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その奇譚(きたん)、叶えるのは難あり  作者: あみの よもやま
14/33

セピア色の記憶、そして困惑 七

 俺が死の観念を受け入れたとき、心臓が止まりきる前に気を失っていた。

 それからどれだけ時が経ったのかわからない。ただ俺は、自分の意識が身体と共にまだ健在であることを感じ取っていた。

 それぞれの感覚器官から延髄を経由してペインマトリックス領域へと、導火線を伝わる火の音でも聞くように、痛覚がじりじり身体を苦しめてくるのも、かえって正気を保つのに有用であった。

 ひょっとしたら、あの希人(まれびと)とやらの能力が発現して、俺はまた絶体絶命の直前にまで引き戻されてしまうのだろうか。

 そう思って慌てて(まぶた)を開けてみると、視界の先にいる、知らない男と目が合った。

 その男は俺を痛めつけてくるのではなく、ただ遠慮がちにこの頬を叩いてくる。


「大丈夫ですかあ?」

 彼は心配そうに呼びかけていた。

脳震盪(のうしんとう)だよ、脳震盪。きれいに背負いの一本決まったからなあ。まだ頭動かすなよ」

 脇から視界に入ってきたやや年配の、毬栗頭(いがぐりあたま)の男がそう診断していた。

 脳震盪。なるほど脳みその根っこが妙にずしんと痺れているわけである。


 俺は状況が知りたくなって、眼だけで周囲を探ってみた。

 まず、ここが病室などではないことはすぐに理解できた。天井に、強度を保つための鋼鉄の梁が縦横びっしり張り付けられていたからである。これは最上甲板を必要最低限の上部構造だけ残して真っ平らにしているためで、ようするに、ここは空母の格納庫であった。

 そう分かってくると、俺の頭もだんだんと冴えてくる。


「ああ、俺、投げられたのか」

「そっすよ、古賀(こが)兵曹(へいそう)。そりゃもう、国民学校教書の挿絵みたいに、鮮やかにずばあっと」

「くそっ、山岡め。これで三連敗じゃねぇか。へそくりの(さくら)、もうすっからかんだぜよ」

 悔しがる俺を見て、その男、艦攻のペアである下鶴(しもづる)三飛曹が可笑しがる。

「まあ、くさらないくさらない。あの人も、木村政彦のいた牛島塾の出身ですからね。一分耐えられただけでも、たいしたもんスよ。僕なんか秒殺でしたよ、秒殺」

 そして見物を決め込んでいた整備員たちからも、俺の健闘をたたえる声がちらほら聞こえた。

 そのときだ。


『総員、対空戦闘配置!』


 均等にぽちぽちと赤色灯のともる格納庫の天井から、突如そんな放送が響いた。

「対空戦闘?」

 俺と同じ、黒帯のかなり使い込んだ道着を着た下鶴が、即席マットの上でぽかんとしている。

 このところの悪天候から、緩み始めていた精神を鍛え直すためにも、俺たちは予備空母の格納庫の一部を借りて、各々柔道に励んでいたところだった。


「こ、古賀(こが)兵曹っ」

 下鶴がなさけない顔で俺を見る。

 一瞬、頭がぼんやり(かす)んだが、俺はすぐさま自分が古賀だと意識した。

 それではっとして、マットから跳ねるように起き上がると、解放している防火扉のむこうへ目を凝らす。

 先ほど艦橋へ顔を出したときには、敵さんの報告などなかったはずだが。


「下鶴、ビビんな。こちとら艦攻乗りよ、対空戦闘なんざ、やつらに任せておけばいい」

 そう強がってみせるも、続いて足の底からくるドスンとした衝撃に肝を冷やす。


 この貧相な空母、どうやら米軍さんに捕捉され、たったいま至近弾を浴びせられたところらしい。幸いにも命中せずに、海水を打ち叩いているだけで済んではいたが―――。

 あたりを見まわすと、先ほど俺に見事な一本背負いを決めてくれやがった山岡兵曹は、もうとっとと逃げ出して、今やこの、下鶴三飛曹と二人きりであった。

 俺たちは急ぎ、目の前の階段を駆け上がり、興奮した整備兵たちが行き交う通用路を抜けて、飛行甲板脇の退避路へと出る。

 とたん、南方特有の生ぬるい潮風が、ぶわっと全身に当たってきた。


 空母は右舷へ急旋回しているためか、えらく傾斜して、俺は、白波の砕けるがごとき海面に映しだされた自分の顔と対面せねばならなかった。

「ぐうっ、大丈夫かよ、この(ふね)っ!」

 防弾板に胸部を強く圧迫されながら、呻くように言う。

「古賀さんっ、前、前っ」

 あとからやって来た下鶴の怯えの混じった声を受け、俺は両腕をむりやりに突っ張らせて顔を上げた。

 この脳天ちかくにあった水平線の先、ぽんぽんと咲く黒い弾幕の雨の中を、こちらへ目がけて飛んでくる機影がふたつ―――。


「雷撃機じゃねーかっ!」


 とたん、背筋がぞわっと粟立った。

 四連装の13ミリが激しく咆哮を上げるが、曳光弾の光はむなしく海面に吸われてゆくだけ。

 俺はすぐさま上板にあがると、ひらけた艦橋のない飛行甲板を渡って、左舷前部の信号マスト脇にまでやってくる。


「ちくしょう、当てろ、当てろっ!」

 拳を握り締め、顔面蒼白になりながら、俺はただ叫ぶことしかできなかった。

 こうした雷撃時の理想の射角は、きれいな余弦曲線を描くものだが、運動力を加味すると射角の変化はその曲線からだんだんと遠ざかってゆく。俺も霞ヶ浦ではさんざん座学で習ったものだが、あの敵機はそのお手本のような機動をとって、こちらへ目がけて突っ込んでくるのである。


 あわや激突か!

 そう思われた瞬間、敵機は波風のあおりを受けたのか、わずかに機首を上げて、俺のほんの数メートル上空を通過した。

 その機体からパパッと火花が散って、翼根(よくこん)が引き裂かれるのを見た瞬間、俺は、怪鳥のように覆いかぶさってくるネイビーブルーの後部銃座から、こちらを驚きの表情で見ている米兵と目が合った。

 このとき俺は何を思っていたのか、そしてヤツもどう思っていたのだろう。

 その機体が飛行甲板から見えなくなると、大きな水柱が一本、どーんと打ちあがる。

 遠くからはヤッタァ、という喚声、そして次にくる悲鳴にも似た叫び。


雷跡(らいせき)だっ!」

 先に投下していた魚雷が、少し遅れてこちらに突進してきたらしい。

 米国の魚雷の酸化剤には、主に空気が用いられている。その空気の八割を占める窒素が水中に放出され、気泡による航跡が海面に映っていた。

 それを上から呆然と見ている俺の襟首を、下鶴が(つか)んで引き寄せる。

「あぶないっ、伏せて!」


 ―――ズズゥンッ


 身体を浮かせるほどの衝撃と、巨大な水しぶき。

 恐らく先の米兵も、これと同じような光景の中にあったに違いない。

 そして続けて起こったいくつもの爆発。格納庫では、航空機が満載していたガソリンに次々と引火して、それは艦内にとどまる作業員たちをたちまちに火の海へと巻き込んでいった。

 防火服すら支給されない軽装の彼らでは、炎に吞まれてひとたまりもなかっただろう。

 その焔獄の中、黒煙たなびく空を見上げる俺の眼に、はるばる虚空が拡がってゆく。

 ひたすらお国のために、俺たちはどれだけの研鑚を積み上げてきたことか、その磨き抜かれた魂ひとつひとつが、こんなことで無駄に儚く散ってゆくのである。


 視界のすべてを覆った海水の光がぼんやり薄れゆく――


 鋼板から海面に投げ出されたあと、全身をひどく打ちつけて意識が朦朧(もうろう)とするなかで、俺は遠くから伝わってくるサイレンの音を聞いていた。

 それは軍艦からなどではなく、町中で聞かれるようなひどく馴染みのある響きであった。その感覚を意識の奥で探っているうちに、まだらに霞む光の焦点が、しだいにはっきりと合わさってくる。

 そこには、高床式の建物がおぼろな輪郭を現していた。

 やや色褪(いろあ)せた朱の鳥居のむこう、一筋のうすい藍色の雲がくねって木立の脇へと続いていた。

 その下の砂利道を、背広姿の男性らがいかにも慌てたようにやって来る。

 先頭にいる中年の人は恰幅がよくてずんぐりして、そのぶん脇にいる娘は小さく見えた。いかにも歩き疲れている様子だった。


「お兄ちゃん!」


 その娘が叫んだ。

 よくみれば、妹の陽葵(ひまり)である。

 いったいなにを慌てているのか、悲壮な顔で走り寄ってくる。

 陽葵(ひまり)は俺の傍までやって来ると、いちど、濡手でも拭くように胸の前で手をもじもじさせてから、俺の背にそっと抱きついてきた。その妹の脇を回って、中年の男性が前へと出る。

 そこには、あの狂った中坊が、砂利の中に埋まって正体もなく伸びていた。

「ほう、こりゃ見事に」

 その中年の人は感心そうに呟いた。

 俺はそいつの手首を左で引いて、ちょうど豪快な一本背負いを決めたところであった。


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