セピア色の記憶、そして困惑 九
時の海軍航空本部の依頼で、様々な法師たちが従事させられていた霞ヶ浦の練習航空隊――――
一口にその頃の時代と言えば、海軍のまだ若い練習生にすぎなかったあの方にとっては、それこそ宮家に所縁のある女性にうっかり触ろうものなら、眼が潰れやしまいかと思っても不思議ではない時代でありましたので、私たち占い師が人相診をしているあいだは、ほんとうに固くなってしまって、一言も喋らず、無口な方であると思われておりましたのよ。
それでも、心理適性検査、空中適性検査に合格し、航空機の操縦士として海軍に採用されることが決まると、古賀さんはたいそう嬉しかったのか、皆に櫻やキャラメルなどを配ったりしまして―――あ、櫻というのはタバコの銘柄のことでして、もちろん曾祖母はご遠慮申し上げましたが、そんなことがありましてから、お互いに打ち解けてものが言えるようになりました。
実はもうその頃から古賀さんの身体には、何か不思議な言葉にできない力があると、法師たちの間ではそうした緘口令が敷かれておりました。
私の曾祖母も、その故由には気づいておりましたが、彼の右手の掌紋がまさか災厄の顕現たる印であったとは、さすがに思いもしませんでした。
おそらく数百年に一度の災厄となるものなのでしょう。帝都の治安は表面上、憲兵らによってかたく維持されておりましたが、その隠れたところでは子供が残虐な手法で殺害されるなどという酸鼻な事件が、毎日のように繰り返されておりました。
それが古賀さんの持つ印と関連づけられていると早々に見抜いた曾祖母は、ひとつ、虚言を設けることにしたのです。
その内容はこんなものでした。
『じつは、次におこなう手相診断では、そこに十字紋がございますと、凶兆とされ、場合によっては操縦士から整備士への転向も余儀なくされます。これで失敗した人を、私もいろいろ存じ上げておりますので―――』と声をひそめつつ、ご本人にだけ打ち明けるように、勿体つけて表装して、慌てる古賀さんご本人から、なんとか頼みごとを引き出しました。
曽祖母の方も、これは私が打ち明けた内緒事なものですから、そこにはきっと海軍さんに責任が持ち上がることでしょうと、お互いに隠し事をもつ素振りをして信用させて。
ホホ、女というのは恐ろしいものですのよ。ハンチさんも、ゆめゆめご油断召されることなかれ――――
ここまで話すと、お嬢様は目元を緩めて可笑しそうにする。
ミカンコの話術は淡々として、じつに巧みに、女らしい艶味まで加えられているようだった。
「俺の遠い叔父さんは、その、知ってたのか? 自分が希人であるってこと」
「いいえ、ご存じではなかったようですね。眼に見えぬものをあまりご信用なさらない方でしたから」
「九州のばあちゃんの旧姓が、古賀ってのは俺も知ってたけどよ。まさかそんな繋がりがあるだなんてな」
俺は自分の右手を見ながら、そこから現在までの長い道のりを想像し、感心した。
「それで、おまえの曾祖母は、この手相に封印をかけたってわけなのか」
「ええ。曾祖母だけではなく、門派全員のお力を借りてまでして。その翌日から、帝都で起こっていた様々な事件はぴたりと止みました。おそらく、力ある者が欲望のままに暴れまわっていたのでしょう。希人に触れて力を開花させずとも、希人が存在しているというだけで、そこまでの基礎能力がある者たちです。もし古賀さんに接触していたらと思いますと、私もぞっとしますわ」
慶将から、桃太郎のお供みたいなもンだと聞かされていたので、俺も見当違いをしていたらしい。それが俺の右手に触れることによって、さらに力が解放されるという。そんなものを野放しにするわけにもいかないから、呪いによって調伏するわけである。
「ということは、飛鳥もヤベーやつだったの?」
「彼にそこまでの力はありません。まさか同じクラスにイヌがいただなんて、私も封印を解くまでは気づきませんでしたが」
「いぬ?」
するとお嬢様は、指先ですっと文字を描いてみせる。
「こう書いて『狗』、獣という意味です。これを調伏したものが、走狗、あるいは従者などと呼ばれることになります」
「へえ」
そんなものにも呼び名があるなんて、俺はまったく知らなんだ。
「いったい世間にはその狗ってのがどのくらいの数、潜んでいやがんだ?」
「神道でも数多くの神々の存在を総称して八百万と申しますように、それと同じくらい―――けれども、ほとんどは自分が狗であることすら知りません。力あるものはさらにそのほんの一握り」
「それを片っ端から調伏しようっての?」
「まさか…」
悪戯っぽい瞳が、くるりと俺に向けられる。
「あなたがその多くの狗の信頼を得ながら、みだりに猥れさせず、さりげなく統制していただけるのなら、私も苦労はないのですが」
ミカンコはそれとない皮肉に言い換えて、ひっそり笑った。
「俺にそんな社交性はねえよ、知ってんだろ」
まったく人のわるいお嬢様である。
「ですから、まずは身近にいる狗から処置を進めてゆくつもりです。あなたに刻まれた、希人の記憶をどうするかは、それからの話になるのでしょう」
「処置って、なんか物騒だな。話し合いでなんとかならねーのか」
俺は眉をひそめる。
「なんとかなる相手であればよろしいのですが、敵となって攻撃してくる狗もおりますし、なかにはそもそも生き物ですらない狗もおりますので」
「そりゃすげえな、多種多様か」
そしてその狗、何をもって敵とみなすかは、俺自身の関わり方にもよるという。
「ええと、たとえば?」
「そうですね、まずは平気で犯罪をおかすものを敵とみなしてみたら、いかがでしょうか」
なるほど、それなら分かりやすい。
昨日のあの、中坊とかな。
「それと、今後あなたのご家族を守る必要も出てくると思います。狗の件に関わらずとも――私もなにか考えておきますわ、すぐには無理ですけれど」
「ま、頼むよ」
そうしてくれたら、俺もすこしは安心である。
そこまで話すとお嬢様は、茶碗を両手でそっと持ちあげ、唇に当てる。
初めて見る所作でもないのだが、まるでお貴族様の名血統のサラブレッドの感じである。
生まれながらに気品のある容貌はもとより、その言葉遣い、姿勢、茶碗の持ち方、まったく優美でしなやか、けれども嫌味なところは少しもない。
こんな部屋でも品格にふさわしい絵姿となっている。
そのミカンコ嬢は、なにか今思い出したように、可笑しがる。
「それなのですが、当家の古くからの知己の方が、すでにあなたの周辺をこっそり警護していたようでして」
「え、そうなの?」
「はい、職業柄、ほんとに耳聡い方でして。ほら、あなたの妹さんを最初に保護した男性の方が、そこに偶然いらっしゃいましたでしょう?」
男性の方―――
「え、あのおじさんのことか?」
確かに、休日の静かな神社の境内に、スーツ姿のおじさんが偶然居合わせるってのも、考えてみたらおかしな話である。
「いえいえ、それはご本人ではなく――その男性の方は、どうも私の友人から依頼されて警護をしていた方のようなのです」
そこまで話すと、陽葵がぱたぱた音を立てて下から戻ってきた。そして部屋の中へ聞こえるように、追加の茶菓子を持ってきたと言うのである。
どうやら内緒話はここまでのようだ。
その陽葵、ミカンコ嬢に話しかけられて、最初こそもじもじしていたものの、もう呪いの効果が現れたのか、なにか度胸のすわった感じで部屋へ入ると、お嬢様の前にぺたんとすわって、お菓子をつつく。
それから服や小物、習い事の話をして、年相応に可愛らしい。
「私にも、こんな妹さんがいれば、楽しいでしょうに」
ミカンコもこう言って、のどかに茶菓子をつまんでいた。
そしてこの俺は、さほど興味がないというよりも、どうも、いろいろあった他の考えにとらわれて、ぼんやりしがちであった。