塞翁の狗 二
体育館裏、焼却炉――――。
紙片にはそうと書かれているだけで、日付もなにもなかったけれど、あの面倒な渡し方からして、なにか俺だけに話したいことがあるらしい。
だからちょっと身構えていたものの、午前は美術の授業が押しまくってくれたので、昼は皆、飯を口の中に入れるだけで精一杯。なにより久場ご本人も大人しく教室にいたものだから、あれが昼休みの呼び出しというわけではなさそうだ。
となれば、その呼び出しは放課後のはず。
「なあ慶将。なんでおまえもついて来んの?」
「うん? たまたま目的の場所と方角が、キミの歩みと一致しただけではないのかな」
「嘘つけ。つか、顔近い、もっと離れろ」
このところ、慶将は騒がしい女子たちと距離を置きたいときなど、よく俺の名を口にすることがあった。この俺になにか用事があると言えば、たいていの女子は離れてゆくというのである。
まことに失礼極まりないが、こいつは俺の評判を利用していることがままあった。
「どうかしたかい?」慶将が訊いてくる。
「なにが?」
「いや、なんだか盛大にため息をついていたようだからね」
それで今度は意識してため息をついてみせた。「――はぁ。俺は穏やかで迷惑な放課後のひとときを楽しんでいるだけサ」
慶将はにやりとした。
「そんなにいじけなくても大丈夫だよ、今回はキミを虫よけ代わりに使ったりはしないから。なにせ、ミカンコさんの勅命を受けているからね」
「やっぱり、そっちか」
ほんと、奇想天外どころの話ではない。うちのクラス、マジで二匹めのドジョウらしいのだ。
「じゃあなに、久場もアレなわけ?」
「アレとは?」
また堂々と惚けてくれやがる。
「てめぇらが狗だとかぬかす、アレのことだよっ」
「ああっ」
慶将は今気づいたようにポンと手を叩くと、わざとらしく渋面を作った。
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないね」
「そうだったら、またポ〇モンゲットするわけか」
あの奇妙な文字の描かれた紙片を、今回もその懐に忍ばせているにちがいない。
「でもよ、希人の、というか桃太郎のお供みてーなもんなら、クラスメートなんだし、話し合いでなんとかならねえ?」
「話し合いで片付くなら、それに越したことはないさ」
慶将も同意する。
「なら、悪霊退散、みてぇなことしなくてもよ」
「退散ではなく、調伏だよ。けれども彼が無害であるのか、まだ未確定でね。もし本性を現したらどうなるか、ハンチ君も、そのことについて少しでも疑いを持ったことはないのかい?」
俺はぽかんとして、歩みを止めた。
慶将が、声を立てて笑ってくる。
「つまりハンチ君は、そんなことも考慮せずにいたと?」
「うるせえよっ」
まったく知らない頃よりも、すこしは理解していたつもりだが、慶将にそう指摘されると、なにも言い返せない。
「今、僕たちがするべきことは、一見平凡そうな彼が、超常的な力を隠し持っているという事実を暴きたてることなんだよ。そのあと、調伏するかしないかは、彼の行動次第ってことになるね」
「ふうん」
暴いてみたところで、すぐさま起き上がり、仲間になりたそうな顔で見てくるわけでもないらしい。
「なら、キビダンゴでもくれてやれば、よくね?」
「それでうっかり敵になってしまったら、大変だよ」
「前にも言ってたけど、その敵って、何なのよ」
そう訊く俺に、慶将は目を細めて微笑んだ。
「桃太郎の敵といえば、もちろん決まっているだろう?」
途中、藤の棚から垂れこぼれる陽を、俺は眩しそうに仰ぎ見た。
その下には、今を盛りと赤やピンクのツツジが咲き乱れ、蜜を求めにやってきた蜂の羽音なども聞こえてくる。
微睡みすら覚えるような、そんな午後のひとときに、鬼の存在なんかを明かされちゃってもなあ。
「それはつまり、桃太郎に必要なお供が湧くように、もれなく鬼もついてくるってこと?」
「鬼どころか、そうした狗は基礎能力が高いから、魔人と呼び称されることの方が多いらしいよ」
「マジかよ。ミカンコがそう言ってたの?」
あのお嬢様がそこまで警戒するのなら、かなりヤバい相手になるのだろう。
そこへ、スピーカーを通して慶将を呼ぶアナウンスが聞こえてくる。
一年二組の蜷山くん、一年二組の蜷山くん、ご家族の方が参られております。おりましたら、玄関入り口受付まで来てください。くり返します―――
お互い、顔を見合わせる。
「まったく、間が悪いな。これからってときなのに」
慶将はかるくため息をついて、その長い金髪を梳きあげた。
「おら、行って来いよ」
家族というのなら仕方ない。俺は顎をしゃくって促した。
「なるべく手短に済ませてくるから、しばらく待っていてくれたまえ。くれぐれも、単独行動は避けること。いいね?」
まるで生徒会長にでもなったような慶将の口ぶりである。
「そもそも、俺は関わりたくすらねぇんですけど」
「まあまあ、これもミカンコさんのためと思えば」
「ちっ、仕方ねえな」
今更どうしようもないといえば、そうなのかもしれないが、恩義てんこ盛りのお嬢様の名を出すのは反則である。
「わが身の不幸をあれこれ思い悩むよりは、いくぶん生産的だろう?」
慶将は足取りをゆるめて、引き返していった。
前回は、病院へかつぎこまれて両親をずいぶん心配させていたようだから、あいつもきっと、頭が上がらなくて参っているのだろう。
俺は近くの校舎の扉前に段差を見つけて、そこに座り込む。
放課後は、家へ帰ることくらいしかやることがないので、せめて自分の制服のほこりでも掃おうと、百均のブラシを取り出した。
まあなんとも可愛らしいピンクのブラシであったが、こんなものでも、入学祝と称しあの妹がくれたものだから、大事にしてやらねばならないのだろう。
プラの安っぽいそれを俺がしげしげ眺めていると、いきなり、後ろからドーンと突き飛ばされる。
「あうっ!」
手から離れたブラシを宙で華麗にキャッチして、受け身をとる。そうして傷だらけの難をあやうく逃れたが、振り返るとミカンコが非常扉からひょっこり顔を出していた。
こんなところに人がいるとは思っていなかったらしく、ひどく驚いているご様子だ。
「あらあら、なにか物が置いてあるのかと思いましたら―――」
「物じゃねーよっ」
俺の顔を見つけると、ミカンコの口許がほんのり和らいだ。それを袂に見立てた指先ですっと隠す仕草なんぞは、いかにも良い処のお嬢様風である。
「ほら、時間がありませんので立ってください。早く行きますよ」
ミカンコは地面に靴を落としながら、そんなことを言った。
「いやさ、待ってんだよ、慶将を」
「彼なら、すこし時間がかかると思います、ですから、ね?」
俺は裾の埃をはらいつつ、ミカンコを仰ぎ見た。その「ね?」には、いつにも増して妙な色気があったものである。
「で、どうすんだよ。久場のこと」
お嬢様の良く揺れるスカートの尻を眺めながら、俺は口を開いた。
「あなたでしたら、どうなさいます?」
「いや、どうって…」
そりゃあクラスメートなんだし、敵対するよりも仲間になってくれた方が助かるに決まっている。仲間が多ければ多いほど、俺も楽ができそうだしな。
「たぶん、あいつなら仲間になってくれるんじゃねーの?」
後ろをついて歩く俺を、ミカンコが肩越しに振り返った。
「ホホ、ずいぶん自信がおありですこと」
「自信? なんのこっちゃい」
「その久場くんにも、あなたを選ぶ権利があるのですよ?」
それはさきほど慶将から聞かされている。その後の行動が、仲間としての指針になるとか、ならないとか。
「今回、下手したら魔人になるんだっけ?」
芝の法面の向こう、広い淡黄の運動場の上に、初夏の陽が明暗をみせて揺らめいている。
風もなく、あたりは静かで人影もない。
この俺は、いきなり歩みを止めたお嬢様の後ろに立って、まごついていた。
「おいおい、いきなりどうしたよ」
「魔人、ですか」
こう言いつつ、遠望を見渡していたミカンコの眼が、はからずもこちらへ向いてくる。
「それを知って、なんて暢気―――コホンッ、そのことを御存じで、どうしたらそんな態度でいられるのでしょう」
その声には俺に問いかけるというよりも、むしろ叱るような不快と憤りとが露骨に現れていた。
「は?」
俺は目をぱちくりとさせる。
そして、しばし沈黙したのち、
「いや、ひょっとしたら鬼なんかじゃなくて魔人かもって、さっき慶将がそんな話をしていたからよ」
すると、今度はミカンコの方が沈黙を強いられる番となった。
「どうした?」
「いえ、その、そうなのですか…」
このとき、俺は、ふと感じた。
今のお嬢様、なにかが違う―――してみると、その感情の起伏、丸みを帯びた尻のラインもいつもとは微妙に違う気がする。あくまで俺の主観的なものだけど、なぜだろう、そうした妄念すら湧いてくる。
尻の大きさを真顔で訊くわけにもいかないから、この場では、あえて黙っていたのだけれど。