない。
俺は眠気を堪えきれず、大あくびをかます。
しかしながら、記者のひとりが何かに気づいて振り向いたあたりから、状況は一変してくる。
記者一同、足音さえ憚られるような長官のありがた~い御言葉を給わっているさなか、ディスプレーの貧相なスピーカーから、妙な前口上が聞こえてきた。
天よ…、地――
それでもまだほとんどの記者たちは腰をかがめたまま、長官の唇の動きにだけご執心である。ところがその長官が、脇に挟んだ封筒をばさりと落として、呆然とその人物を見るに至り、周囲の皆もようやく気づくのだった。
そして、テイク・ツー。
『天呼ぶ、地呼ぶ、記者が呼ぶっ。与党を倒せと、俺を呼ぶ!』
いちど画面が撮影者の足元を映し、そしてまた大きく上へ振り向けられたのは、ご本人もひどく驚いていたからにちがいない。
フロアの奥の階段の上り端、許可を貰った記者たちでさえ臆しながら進むところに、奇妙なバトルスーツを着た人物がポーズをつけて立っていた。
そして皆の視線を集めるようになると、何かの演武のようなものを披露しだす。それがまた実に切れの良い凝ったものでもあったから、警備員の人たちもなかなか止めさせることができずにいたようだ。
なにかごつごつと昆虫みたいな仮面の人物は、踊りがやっとすんだら、ようやく自己紹介をした。
『正義のヒーロー、ユゥエス・エィドゥメン、ただいま参上!』
「なんじゃこりは!」
ごつんと派手にぶつかる音がした。
俺が思わず前のめりになりかけたところで、この上体を支えていた腕がなにかの拍子に滑ってしまい、大卓に顎をひどく打ち付ける。それがまた実に大きな響を立てたものだから、お嬢様をびっくりさせてしまった。
「な、なんなんだよ、これは」
「だから、正義のヒーロー、USAIDマンなのだろう」
慶将は、この俺の顎を痛々し気に見つめながら、返答した。
「っ痛う―――そうじゃなくて」
そして俺の目は、画面の自称ヒーローと慶将の顔のあいだを何往復かしたのち、ようやく言葉を絞り出す。
「なんでこのイカレたのが、俺と関係あんだ?」
「ええっ、違うのかい?」
慶将は、芝居がかった仕草で驚いてみせる。
「あんな奇天烈で、恥ずかしい前口上を延々とポーズまで決めて言い放てるだなんて、僕の知る限り、キミ以外にいないと思うんだが」
いやいるだろう、この画面の中にさ。
「つか、この変態野郎をなんで俺だと、てめぇは思うわけ?」
「そりゃあ―――」
まあ確かに、魑魅魍魎どもを引き連れている、自分でも何ができるのか分らん希人さまなんだし、そのことについて否定はしませんよ。だからといって、なんで俺がわざわざコスプレ姿で東京の永田町まで出向かにゃならんのよ。
「つまり、あれはキミではないと?」
「たりめーだっっ!」
こいつと話していると、なんだか酸素が足りなくて息苦しい。
「では聞くがハンチ君、この映像が撮られた十日ほど前の午後四時頃に、キミはどこで何をしていたのか、明確に答えられるのかい?」
慶将はそんなことを言うのである。十日前とは―――俺は酸素欠乏症ぎみの脳みそをぐるんぐるんとかき回して、思い出す。そうそう、あのときは久場のヤツと一戦やらかして、裏の駐車場を滅茶苦茶にしていたハズである。
「――ってか、テメーも一緒にいたじゃねぇか」
「ふむ、ならばそのときの影響もあるのかな。いかがです、ミカンコさん」
慶将の視線の先には、俺の右手を取って真剣そうに腰をかがめているミカンコ嬢の姿があった。
そのお嬢様が、黒髪の一筋すら揺らさずにじっとして言うのである。
「なにか、莫大な力を往なしたために、呪法の幾つかを解繊した痕跡がうかがえます」
このお嬢様なりにだいぶ砕けた感じで教えてくれたが、まだちょっと堅苦しい。
「それって、魔法だか呪文だかを組み換えたらしいってこと?」
俺は幾分、声にゆとりを持ってそう解した。
「なんだ、ハンチ君も分かっているじゃないか」
「茶化すなよ」
そう言って、かるく慶将を睨める。
「希人と接触すれば、狗の能力が開花する。今回はそれが鬼どころか、魔人とも呼べるほどの狗だったから、何かキミの右腕の封印に、オーバーカレントでも起きたのもしれないね」
「オーバーカレント? ああ、過電流のことか」
そういえば飛鳥も言っていた、この右腕の封印は、まだ完全に解かれたわけでもないらしいと。
「じゃあなんだ、画面の中の変態も、実はかくれた野良の狗とやらで、過電流の影響で相即でもしちまったとか?」
「戒めの解かれた狗が本気で大暴れしたら、この程度で済むはずもないさ」
画面の中では『トゥ!』という掛け声とともに、官房長官のはるか上空を通過してゆくヒーローの姿があった。
俺はそれを黙って視聴したのち、呆れ顔で言う。
「で、こいつ、結局どうなったのさ?」
「ああ、官房長官にとび蹴りを喰らわせようとして、勢い余って硝子窓を突き破り、外の駐車場へ落下した。そのあと、警備員たちに拘束されたようだが、すぐさま腕力で振り解いてそのまま逃走。今も警視庁の皆さま方が誠意捜索中、だそうだよ」
「そりゃあまた…」
お巡りさんたちも大変だ。
「けれども、今回ばかりは僕たちの思っているような狗とは、また違うようなんだ」
慶将とミカンコ、ふたりは黙り込むと、俺の顔をじっと見つめてくる。
俺はなにかを問い返そうとして、にわかにその言葉が作れないでいた。
お嬢様はぽつりと呟く。
「傀儡、でしょうか」
「おそらく、そうでしょうね」
慶将も、ミカンコに倣って頷いていた。
「僕の見立てでも、この彼は政治にまったくの無頓着なようですし、そもそも、自由奔放であるはずの狗たちが、思想を抱いて自ら政に関わることなど、ありえない話ですからね」
政治に無頓着などと言われると、理念のないアホのように扱われているようで、心中穏やかではなかったが、今回ばかりは興味の方が先に立つ。
「おいおい、傀儡って、何?」
俺はふたりの間に割って入るような語気で問う。
「傀儡というのは、法師の作った道具のことさ。御呪印をもとに機能する点においては、呪符も傀儡もまったく同じものだよ。ただ、目的を持って作り上げられた呪符とちがって、騒ぎを起こしたあの傀儡は、偶然にも傀儡の呈を成してしまった自然物、とでも考えた方が良さそうなんだ」
よく分らんが、とにかく、それがこの俺と何の関わりがあるというのか。
「関わり? それはもちろんあるさ。なんたってそこに命を吹き込めるのは、希人であるキミ以外にあり得ないからね」
まあ確かに、希人というのは、そうした怪しげな物の電池だというのだからなあ。