セピア色の記憶、そして困惑 六
翌日の土曜日は、ばあちゃんが九州へ帰る日でもある。
それでこの俺も、最寄りの駅まで両親と一緒に見送りに行く。
母さんは妹にも見送りに行くよう、しつこく促していたようだけど、自分を虐めていた男どもに外で偶然出会ってしまうのがまだ怖いらしく、そうした事情を察したばあちゃんは、ただ笑って「よかよ」と、妹の申し訳なさそうな顔を見ただけで、もう十分なようだった。
だから妹も、ごめんねのつもりで玄関まで見送りに出てくる。
ところがそのばあちゃん、来たときにはあった帽子がないと騒ぎ出すのだ。
「え、お母さん、持ってないの?」
「祥子、知らん?」
「家の中に忘れてきたんじゃないの? もうっ」
それで俺も玄関へと引き返した。
滞在中は、ばあちゃんもいろんな部屋でくつろいでいたので、妹とふたりで家中をくまなく探さねばならなかった。
途中、俺はふと思って、自分の部屋に寄り、机の引き出しを開ける。
そこには、ばあちゃんから貰った小遣いがしまってあった。
せっかく駅前まで行くのだから、ひとりで留守番をしている妹にもなにか買ってきてやろうと、そう兄らしく思ったまでのことである。
けれどもそこには、ばあちゃんから貰った小遣いよりもはるかに多くのお金がしまってあった。
あの呪いでの臨時収入が、まだそのまま残されていた。
最初こそ、これをミカンコの呪いによる収入だと思っていたが、実情は少し違うらしい。
それはちょうど振り子の錘が大きく振れ戻るように、俺に降りかかった不幸と等量の幸運が、ただ舞い戻ってきただけで、ミカンコは、そのための呪いを施行していたというのである。
思い返せば、確かにお嬢様は最初からそう言っていた。
金を出すのは、なるほど俺自身というわけか。
ミカンコはまず、俺のケガの具合を確かめて、その金額を提示した。
あいつが見積もった額よりも多めに俺の懐へ入ったのは、それ以外にも、見えない不幸が数多くあったからである。
それがどんな不幸だったのかは知りたくもないが、ともあれ、それを本当に実行できる鷺ノ宮家の呪いというものが、いかに常識を超越した途方もないものであるか、俺でなくともたやすく理解できるだろう。
世の不幸に見舞われた方々には、ぜひとも一度、ミカンコの呪いを受けて頂きたい。
ただし、それには必ず人生の通帳に、一度目を通しておくことをお勧めする。
さもないと、思わぬ憂き目に遭うかもしれないからである。
あるとき、不幸にも交通事故に遭い、左腕を骨折したとしよう。
それだけならその分の不幸が呪いによって変換されて、幸運として返却されるだけなのであるが、その前日にうっかり宝くじで三億円でも当たっていたら、大変だ。
その三億円が、まるまる不幸として自分の身に降りかかってくるわけだからな。
何をもって呪いを行うのかは、その法師の道徳に任されている。
よって、法師とは自らの責任を自らで裁ける人格者でなければならないらしい。
それが「禁呪」であり、あの凛とした姿勢をなんの努力もなしに保ち得る証左なのだろうが、しかしそうした実情を知らされると、その力を羨ましいと思うよりも先に、精神をつねに緊張させて自らを戒め続けなければならない専門家たちよりも、やっぱりなにも知らない俺たちの方が、ずっとお気楽でいられると思うのだ。
幸と不幸の新陳代謝を横目にしながら、のんきに欠伸を噛み殺しつつ、ただ自分のすることだけに邁進していれば良いのだからな。
父さんたちはそのまま空港まで、ばあちゃんの荷物持ちを続けるという。
俺が途中で帰されたのは、そこまでの運賃がもったいないのと、はよ帰って勉強せいということらしい。
それでお昼近くになって、レジ袋を提げた俺様はようやくのご帰還となる。
玄関の呼び鈴を押しても扉が開かれないので、一瞬「おや?」と思ったが、扉のノブをひねると案外にすっと開いた。
靴を脱ぎ散らかしたまま、キッチンにまで行って、テーブルの上にレジ袋を置く。家の鍵がかかっていないことを不審に思って二階へ上がり、妹の部屋を覗いてみたが、陽葵ちゃんはやっぱりいなかった。
トイレや、ふろ場も同様、どこにも姿が見えないのである。
俺は不安に思って、玄関に戻る。
ふだんはあるはずの突っ掛けが、一揃いないのを確認し、靴を履きなおして外へ出ると、なんとそこには飛鳥がいた。
俺の顔を見るなり、挨拶もそこそこに、
「急いだほうが良いよ、お兄さん」
などと言うのである。
「なんで、おまえが俺ンちにいんだ?」
「どうも、ハンチのまわりで厄介なにおいがしていたから、ボクとしても気になってね。たとえばこれとか…」
そうして飛鳥が指さすところには、猫の死骸が置かれていた。
「え、またかよ!」
「またか、ということは、以前にもあったの?」
「そりゃあ、ここんとこずっと、なんでか知らんが――」
飛鳥は額に手をやって、ため息をついた。
「それだけのあからさまなフラグが立っているのに、呆れるほど太平楽なお兄さんだね。神戸の児童殺傷事件って、知らないのかい? 始めは動物で我慢していたのが、やがてその対象が人間に移る猟奇的な殺人事件なんだけど」
「いやまさか、うちに限って。…たまたま車に撥ねられたんじゃねーの?」
飛鳥はきっぱりと首を横に振るう。
「きちんと見てみなよ。両目、抉られているよ」
そんなものを見せられて、俺は低く唸ったきり、言葉が出てこなかった。
実のところ、玄関の鍵の掛けられていないのを知ったころから、漠たる不安がしきりと胸をよぎっては、影を落としていた。俺がひどく神経質になっていたのも、そのためである。
そして俺には感じ取れない気配を、この奇妙な男の鋭敏な五感がつかんでいた。
俺はやや早口になって、飛鳥に頼みごとをする。
「たのむ、教えてくれ。俺の妹は、どこ行った?」
ふだんから虚勢を張って偉そうにしているような男が、このように落ち着きを失って頭をさげてくる様は、飛鳥からしたらさぞや面白いにちがいない。
ところが意外にも、飛鳥は俺を叱咤するように急かせてくるのだ。
「あっちだと思う。早く行きなよ、まだそれほど離れていないはず」
「あっち?」
身を乗りだしかけた俺にむけ、飛鳥はあまり近寄るなとばかりに、両の手のひらで押し戻すような仕草をした。
「今はわけあって、キミに触られたくないのっ、ボクの存在にも関わることだしね。でも、これは信じていいよ」
「わかった、恩に着るぜ!」
「早くいきなよ、どんくさい」
飛鳥の目に浮かぶ気づかわしげな気配が、俺の感謝の返答を聞くと、いつもの馬鹿にするような態度に戻っていた。そのことは、こいつなりのひねくれた好意の示し方でもあったらしい。
少なくとも、俺の飛鳥にたいする印象というものは、少し変えねばならないようだ。
俺は門扉を開けっぱなしのまま駆け出した。
飛鳥の指の示す先、それだけで、父さんの実家からこの土地に引っ越して十年余りのこの俺には、大方の予想がついていた。
外にあまり出たがらない妹を、いったいだれが連れ出したのか、動物を虐待する危険な人物であったとしても、それがうちと、うちの妹となんの関りがあるのかわからない。
俺は歩いて数分ほどの距離を休みなしに駆け抜けて、町内の神社に到着する。
家の近辺で人気のない場所といったら、まずここしか思いあたらない。ガキの頃、よく虫取りに来た場所でもある。
砂利道を乱暴に散らす音をたよりに、社の裏手へ回った俺は、そこで争う人影を見つけ、柱の影に身を隠した。
陽葵ちゃんかと思えば気も急くが、もし相手がナイフでも持っている危険な人物であれば無謀である。
無言を守って睨めるこの視線の先には、男女のふたりが騒いでいた。
――いやっ、やだ!
――こっちへ、こい!
ツーブロックの髪型の、中坊くらいの悪ガキが、妹の腕をむりやりに引っ張っているのを見つけて、俺の頭は一瞬、ボンと沸騰しかけたが、奥歯をギリっと噛みしめて、むりやりにねじ伏せる。
あの中坊は、やっぱりなにかの光る得物を手にしていた。それで脅して、妹をここまで連れてきたらしい。
これで妹には危害が及ばないよう、なんとしてもあいつをぶちのめす必要ができてきた。
俺は、妹たちの傍にある赤い柵の作りをつぶさに確かめる。簡素であるがこれも玉垣らしく、その玉垣を巡らして本殿は外界と隔てられている。つまり今のこの場所は想像上の神域でもあるわけだ。
俺は拳にハンカチをくるくる巻くと、その玉垣沿いにこっそり回り込んだ。
可能な限りに距離をつめ、不意打ちをしかける算段であった。
陽葵たちと数歩のところにまで近づくと、俺は巻き付けていたハンカチの手を開いて、そしてまた慎重に握り直す。妹の右脚の太腿に血のついた痕をみつけて、また怒りが激しくわいた。
そして妹が、嫌々をして首を振ったとき、偶然、俺を見つけていた。その顔に、泣き笑いのような表情がぱっと浮かんだ。
俺の自制も、もはやここまで。
憤怒の熱塊が、怒涛のごとくに荒れ狂う。
――うらぁぁ!
俺は怒声を張り上げると、拳を振るって中坊に襲い掛かった。
突如としてあらわれた俺に度肝を抜かれた中坊は、かまえる暇もないまま、その顎へ強烈な一発を喰らう。
砂利の中に沛雨のような音を立て、そいつはひっくり返った。
あらかじめ定められた約束事のように、みごとに決まったものである。
「陽葵ちゃん、だれか大人呼んで来いっ、こりゃあただの虐めなんかじゃねえぞ!」
この中坊、たしかスマホの写真で見覚えがあった。妹を虐めていたグループのリーダー格のはずである。今は保護観察処分を受けて自宅にいるはずが、こうして野放しとなっている。
しかも妹を強引に連れ出して、これから何をしようというのか、その手には凶器まで握られていたはず。
俺は妹が駆け出すのを確認してから、それを取り上げようと、這いつくばる中坊の右手を踏んづけた。しかしその手には何も握られていない。俺の一撃を喰らったときに、どこかへ飛ばしでもしたらしい。
憤怒の形相で起き上がった中坊は、手を踏みつけられたまま、俺の腰へ猛烈な体当たりを喰らわせてくる。思わず身体が浮き上がった衝撃以上に、なにか重たいものを感じていた。
俺より年下ながらも、さすがは名の知れた悪童。体格においては俺と互角らしい。
「おめぇ、ハンダの兄貴だな!」
悪ガキは喚いた。そりゃ見覚えあるだろう、俺も去年までは、同じ学び舎で中坊をやっていたわけだしな。
「てめぇか? うちに猫の死骸を投げ込んでくれたやつぁ!」
俺の怒声も、その外見同様負けてはいない。
「はっ! 気に入ってくれたかよ。おめぇの妹のせいで、オレの人生はめちゃくちゃなんだからよっ」
「はあ、なんだって?」
校内では虐めを行い、校外では集団で、カツアゲをしたその会社員らを病院送りにまでして、今は保護観察処分のはずである。その責任がどういう道筋をたどって妹になすりつけられるのか、狂気に飲まれたその眼を見るに、すでに妄想と現実の区別がついていないようにも思われた。
その中坊は、俺の前で無防備に立っている。
ここで俺がすぐさま拳を振るわなかったのは、まだどこかで正気のありなしを訝る思考が残っていたからなのかもしれない。
あきらかに判断ミスであった。
「…どうしてくれるよ、オレのこれから。ふつうに卒業することもできやしねえ」
知性の鈍い声で中坊はつぶやく。
「知ったことかっ、身から出た錆だろ!」
俺は怒鳴りつけた。
「ちがうっ、おめぇらのせいだ!」
こいつの頭の中で、たった今、なにかが弾けた。
中坊は、背に隠し持っていたアイスピックを握り直すと、俺の顔面めがけて突き出してくる。
俺には考えるいとまもなかった。辛うじて目玉は避けたものの、頬骨にガツンと突き刺さる。そのままこいつは俺に飛び掛かり、ふたりとも地面に転がった。
アイスピックを両手で握りしめ、嵩にかかって突き刺してくる狂人の眼には迷いがない。なんどでも刺してやる、そんな気迫が充満していた。
俺は二の腕の肉を盾にして防いでいたが、もうすでに胸にも何発か喰らっている。平時であれば激痛に悶えたのだろうが、今はアドレナリン全開だ。
「てめっ、やめろ!」
「しねっ、しにくされやぁ!」
発狂したヤツの癇声とともに、胸に深く突き立てられたアイスピックを、俺は意外にも冷静な目で見ていた。やがて呼吸さえ満足にできなくなるだろう。
「おいっ!」
血まみれの口から、俺は怒声を放った。
もう声はしわがれて、聞き苦しい。
勝利を感じ取ったのか、中坊の眼はにたりと笑った。その目ン玉へ、俺は中指の第二関節を折った拳を突き上げる。
「正気に、戻りやがれ!」
ぱぁんと、なにかが真っ赤に破裂した。
中坊の悲鳴が、細く長く尾を引いた。
そのまま、伸びあがってむき出しとなったヤツの腹に、俺は足をかけて蹴り飛ばす。
それが、俺の最期の気力であった。
砂利の小石をまき散らしながら、あいつは地面の上で悶えていた。破裂した目玉の傷口がさらに開いて、真っ赤な血流があふれ出ている。
それを、俺は口蓋にあふれた血をごぼごぼ吐きつつ、じっと見ていた。
さすがにもう、反撃されることはないだろう。
それだけを確認すると、ふいに気が遠くなり、俺の意識はねっとりとした闇に包まれていった。