邂逅するのは、突然に 一
俺は、中学の頃より皆にハンチと呼ばれていた。
とくに変わった頓知を利かせているわけでもなんでもなくて、まあ本名を名乗り上げてしまえばすぐに分かると思う。
半田 智則。
このごく普通の苗字と名前の最初のひと文字をくっつけて、半智、と呼ばれているにすぎないのだ。
そんなパンピーのごくありふれたモブ、ハンチくんは、晴れてこの春、県内でも随一と云われている私立の進学校へ進むことができた。
俺がここまで勉強するようになったのも、やっぱり特異な右の手のひらにあった。左の手だけは普通なのに、なぜなのか、どんなに握りこぶしを作ってみせても、この右手には掌紋の一筋すら現れないのである。
小学校二年のころ、記念なんちゃらとかいう画集を作る際に、子供たち皆で手に紅墨をぬり、飾り紙にぺたぺた手形をつけたものだが、手相のまったくない俺は、当時からずいぶんと奇異な眼で見られていた。
それは中学校へ進んでも変わりなく、それでまあ、四六時中シャーペンでも握っていれば、この風変りな右手をクラスの皆に発見されて、わいのわいのと騒ぎ立てられることもなかろうと、俺はそう考えた。
その目論見は、高校へ進学するまで、意外なほど上手くいっていた。
そしてそれは、普通列車からいきなり超特急にでも乗り換えて、あろうことか最果ての長崎駅にまで到達してしまったかのような、そんな意外さでもあった。
もとより、俺のような凡才が、どうしたらこんな家柄の良い子女ばかりが集う立派な高校などへと、そんなお畏れた考えなんぞはじめっから持っちゃいなかったつもりだが、実際、中学ではかなりの優秀な成績を収めてしまい―――まあそんな成り行きから、あきらかに自分には釣り合わないこの高校へと、俺は進学することになってしまったのだ。
春になり、高校へ入ってから、全ての部活動やサークルからの誘いを断って、とにかく高い学費を支払ってもらっている手前、落ちこぼれて親に泣かれるのだけは勘弁と、俺のような凡才は、立派な優秀な頭脳たちばかりが集うこの学び舎で、ただただもう必死になって机にかじりついているしかなかった。
それでも最初のひと月ほどは、まだ穏便に過ごせていたと思う。
しかしそうした心の安寧は、俺のちょっとした親切心(不注意)によって、あっさり崩壊することになるのだった。
さてあれは何日だったか、桜花がすっかり散ってからも、まだ底冷えのする頃だったと思う。
朝、日直のために早々に登校してから、玄関の靴箱で億劫そうにうわばきに履きかえたあと、そこの教室へ向かうまでの道すがら、俺は廊下の隅に革製の、ひとつの可愛らしい猫柄の財布を見つけることになる。
落ちていたそれを拾ってから、小銭の音がするのを気にしながらも、正直に受付へと向かい、そこにいた係員の女性に財布を預けた。
それからまあ、いつも通りに授業を受けているうちに、俺は財布を拾ったことなどすっかり忘れていた。
思い出したのは、昼休みになって学食へ行くつもりだった一人の女子生徒が、財布がないと騒ぎだしたからである。
俺は今朝のことを思いだし、その娘に申し出ようとしたところ、彼女は驚きをあげて隣の女子を指さして、なにやら目を丸くしているご様子だ。
ひょいと覗くと、なんとまあ今朝俺が拾った財布と同じものが、隣の女子の机の上にも置かれているではありませんか。
「そ、それ、私のお財布なのですが・・・・・・」
その彼女は、やや気後れしたように、細い指を所在なさげに胸の前で絡ませながら、抗議めいた声を上げていた。
そう言われた女子の方は、ゆっくりと、怪訝そうな顔を振り向けた。
「あの―――」
その唇からきれいな声が、凛と響いた。
よく考えたら、俺がこの女子の声をこんなに近くで聞いたのは、入学以来はじめてではないかしら。
なんというか、ほんとにまあ、そのきれいな声がすうっと雫のように俺の内耳へぽたりと落ちて、先ほどまで聞かされていたあの念仏のような教師の声を、きれいさっぱり祓い清めてくれるようだった。
「―――あなた、なにを、おっしゃっているのですか?」
「で、ですが、それ」
「このお財布は、曾祖母が私へ贈ってくれた大切な品なのです。あなたのものでは、決してありませんわ」
さすがは良家の子女ばかりが集う私立である。ですわ、とか、かしら、とか、公立にいたのでは決して味わえない趣のある言葉が、桜色の唇からぽんぽんと飛び出してくる。
そしてそれが美しい声調であるぶん、かえって水晶のような冷たい雰囲気を纏わせて――――おそらくそれは、上流社会に生まれついた者のみが持ちうる、機微の現れでもあったのだろう。
しかし気丈にも、相対するひとりの女子は勇気を振り絞って、その冷たい彼女をひたと睨みつけていた。
睨まれている方の彼女、もうぶっちゃけ言ってしまうがそいつこそがミカンコであり、在学中、俺をずっといろいろな意味で悩ませてくれる元凶でもあるのだが、この時の平和ボケな俺は、まだ知る由もない。
ミカンコの澄み切った瞳は、あらゆる感情を滅したように、冷たく打ち開かれて、ただ憂鬱さのみを示していた。
「それは、私のお財布なのです!」
その二度目の抗議の声にも、ミカンコの唇はきっちりと結ばれたまま。
それで埒が明かないと思ったのか、ついにその女子は、ミカンコの机の上の財布へと手を伸ばしてしまうのである。
最初、革製の高級そうなにゃんこ柄の財布に指先が触れたとき、彼女の眼にはちょっとした安堵の色が見えていた。しかしそれは直ちに驚きへとかわっていた。
その彼女の手の甲を、ミカンコの白い手がぎゅっとおさえつけていたからだ。
そして、一言。
「泥棒はいけませんわ」
それはしんと静まった教室の中を、ただちに貫いて、皆の耳にもよどみもなく届いてしまった。
言われた彼女の方は、瞬時に赤くなった。
思いもかけず、自分が侮辱された言葉を、事情をいっさい知らない第三者にも聞かれてしまって、頭が真っ白になっていたようである。
そして、この時だ。
なぜだか俺は、教室にいる他の誰よりも、それどころか、あの女に手の早いことで有名な慶将という男よりも早くに、それを察知して、つい足を一歩踏み出しちまったんだよ。
すうっと、彼女の肺に息をためる気配がするや、片方の手が力いっぱい振りおろされて、運悪く突き出された俺の可哀そうな左の頬を、激しく打ち叩いていた。
バッチーン!
―――と、一瞬、意識がぶっ飛んで、俺は三途の河の向こうを垣間見ちまったような気さえした。
たかが女子の平手といっても、侮るなかれ、手のひらの土手の部分を顎の先端にクリティカルヒットされてしまうと、どんなアンドレ・ザ・ジャイアントであったとしても、軽い脳震盪くらいは起こしてしまうものなのだ。
あとで慶将から聞かされた話だけれど、俺はその時、二回ほどくるくる回転して、情けなくも「あふん」と、ミカンコの胸の谷間に思いっきり顔から突っ込んでいたようなのである。
残念ながら、そのほどよく膨らんだふたつのクッションの感触を未だ思い出せないのであるが、気づくと俺は、桃源郷のような甘い香りに包まれていた。
そしてややかすむ視界の先には、この右手のスベスベを発見し、驚愕するミカンコ嬢のお顔があったのだ。
ところで、俺とは違いこいつの「ミカンコ」というのはアダナではない。
鷺ノ宮 巫女。
巫女と書いてミカンコと読む。まあなんともけったいな名前をつけられたもんだが、べつにこいつの親が、あるいは親族が神社を営んでいるというわけでもなくて、隣町のちょっと上等そうな屋敷に住んでいる、いやいやそれどころか、ご両親は代々続く超有名巨大総合商社の筆頭株主であり、またそこの最高責任者でもあるらしいのだ。
この高校も、その娘が入学したとかで、ずいぶんとたくさんの喜捨を頂戴していたようだけど、まったく、この蒼天すら突き抜けるほどのご威光を振るわしめる大切なお姫さんが、人生のほんの一時とはいえ、俺みたいな凡人の含まれる教室で一緒に過ごさねばならないというのだから、学校とはある意味、奇妙な空間でもあろう。
そんなお姫さんの興味の眼が、どうしたわけか、その日から俺にばかり向けられるようになった。
その日の授業を終えて、放課後、女子生徒らはお互い楽しそうに挨拶をして笑い合いつつ帰りゆく。
そんな明るい上品な華やかな校門の流れに添う街路の先に、俺は今日もやれやれという重荷をひとつ振り落とした心地で、くたびれた鞄をかつぎながらのんびり歩いていた。
ところが、その俺から二、三歩離れたところに、そのお姫さんが歩調を合わせてついてくる。
まあおそらく、この美人と向かう方向が偶然にも一致したのだろうと、そう思い込むことで、ひょっとしたら告白ぅ? などというマジでありえねぇ期待をなんとかなだめていたけれど、ちらと窺うと、そのミカンコと一緒に俺を盛大にぶっ叩いてくれたあの女子も、なんだか身を縮こませながらついてくるのだ。
それで、これはやっぱりあの件で俺に用向きがあるのだろうと――――内心、ちょっとがっかりしながらも、俺はそこで足を止めると、ふたりの女子にふり返った。
この彼女たちの着用している学校指定の制服は、黒っぽいしっとりとした品のある生地のものである。
袖の折り返した縁には、銀糸のあっさりとした刺繍があって、そこから伸ばされた細い指を、ミカンコは牛革らしい鞄の持ち手に軽く絡ませながら、すっと立っていた。
ぴんと背筋の張ったその姿勢はどこか冷たく気品があって、気軽に近寄りかねる雰囲気が、天然にそなわっているようだった。
その彼女の眼が、じっと俺を見据えてくる。
やや狼狽えつつもその眼を真正面から受け止めていると、ミカンコは少し剣味のある口調でこんなことを言ってきた。
「半田君、逃げないでください」
そして、さらに続ける。
「きちんとお詫びも聞いて上げませんと、この荒川さんも、立場がないではありませんか」
その天然のきれいな声音で、自分の名を呼ばれたことは、正直なところ嬉しかった。
なんだか勝手に足が小躍りしてしまいそうだったけど、いやあ、べつに逃げていたわけではないんだよ。
あの暴力騒ぎのその後は、野郎の手で保健室にまで担ぎこまれることになってしまって、俺が教室に戻ることができたのは午後の授業が始まるころ。それからまた、なんやかんやと忙しく、気づけば帰りのHRも終わっていたのであったから。
やっぱりこう、女子と正面から向き合って話すには、タイミングってもんが必要だろう。ましてや、ほとんどが金持ちのご令嬢ばかりなのである。
それにほら、俺は元来、女子にはたいへん寛容な男だから――――ああ、そういやこの娘、荒川っていうんだっけ。
大人しそうな感じの子だったけど、あのスナップの効き具合からして、そのお転婆ぶり、かなりの練度を積み上げたものと思われる。
とまあ、そんな事を申し立てるのも今更なので、俺がそこで面倒そうな顔をしていると、ミカンコは後ろで縮こまっているその彼女を、自分の前までひっぱり出した。
「あの、ハンチ君、あのときは申し訳ございません」
その荒川ちゃんは消え入りそうな声で、ただちに頭を下げてきた。
――――いや、この俺なんかに、「ございません」などという丁寧なお言葉は必要ないのでございますよ?
うっかりするとこちらがペコリとしそうになるのを、辛うじて堪えて、俺はそこで申し訳なく詫びる荒川ちゃんの旋毛などを眺めていた。
それから彼女は、落とし物を保管していた事務所に、自分の本当の財布があったこと、またそれを拾って届けてくれたのが、なんと自分が昼に引っぱたいてしまった男子であることを知って、今ではもう身も世もない心地でございますなどと、日常書簡文範のような堅苦しい言葉で謝ってくる。
俺はあくまで寛容、寛容に、ひどくすまなそうにしている荒川ちゃんを、まるで泣き出した子供でもあやすかのように宥めすかして、かえってひどく気疲れしてしまった。
しばらくして、荒川ちゃんは十分にその謝意の伝わったことが分かると、身体の前に正しく両手を重ねあわせて、ふたたび深ぁく頭を下げてきた。
なんというか、育ちの良い人間と付き合うというのは実に疲れるもので、俺はもう、何が何やら。
しどろもどろに応酬するので精いっぱい。
それで彼女がようやく晴れた笑顔を見せるようになると、今度はミカンコ嬢が俺の前に立ちふさがるのだ。
――――立ちふさがる?
そう、その眼のすわり様、なんだか妙に薄気味悪い。
もとより、俺がミカンコに対してなんら不義を働いたわけでもないのだし、むしろ身代わりになってやったのだから、感謝されこそすれ、ここで文句を言われる筋合いなどない話のはず。
ところがミカンコは、その市松人形のような整ったよそおいで丁寧な言葉づかいで、これから俺に文句の一つでも言いたいようなのだ。
少なくとも、その姿勢から受けた最初の印象はそれだった。