邂逅するのは、突然に 二
それで、「どこか話のできる場所を―――」何かこう言いながら、俺に向かって一歩踏み出してくる。
いったいこのお嬢様が何を話しだすのか不明だが、とりあえずその辺のベンチなどを目で探していると、ミカンコ嬢はすぐさま近寄ってきて、とがめるような口調で言うのだった。
「あなた、まさか私たちを誘うのに、道端などで済ませるおつもりなのですか?」
うっと、思わず言葉がつまった。
勉強漬けのつまらん生活の中で、同世代の女子たちとはほとんど接点を持たなかっただけに、当然、この俺がエスコートなどという高尚な言葉なんぞを思いつくはずもなし。
そんな清楚な装いでキレイな言葉遣いで、それでいて大人たちの持つようなきりりとした態度で視界いっぱいに迫られてしまっては、喉の奥がつまったように言葉が続かなかった。
けれども最初こそ、俺はこの女の勢いにひどく気圧されていたものの、自分のポッケにしまいこんである、雀の涙ほどの小遣いのことを思いだすと、そこでようやく、まっとうな常識に則った、反論らしいものを思いつくのである。
「いやいやちょっと待て。なんで迷惑を被った俺の方から、おまえたちを接待しなくちゃいけねえんだ?」
こうずけずけと、金持ちの美人に向けてあっさり言える口調は、やっぱり庶民出の性分ゆえなのか。
とにかくこう言えてしまうと、俺はなんだか落ち着いてきた。
このお嬢様は男から拒否られることなど、まったく考慮に入れていなかったのか、しばらくはぽかんとした態度で俺を見まわしていたようだけど、
「まあ、あなた、ひょっとして、お手持ちがまったくないのですか?」
マジの助にそんなことを言いやがるのだ。
「うっわ、なんて―――」
なんて失礼なやつ――――どんな美人といえども、やっぱりこいつとは、なにかもう根っこのところから相容れないものがあるらしい。
後ろに控えていた荒川ちゃんが、猫みたいなまあるい眼に、ふっと、おかしさの笑みを湛えて、
「あの、鷺ノ宮さん。男子といえども、まだ私たちと同じ、未成年なのですから」
と、取りなすような口調で言った。
それでミカンコも今気づいたように、
「あら、そうですわね。そういえば私も、今はそれほど手持ちがあるわけでもございませんし―――」
そう、しおらしく同意するまではよかったが、
「――――でも、このあたりのお店でカードを使ってしまったら、明細を見せられたとき、きっと私、恥ずかしいと思いますわ」
そんなことを、鮮やかに言ってのけるのである。
まあ俺も、そのときの感じをあまり露骨に顔に出さずにすんでいたけれど、お嬢様は「冗談です」とひとこと申してから、なにか思いついたことでもあったらしい。
清潔に整えられた黒髪の上に、ぱっと豆電球のようなものを灯らせると、白魚みたいな手指を差し向けてきた。
「では、ハンチさん。お手を―――」
それで俺もついつい、ワンちゃんのように「お手」をしてしまったが、その手をただちにパチンと打ち叩いてくる。
「いてっ、なに?」
「違います。そちらの右手の方ですわ」
キレイな眉を八の字にして、そんなことを仰るのだ。
それで、俺もはっと我に返った。
どうやらお嬢様は、この天然記念物にも匹敵するような、手相のない珍しい右手をご所望らしい。
俺の感情のベクトルは、ただちにより不快な方へと傾斜してゆく。
ところが、ミカンコ嬢の視線は俺の不機嫌そうな顔をバーコードのように読み取ると、
「あらあら、何を誤解していらっしゃるのですか。私はただ、今のこの問題を、あなたのその珍しい手で解決してあげようと申し出ているのですよ?」
そんなことを、自信たっぷりに言うのである。
「は?」
俺はわけもわからず、この美人の顔をぼんやり眺めた。
「どうぞお任せくださいな、ハンチさん。これこそが鷺ノ宮家の本領ですから、まずは荒川さんに叩かれましたその頬を、私に少し、見せてください」
彼女は続けてそう言うと、きれいな横顔を寄せてきた。
それで思わずうろたえてしまったが、美人というものはたいへん良い匂いを天然に発するものらしく、なんだか陶然としてしまう。
「すこし、じっとしていてくださいまし――――まあっ、これでは、さぞ痛んだことでしょうね」
ミカンコは息も触れ合うほどに顔を近づけて、その所見などを述べていた。
さきほど学校のトイレで確認したところ、まだうっすら手形らしい赤味が残っていたので、これをまた家へ持ち帰って妹にでも見られたら、さてもどう言い訳を繕いましょうかと、俺も悩んでいたところである。
「私も自分のお肌のことは、それはそれはずいぶん気をつけているものですが、男の方はどうなのでしょう? そうですわね、慰謝の気持ちも含めまして、私たち未成年の相場では、一万円、といったところが妥当なのでしょうか?」
「え、一万も?」
そうびっくりして声を上げたのは、なにも俺ばかりではないようで、向こうでは荒川ちゃんが目を丸くしていた。
「いやいや、金なんていらねって」
この程度のことで、一万円って。
いくらなんでも、金銭感覚がおかしいだろ。
資産家の娘に素の顔で一万円あげると言われては、さすがに俺もちょっとばかりときめいてしまったが、一万といえば高校生にとって大金である。当の荒川ちゃんですら、ひどく困惑しているではありませんか。
というわけで、後ろ髪をひかれながらも、俺はきっぱり辞退申し上げることにした。
ところが、
「いやですわ。お金を出すのはハンチさんなのですけれど」
「は、なんでよ?」
さすがに、眼を剥いて文句を言わざるをえない。
「ですから、お手をお出しください。今からそこに、おまじないをしてさしあげます」
気づけばやたらと太い筆を手に持って、俺にその毛筆を向けてくる。どこかに隠し持っていたとしても、不自然なほどに大きな筆だった。
「おい、そんなでっけぇもん、どっから取り出したんだ?」
「ハンチさん、ほら、はやく右手を出してくださいな」
「いやいや、ちっと待てよ・・・・・・」
よく見ると筆の竹軸には、なにかこう、とても読めないような崩した文字がたくさん記されてあって、その鋒の形、根は太くこんもり膨らんで先はぴんとはねている。そしてまた、布糊すら落としていないような清々しい白さは、アルプスの雪山の峰のように眩しくて、ミカンコはいかにも実用的でないそのヘンテコな筆を持ちだして、俺が手を出すのをじっと待っているのであった。
まあよくは分からんが、この時の俺はやっぱり好奇心の方が勝っていたのだろう。ましてや相手は美人である。ついついうっかり、こののっぺらな右の手のひらを差し出してしまったとしても、いったい誰が責められようか。
「少し、動かないでくださいましね」
そう言うと、ミカンコは真剣な顔つきになって、俺のまっさらな手のひらの上へ、その大砲のような筆をほぼ垂直にもってくる。この白昼の往来のもと、持ち合わせの硯すらない中で、この女はいったい何をしようというのか。
ところが、白い筆先が俺の手のひらにちょこんと触れると、そこから小さく波紋のようなものが拡がってゆくのだ。
「おお・・・」
俺の口から、おもわず驚嘆の吐息がもれた。
俺はそのなにか、思いもよらない神秘的な現象を、驚き見守っていた。
それは、ともかくも大正時代、かの太政官より「インキ使用禁止ノ廃止」などという御触れがなされて以降、洋式帳簿などではペンばかりが使われるようになってから、この古めかしい筆記具は、書道などでしかすっかり御目にかかれなくなってしまったもの。
それが、ここではまるで最新のモバイル機器の有機EL画面のように、俺の手のひらの上に鮮やかな光の波紋を拡げているのである。
その魔法のような現象を、この近代的な頼りない頭でこなすしかない悲壮さ。俺がしばらく頭を真っ白にして見入ってしまったのも、無理ないことなのだろう。
そして俺は、幻聴ではなく、このとき、たしかに頭上に迫る大きな爆音をいくつも聞いた気がするのである。
しかして空を仰げども、はるばると遠く幽かに灰色の虚空が拡がってゆくだけ。それを呆けたように見上げつつ――――灰色? なんだろう、太陽を仰ぎすぎて眼でもちがったのかしら。
そう思って視線を落して、ミカンコの姿にびっくりする。
今までは清楚な紺の制服で着飾っていたはずなのに、いつのまにやら真白いセーラーの上着に取って代わって、下は暗い色のズボンにズック靴。折り目のぴんとしたところなどは、かつて記録映画で見た昭和初期の女学生そのものの姿のようで、彼女はその時代のお嬢様になりきっているのだった。
・・・・・・え、え?
俺はひどくうろたえて、両眼をぱちくりさせた。
しかし何度見直してみても、目の前にいるミカンコはセーラー姿のまま、この白黒の世界の街並みにぽつんと立っているのである。
ひょっとして、俺の眼が狂っちまったのだろうか。
それに、いきなり色覚異常?
しかし、それにしてはいやに奇妙な光景だ。
俺たちだけは、確かにフルカラーでこの世界に存在しているのだから。
ただのお嬢様の道楽とでも思って、すけべえ心の赴くままに右手を差し出してみたものの――――なぜこの世界は、こうも不自然に色彩が失われているのだろう。
やがて、その色の欠落した空から一条の光が地にとどく。そこでは分厚い雲がぱっくりと裂け、澄んだ青い空がのぞき始めていた。
「―――より、再び此岸に降りたもう」
空を見上げる俺のもとで、抑揚の含まれない声がした。
その言葉の意味を問おうにも、俺の舌は干からびたように固くなって、生唾すら飲み込めやしない。
遥か上空の割れ目からは、まるで黄金の洪水に明けゆくような強烈な光が降り注ぎ、雲は破れて湧き立っていた。
その光の色が、そして灰色の建物が、色とりどりに目まぐるしく変化して、この奇怪な光景のもとに描かれた街の模様を、なんども塗り替えてゆくのである。
その激しい光のチカチカした明暗について行けず、俺は眼が回ってわなわなと、なにかに縋るものを求め、両腕を前へ突き出した。
その腕は、思いもよらずミカンコ嬢をとらえていた。そしてぐっと引き寄せると、艶冶な腰の曲線がすぐそこにやってくる。
思わずはっと、俺の息の根まで止まってしまった。
いや本当に止まったら大変なんだけど、まあそのくらい、俺が抱きとめていた彼女の肢体のなにもかもが、完璧すぎて言葉がなかった。
そんな俺さまの脳天へ、ただちに巨大な筆の柄が振るわれる。
「煩悩、退散!」
そして、世界は暗転した。
「あっ」と、遠くから荒川ちゃんの声がした。
今までミカンコの腰をとらえていた、そう思っていた両腕はなにか大きなものに弾かれて、目を開けると、俺は歩道の上にひっくり返っている。
そして路面をこするタイヤの音とともに、一台の車が停車した。
そこから慌ただしく背広姿の中年の男性が降りてくると、俺の頭のすぐ横に膝をつけ、ひどく心配そうにこの顔を覗いてくる。
「キミ、大丈夫か?」
「え、ええ、大丈夫です」
俺は自分でも意外と思うほどに、あっさり言葉が出てきた。
そしてすぐさま上体を起こした。
先ほどまであれほど固くなっていた舌の根も、今は滑らかに動いて、俺をびっくりさせていた。
と同時に、周囲がいつもの情景に戻っていることにも気がついた。
「ほんとうに? 怪我してないかい」
「ええ、ほんとに、なんともないですよ」
俺の返事を聞いたその人は、ほっと安堵をした。
どうやら俺のふらふらした手が、この人の運転する車に当たってしまい、倒れてしまったようだった。
「しかし万が一ということもある。ちょっとキミ、そのまま待っていてくれたまえ」
真面目そうなその人は、すぐさま救急を呼ぼうとスマホを取り出していたが、さすがにそれには及ばない。頭でも打っていたのならまだしも、この通り、俺は怪我もなくぴんぴんしているのだから。
それに、なんたって発端は、あの妙な呪いだか呪いだかを道端でやらかしてくれたミカンコ嬢にあるのだろうし、まったく、学校の帰り道で、こんな当たり屋まがいのことをして警察沙汰になってしまうのは、真っ平ごめんというものだ。
そんなことをこちらから申し出ると、その男の人はひどく恐縮したように深々と頭を下げてきて、自分の会社や家族のことを事細かに言う。
それから牛革の財布を懐から取り出してくると、これらのお詫びとして、しゃがみこんだままの俺の手に何枚かの紙幣を握らせるのだ。
すぐ目の前で繰り広げられている男の人の喜怒哀楽の表情を、俺はぽかんとした顔で眺め見ていたけれど、
「さ、さんまんえんも!」
この手が握るお札を見つけて、声が裏返ってしまった。
「いや、かまわないよ、遠慮なく受け取ってほしい。君が無事なら、それはお互い良いことなのだから」
男の人はそう言うと、まるで逃げるように、と言ったら語弊があるかもしれないが、俺の気が変わらないうちに、さっさと車に乗り込むのである。
俺は尻の埃を手でうち払いながら、その車が過ぎ去ってゆくのを呆然と見送っていた。
なんだろう、ミカンコに手を差し出してしまってから、ずいぶんと沢山のことが連続して起こった気がする。あの灰色の情景に引き込まれて――――あれは、ほんとうにあった出来事なのだろうか、今ではそのことすら怪しい。
ともかくも救急車へ乗り込む冒険だけは辞退したが、それで、俺の手には三枚もの渋沢殿が握られているのである。
「おお・・・」
それは、当然だがきちんと透かしのある日本銀行券であった。ガキの頃より夢に見るほどまで欲しがった、あの、ヌンテンドーの購入資金を、俺はようやく手中に収めることができたわけだ。
―――じゃなくて。
その一万円札の透かしの向こうに、お嬢様がにこにこして立っている。
「三万円とは、私も意外でしたけれど、それが本日のあなたの運命なのでしょう。これで私たちを案内していただけますわね」
そう、まさしくそれだ。
俺は魔法だの呪いだのを一切信じちゃこなかったが、このミカンコ嬢は、どうやらマジもんでヤバイやつらしいのだ。
俺にはこの女が、この世界に隠れ住む、とてつもない力を持った魔女のようにも思われてきた。
「ほ、本物の、呪いなのか?」
「もちろんです。あなたにも十分に、ご堪能していただけましたかしら。なら、私も嬉しいですわ」
俺は生まれてこの方、こんなに驚かされたことはなかった。それで彼女たちを落ち着いた感じの店に案内するあいだも、その振る舞いが卑屈にならないように注意しながら、ミカンコに様々な質問を投げかける。
あまりうまく舌の回らない俺の話術ごときでは、さして詳しく聞き出せることもできなかったけれど、そうしたことは鷺ノ宮家のルーツにまで遡る、たいへん長い話となるらしい。
隣では、事情をあまりよく呑み込めない荒川ちゃんが、終始無言で俺たちを眺めていた。ただで高級そうなケーキを頂けるのは、たいへん嬉しいようだった。
やっぱりあの奇妙な灰色の情景を覗けたのは、当事者であるこの俺と、ミカンコだけのようなのである。