塞翁の狗 一
朝、洗面所で寝ぐせを整えていると、インターフォンが鳴った。
元気になった陽葵がとことこ廊下をかけてゆく。玄関の扉を開けると、制服を着こんだ女の子が待っていた。
妹とたいへん仲の良い、麹屋 翠という娘である。
「おはよ、陽葵。聞いたよ、大丈夫だった?」
「うん、平気。いろいろあったけど――」
それで、玄関ではとりとめのないおしゃべりが始まった。
ふたりの話し声を聞いて、奥から母さんも現れる。母さんは話に夢中になりがちなふたりの娘の扱いに長けていた。ほうっておくと、この年頃の女の子はお互いの耳がちぎれるまで喋りつくすものだから、だったら母さんがその攻撃を受けていた方が早く片付くというものである。
やがて、行ってきますの声と一緒に、ほがらかな嫋々とした笑い声が俺のところにまで届いてきた。
俺は廊下の暗がりから、陽に包まれる翠ちゃんのぼやけたシルエットをちらと拝見しただけで、すぐさま顔を引っ込めた。
彼女の父親とは、少年サッカー時代にとある確執があったため、ちょっと顔を合わせづらいのだ。
さて、ここ最近は、妙に予測できないことばかりが起きるもの。
教室にはあのご令嬢がいて、可愛い荒川ちゃんもいて、昼は屋上で過ごし、陽光を浴び、午後は女子の体育の授業風景などをなんら妨げもなく拝見することができるのは、確かに楽しい。父さんの時代にはまだぎりぎりブルマであったというが、こちらもこちらで、なかなか乙なものである。
けれども、周囲のご子息どもと一緒に学んでいればいるほど、学校をよく知ることなく不確かなまま入ってしまったことを、だんだんと悔やんでくる。偏差値の高い高校生という身分は気に入っていたが、そのメリットを除くと、ほぼ暗記工場と呼んでも差し支えない環境なのだから。
その上、さらに希人騒動ときたもんだ。
こうなればもう、矢でも鉄砲でもと、構えるしかあるまい。
そう覚悟を決めて学校へ行くと、担当の先生の子供に熱が出たとかで、いきなり自習だった。
ひゃっほー。
とはいえ、この俺が自由気ままにしていられるはずもなく、その間も予習に余念がなかった。
もういっそのこと頭にUSBのデバイスでも植え付けて、直にSSDを読み取れるような時代が早く来ればいいと、切に願うだけ。
ちなみにSSDとは、Solid State Drive (ソリッド・ステート・ドライブ)の略で、つまりはスマホの中にある記憶装置のことである。
まあそんなつまらんことを考えながら、ふと目を上げると、黒板に横書きで、堂々とした大きな字が綴られてあった。
『芸術は短く、貧乏は長し』
さきほど生徒たちの監視に来ていた美術の先生が、なにか気の利いたつもりで書いたらしいが、それにも飽きたらしく、いちど教室を出て行ってからは、もうそのままである。
それで、監視の弛んだ教室内を、自由に闊歩する輩もちらほら。
この俺の席も、ちょうど仲良しグループの往来の途中にあったものだから、なんだか気忙しくて落ち着かない。
するとその往来する中のひとりが、俺の前で仁王立ちになった。
「お?」
まずは、もくもくした積乱雲でもいきなり現れたような手元の暗さに、俺は白いノートから目を上げる。
そして、天から雲を分け入って地上の哀れな人間どもを睥睨するような、そんな面長の大きな顔に驚いて、俺は思わず、「ボ、ボンバイエ!」と叫ぶのであった。
「なんだい、それは。コンゴの言葉?」
間延びのした管楽器のような低い声が天からした。
その威圧的な顔ならびに体格に圧倒されていた俺は、はじめこそ戸惑っていたものの、相手が誰だか分かってくると、すぐに安堵する。
「なんだよ、久場か。 びっくりすんだろ」
「ん~? 何か、脅かしてしまったかな?」
「いや、別にいいんだけどよ」
この大男は、久場 武羅土といって、ときおり俺に話しかけてくれる数少ない貴重なクラスメートの一人である。
こんな巨漢が教室にいたのであれば、さぞ人目を引いて大変だと思われるが、こいつは畑に挿してある案山子よりもずっともの静かで大人しく、皆、はじめこそ目を見張って驚いていたものの、今では河原にある石ころほどにも騒がない。
そんな地味な大男でも、たまには生きのいい新鮮な空気に当たりたくなるらしく、そのご都合に見合うのが、ボッチの俺というわけだ。
「なにしてるのかな、と思って」
「なにって、予習だよ、予習。俺はおまえらみたいに頭よくねえからよ」
久場はふうんと、鼻息をかるく俺の顔に当てると、机に広げたノートに目を落とす。
とくに何を話しかけてくるでもなかったので、俺もそのまま予習の続きをはじめたが、この大男、いったいどんな肺活量をしてやがるのか、息をするたびにこう、俺の髪がぶわーっと舞い上がって、勉強に集中できやしないのである。
よく競走馬の馬房を掃除しているおじさんが、かまって欲しいお馬ちゃんに頭をペロペロされて困っている動画なんかを見かけたりもするが、これがまさにそれ。
このまま放置してペロペロされたらたまらんので、俺も仕方なく顔を上げた。
「で、なによ、なんか用?」
「う、うん。ちょっと話したい事、あるけど」
さてはハプスブルク家の末裔かと疑われる、そのお顎。
「ハンチ君て、強そうでいいよね」
久場はその立派なお顎を動かして、そんなことを聞いてきた。
「へ? 俺、そんなふうに見える?」
「うん。一人でいても、いつも堂々としてるし、僕なんかよりも、ずっと神経が太そうだ」
本気なのか冗談なのか、俺は苦さを入れて笑うしかない。
「どうしたの?」
「いや、主観の相違ってやつを、しみじみ味わってんだよ」
「ふうん」
その「ふうん」の鼻息で、ノートがふたたび何ページかめくれ上がる。
「勉強熱心なんだねえ。ボクもそうして入試の勉強をして、実家じゃあ胃潰瘍になって入院までしたものだけど、キミもそうしたこと、ある?」
こんな並外れた体格の持ち主であっても、根は繊細らしく、神経性の過労で一度倒れたことがあるという。
「いや、さすがに、ねえけど…」
そんな御大層な病気に、俺は生まれてこのかた罹ったことがなく、これもまた太い神経の持ち主たる証しなのだと思われると、なんだかきまりが悪かった。
ともかくこの大男は、宮城の実家での苦労話をいくつか話して、俺はそれをじっと聞かされ続けることになる。
それで退屈そうに目を逃がしているうちに、遠い席の飛鳥と目が合った。
あいつはこのところ急に血色が良くなって、よく教室で活発に動きまわる姿も見られたが、またとつぜんチューでもされやしないかと、俺の方は気が気ではない。
しかし幸いなことに、あの不名誉は一度きりの出来事で、今では夢まぼろしかと思われるほどに、そのことには無関心なようだった。
その飛鳥が、どうもこちらを気に掛けているようなのである。
久場もそれに気づくと、「ごめん、またあとで」―――こう、低い声が落ちてきて、机に乗せたぶっとい指をすべらせつつ、俺から急いで離れてゆく。
それは、白波の立つ潮を押しのけて岸壁からゆっくり離れてゆくような、そんな錯覚さえ覚えるほどに大きな背中であった。
その巨船がどくと、こんどは一艘の雅な小舟が現れる。それこそがミカンコ嬢。ちょっとこの世ならぬ神秘的な雰囲気を醸した黒い瞳で、あの大きな男を追いかけていた。
飛鳥と、鷺ノ宮家のご息女ミカンコ嬢―――このふたりの視線の重なる先が、とても偶然のようには思えない。
そこへ、荒川ちゃんもやってきた。
「あの、消しゴム…」
そのあとの言葉は分からなかったが、おくれ毛のくるくるした娘が、そこで恥じらうように立っていた。彼女はそれを拾ったことを告げてくると、机の上にそっと置いて、うつむくように戻ってゆく。
それで俺も、謝意のつもりでペコリとするのである。
それを見た荒川ちゃんは、前の席の女子とちょっと顔を見合わせてから、ちいさく微笑んで、目でかるく会釈を返してくれた。
なんでだろう、ここ最近、どうもこの消しゴムくんは彼女の方にばかり逃避しがちである。
そう思いながら、彼女が拾ってくれたそれを、ほのぼのとした気持ちで指につまむ。
「おや?」
ふと、俺はノートの間にちいさく折りたたまれた、色付きの紙切れに気づくのだった。
手に取って広げてみると、太い男らしい字で、『体育館裏の焼却炉』とだけ書かれている。
おそらくたった今、久場が残したものに違いないが、しかし体育館裏とは、これまた物騒な呼び出しをくらったもの。
「いったい、なんなんだ?」
とはいえ、近郊のヤンキーがするのとは違って、そう恐れを抱くこともないのだけれど。