六話 忍び寄る影(前)
窓から差しこむ朝陽。
じりじりと肌を焼くような光が、開け放たれた窓から室内へと差し込む。
朝の冷たさも、朝日によって温め始められていた。
陽の下に立つと、汗が薄っすらと浮かび始めるそんな気温。
その気温の中で、アセビはいまだ夢の中だった。
ルピスは、
《起きて、アセビ。もう朝だよ》
アセビの肩を優しく揺らす。
「むにゃむにゃ、まだあと一杯……」
どうやらアセビは夢でもお酒を飲んでいるようだ。
普段の覇気のある美しさもどこへやら。今はただだらしなく眠りこけていた。
ルピスはしばらく声をかけ、肩を揺らしてみたが、どうにも起きそうにない。
仕方ない、と小さくため息を吐き、
《お願いできる?》
虚空に向かってそう問いかけると――
「痛たたたたッ!」
アセビの周囲に浮いていた光たちが、ルピスのお願いにアセビへと体当たりをしたのだ。
光があたるたびに、アセビはそこに電気が走ったように身をよじる。
《おはようアセビ》
少し恨みがましそうな視線で、
「……おまえ。妖精を使って起こすのは反則だろ」
《だってアセビが起きないから……》
アセビは視線をルピスから窓の外へと向ける。
窓から差し込む朝陽に眩しそうに目を細めると、
「それにまだ日が昇ったばかりじゃないか。もう少し寝かせてくれよ。それにおまえ、いつもの依頼は?」
《今日はお休みだって。有給休暇? とかいうの。シバスがお屋敷からの誕生日プレゼントだって》
いつも通り早起きして、依頼をこなすために屋敷へと向かったルピス。
しかし、屋敷に到着するとシバスとルチルから、誕生日を祝う言葉と共に休暇を与えられていた。
「シバスだか、セバスだか知らないが粋なことするじゃないか」
《それでアセビと過ごせって。七歳の誕生日は特別だから》
「あー、まぁそうか。ルピスも七歳か……。魔法使いの世界でも七歳からが魔法使いの始まりとも言われているようだしな」
寝転がっていた姿勢から身を起こすと、アセビは寝具の上で胡坐をかくように座りなおした。
ポリポリとその頬を掻くと、
「……よっし。この私も誕生日プレゼントを買ってやろう」
形の良い胸を大きく張ってみせた。
「さぁ、何が欲しい? 言って見ろ。食い物か? 装飾品か?」
探るように覗き込むアセビに対し、
《なんでもいいの……?》
ルピスは恐る恐るその顔を窺う。
実はアセビから欲しいものすでに決まっていた。
「あぁいいぞ。と、言っても色を知るのはまだ早い。それ以外ならだ」
《色? って言うのが何なのかわからないけど――》
《――ぼく、またアセビに魔法を教えて欲しい!》
ルピスがアセビへと向けるのはキラキラと期待した眼差し。
アセビはニカッと快活に笑うと、
「いいだろう。おまえにぴったりな無詠唱魔法を教えてやるって言ったもんな」
《うん! ……ところで、その無詠唱魔法? ってなに? 普通の魔法と何が違うの?》
物心つくころには、魔法教育を叩きこまれていたルピスであったが、無詠唱魔法というものに聞き覚えがなかった。
なぜなら魔法は詠唱するもの。それが魔法の常識であった。ゆえに魔法使いが学ぶのは魔法の詠唱。それからその魔法の運用。他には詠唱を素早く唱える。詠唱によりその内容を相手に悟られないように行う、と言った技術。しかし、いずれも根本にあるのは魔法の詠唱。
「いい質問だ。その質問へ答える前に、魔法についてどこまで理解している?
《えっと、魔法は体外から魔素を取り込んで、それを体内で魔力に変換して、変換した魔力を詠唱によって世界に発現させる技?》
「さすがは魔法使いの名家のファトス家の教育だな。その歳でそこまで理解できていれば上出来だ」
ファトス家による過剰とも言えるほどの詰め込み教育と、本人の高い学習意欲もあって、ルピスは既に魔法の基礎知識は備えていた。
その甲斐あって、座学においては当主である祖父にも、家庭教師の魔法使いにも何か言われることはなかった。
《だから、声が出せないぼくは魔法が使えないって……》
「おいおい、私の前でその辛気臭い顔はやめろ。詠唱もまた数ある魔法の中の一つの方法に過ぎない。現におまえは今まさに魔法を使っているだろ?」
アセビの言葉に、ルピスは思考を中断して目を丸くする。
くりくりとした白い眼と、赤と黄のオッドアイの視線があらためて交差する。
「いま使っている<念波>だって言わば無詠唱魔法の一つだ。知らなかっただろ?」
確かに言われてみればそうだ。
念波を使うときに、いちいち魔法を唱えるようなことはしていない。
「次はそうだな……。何かと役に立つ<照明>を教えてやろう」
照明、それは初級魔法に数えられる魔法の一つ。
強化の魔法と並び、魔法使いが最初に学ぶ魔法。その汎用性は極めて高く、現代魔法使いの必須魔法と言っても過言ではない。
ルピスもファトス家にいたころ、家庭教師に教えてもらったが、ついに発現させることができなかった魔法でもあった。
「よし。じゃあ出かけるぞ!」
勢いよく寝具から飛び降りたアセビは、パッパッと部屋着から普段着へと着替える。
アセビの脱ぎ捨てた部屋着が、ルピスの視界を遮るように降りかかる。
生暖かい温度が顔を覆い、独特な甘い匂いがルピスの鼻孔を満たした。
ルピスは顔にかかったアセビの部屋着を折りたたみながら、
《えっと、どこに? 魔法協会?》
問いかけると、
「ばか。光が必要なとこだよ」
着替え終わったアセビは、ルピスへと振り返ると指で床を指差した。
◆ ◇
アセビに連れられてやってきたのは、都市の地下を走る下水道。
二人の周囲には光の玉が二つ。
アセビが魔法で作り出した光源だ。そのおかげでルピスは暗闇の中でも歩くことができていた。
すぐ傍には勢いよく水が流れている。
その水は都市の使用済みの生活水。
つまり、汚い。すえたような鼻を突くような匂いが下水道には立ち込めていた。
その醜悪な匂いにルピスは袖で鼻を抑える。
《くさい……》
そんなルピスの反応に、
「お前はやっぱりいいとこの坊ちゃんだな」
アセビはカラカラと声に出して笑った。
歩き続ける二人。
ルピスはどこに向かって歩いているのか、皆目見当もつかなかった。
その体をアセビへと寄せながら歩く。
アセビの魔法により光の照らされる下水に巣食う鼠たち。
ルピスの拳より大きいものも多い。彼らは光に照らされてると、鳴き声を上げながら闇に溶け込むように一目散に逃げていく。
「……このあたりでいいか」
そう言って振り返ったアセビはイイ笑顔を見せた。
――背中が寒くなるような笑みを。
ルピスがその笑顔に嫌な予感を感じていると、二人を照らしていた光が忽然と姿を消した。
瞬きをする間もなく、闇が二人を世界を包み込んだ。
普段ルピスの視界に入る光も、闇に飲まれて何も見えない。
ただ下水の流れる音が反響している。視覚を奪われたことにより、その音が急に何倍も大きな音に聞こえてくる。
《アセビ!?》
「照明が欲しい? なら、照明が欲しくてたまらなくなるような環境で学ばないとな。言っておくが私の授業はぬるくないぞ」
心臓の鼓動が速くなる。
すぐそばを流れていた下水もどこだったかわからない。
視覚は方向感覚を奪い、下水道に反響する水の流れる音は場所を錯覚させる。
「魔法とはおもしろいもんでな。正解に辿り着く方法は一つじゃない」
視界の奪われた世界の中、アセビの声が朗々と響く。
「体内から放出する雷属性の<照明>が一般的だが、火属性の奴は火で、光属性なら光で闇を照らすだろう」
七曜と呼ばれる七つの魔法属性。
闇、火、水、風、雷、土、光の中でも、"強化"を司る雷属性は万人が有する属性なのは有名な話である。
ルピスもそのあたりの基礎的な座学の知識は、ファトス家で既に叩きこまれていた。
「さぁ、ルピス。見せてみろ。お前なりの世界の輝かし方を」
それこそが次のルピスが向き合うべき課題。
闇に呑まれた世界の中、ルピスは自分に問いかける。
――ぼくの世界の輝かし方……。
◆ ◆ ◇
結論から言うと、この日ルピスは<照明>魔法を使うことはできなかった。
魔法の練習を切り上げて宿に帰ってきた二人。
ルピスは魔法の失敗に落ち込んでいた。
<念波>の魔法が初日にできたばかりに、<照明>もすぐにできるものだと、心のどこかで甘く見ていたのかもしれない。
しかし、現実は無常であった。
「完璧にできる流れだったんだがな! ま。下水に落ちなかっただけマシだ!」
《片足落ちたんだけど……》
ルピスのズボンの左側は変色しており、悪臭も放っていた。
塗れた衣服が、肌に張り付くぐじゅぐしゅした感覚は不快感を伴っていた。
「おっと、下水に頭まで浸からなかっただけマシだ!」
《うぅ……気持ち悪い……》
ルピスは濡れたズボンを掴んで引っ張ると、ため息を吐いた。
しょげかえるルピスに、
「一緒に風呂入るか!」
《ぼくもう七歳だよ? 女の人とお風呂は――》
「うるせぇ! 入るぞ!」
アセビは豪快に笑い飛ばすと、ルピスの首根っこを掴んで部屋を出る。
その足で一緒に風呂へ入った二人。
流れ的にてっきり慰めてくれるのかと思ったルピスであったが、そこはアセビ。
ルピスがせっせとアセビの背中を流すことになったのはご愛嬌であった。