教え子と二人きりとか、聞いてないです
「はぁっ…………」
帰宅途中、暗い夜道で俺は大きくため息をつく。
「どうすればいいってんだよ、俺……」
悩みの種は、先ほどの出来事にあった。
『愛してる』――そう水無瀬さんは言った。
それはおよそ教え子が家庭教師に向ける言葉ではない。
一定の距離が保たれる関係――それこそ学校教師と生徒のような関係では、心を通わせる機会がないために恋愛感情なんて芽生えないし、お互いに立場を弁えて接するから、そういう感情があっても言葉にしようとは思わないのだ。……普通なら。
だが俺の場合は違った。その「普通」が全く通用しないのだ。
彼女のその言葉には大きく二つの要因があるのだろう。
一つ目は、あの事件。男に襲われていた水無瀬さんを俺が助けたことで、彼女はなにか恋に近い感情を抱いてしまったのかもしれない。
これはまだわかる。命を救ってもらった人間にときめいてしまうのはある種の不可抗力だからだ。
それに、「訳アリ」でないように見えているのは、おそらく事件が理由。今まで水無瀬さんを担当してきた何人もの家庭教師は、初仕事から数日で音を上げたという。
彼女の何が彼らをそうまでさせたのかは不明だ。だが、
『先生しか無理です。先生に命を救っていただいたときから体が疼いています。ずっとずっと、私と一緒にいて下さい……』
ひとつ言えるのは、俺は彼女に認められたということ。
事件があったために、俺と水無瀬さんの出会いは普通ではなかった。だからこそ今までとは違う接し方になっているのだろう。
二つ目は、彼女自身の性格。いや、この際人格と言ったほうが正しいか。
水無瀬さんは普段こそ真面目でおとなしいが、その反面、束縛から解放されたときの反動があまりにも大きいと思われる。
以前聞いたことだが、彼女は水無瀬家の純系ではないという。
しかし完全な余所者というわけではなく、だからといって身内とも呼べない曖昧な立場らしい。
『――私、昔はこの家にいなかったんですよ。七歳のときに居場所がなくなって連れてこられまして。私の父は水無瀬家の当主ですが、母親はすでに他界しています。だからここにいるのは私の母親でもなんでもない、全く血の繋がっていない別人です。つまり、私は当主の不貞の子ということ……。母親は当主とは別々に暮らしていたので彼は私のことを我が子だと思っていません。それどころか腫れ物のように扱われています。ですが、それも四人いる姉達に比べたらかわいいもので、あの人たちは毎日のように私を虐げて楽しんでいます』
水無瀬家当主が不貞の末に産ませた子供、それが彼女だ。
幼くして母親を喪い、ほぼ他人と言える家で暮らさざるをえなくなり――しかしそこで待っていたのは愛情も何も無い息苦しい生活。同じ父親をもつというのに余所者と見做される。
他方の当主は、一族の恥を晒されでもしたら迷惑だと考えて、彼女の一切の行動を制限し徹底的な教育を施す。最たる例が家庭教師をつけたことだ。他にいる四人の姉達にはつけられておらず、勉学に励むことを強制されていない。
私の場合、勉学面の教育だけでなく水無瀬家に忠実に従う便利な駒をつくるための精神的な教育もあります――と彼女は言った。
酷な話だ。
そんな境遇が彼女を独占的な人間にしてしまったのかもしれない。自分だけに与えられた家庭教師という存在を手放したくない、と。誰にも奪われたたまるものかと。
だがもちろん、俺はその気持ちに答えられない。会って間もない少女は好きになれない、もっと時間をかけてお互いのことを知り合うべき、という話とは別。
彼女が俺を好意的に思ってくれているのは嬉しいが、家庭教師という立場である以上、教え子に手を出してはならないのだ。常識的に、世間体的に、倫理的に。
その暗黙の了解を破った暁には即刻依頼を破棄されて会社からも首を切られることが容易に想像できる。
……だからといって保身のために水無瀬さんを無下に扱うのはダメだ。彼女の気持ちの遣り場がなくなりいつかは確実に関係が崩れてしまう。
しかし彼女を受け入れて距離を近づけるのも得策ではない。いくら本人が嬉しかろうが、それは家庭教師としての領分を超えている。
――どちらを選んでも事態は悪転する。
故に俺は、
「はぁぁぁぁ…………」
ため息をつき頭を抱えるのだった。
――最善の策は、思い浮かびそうにない。
◆ ◆ ◆
水無瀬家にて、夕食後。
玲歌はひとりキッチンに立ち、大量の食器を無心に洗っていた。
ジャーという水温とその冷たさが、玲歌の心をひどく沈ませる。
水無瀬家の家事の殆どは玲歌が担っている。家柄が家柄なので使用人の一人や二人ぐらいいると思うかもしれないが、まったくそんなことはない。
だがいないからこそ、この家において玲歌の扱いは使用人のそれに等しかった。
四人いる玲歌の姉達はもちろんのこと、継母ですら家事を手伝おうとしない。故に料理も洗濯も掃除も、全ては玲歌の仕事だ。彼女は学校と勉強以外の時間の大半を家事に費やしている。
無論、そんな役目はいち高校生に担わせるには重すぎるのだが、それでも玲歌が耐えていられるのは、家の者全員での外食が多いからだろうか。
そこに彼女は含まれていない。家に誰もいない日は、一人分の食事を自分でつくり一人で食べることになっている。
水無瀬家全員、即ち七人が食卓に揃うことは珍しい。
事業主である父はとりわけ会食が多く、また姉達も交遊やら逢引やらで毎日のように帰りが遅い。
だが今日はその珍しい日で、家には七人全員が揃っていた。
皿洗いをしながら、玲歌はちらりとリビングを見やる。
母と、一、二番目の姉を除いた三人。そこには一切の会話がなく、各々が食後の小休憩として自分の時間を過ごしていた。
ただ玲歌は、そこに漂う剣呑な、或いは険悪な空気を肌で感じていた。
(いつものこと。余所者の私がいて鬱陶しいんだ……手伝いもしないくせに、おこがましい)
そんな悪態が玲歌の口から発せられることはない。もし言葉にすれば、自分の扱いがよりひどくなるだけだと理解しているからだ。
(……もう、今日はいい。本当は勉強しないといけないけど、疲れたからはやく寝よう)
食器は全て洗い終わった。課せられた家事はこれで完了だ。濡れた手をタオルで拭い、玲歌は階段へと足を向ける。
「――玲歌。待ちなさい」
と。
階段を上りかけたとき、背中にそんな声がかけられた。
「……はい、お父様」
足を止め、玲歌は声の方向に向き直る。僅かに歪んだ表情はすぐに隠して。
彼女を呼び止めたのは食卓に座って茶を飲んでいた父だった。
「こっちに来なさい。話がある」
彼は自分の前の席を顎でしゃくった。そこに座れということだろう、玲歌は黙って階段を戻りそれに従う。
「玲歌。最近、勉強の首尾はどうだ」
両の腕を組んで厳かに問う。彼が玲歌に話しかけるのは――否、玲歌と言葉を交わすのは実に一ヶ月ぶりだ。水無瀬家に新しい家庭教師が来てから今日までの、一ヶ月間。
「順調です。今はもう高校の範囲を終えて――」
「そうではない。私は、あの家庭教師はどうだと聞いている」
玲歌はその強い口調にしばし口を閉ざすが、
「……非常に、頼もしいです。わからない分野もないようですし、私の質問には的確に答えてくれています。教え方も丁寧ですし……」
「では、今までとは何が違う?」
これには玲歌も答えに窮した。玲歌は彼にじっと見つめられ、気まずさから俯いてしまう。
「答えろ。今までの七人とは何が違う」
ここで、玲歌は己の言葉を偽った。
「……それは、私にもわかりません。あの方となら何故かうまく会話ができるんです。何が違うのか、という問いに対してはまだ答えられません……すみません」
「そうか。わかった――では、これからも手を抜かぬように」
てっきりしつこく聞かれると思っていた玲歌は、彼があっさり話を終わらせたことに少々驚いた。それが表情に出ることはないが。
「それにしても……玲歌。なぜ今までの家庭教師を悉く拒んだのかは、教えてくれないのだな」
「……すみません。お父様」
「いや、さりとて大事なことではない。私の興味本位だ。……もう行っていい」
彼が手を振ったので、玲歌は背を向けて階段を上り始めた。その途中、
「あぁ……ひとつ言い忘れていた。次の授業日、私達は外出で家にいないため、覚えておくように」
「……はい。わかりました」
それに玲歌は小さく答えて、二階へと消えていった。
◆ ◆ ◆
部屋に戻った玲歌は、真っ直ぐ引き出しへ向かって一冊のノートを取り出す。
「……『愛してるから』なんて、答えられないよ……」
手に持ったペンが紙の上を忙しなく動く。
「今日は疲れたなぁ、せんせい…………」
玲歌は一日の疲れを発散するかのような気分で、真っ白なノートを文字で埋めていく。
それは彼女の日課であり、同時に、気をおかしくしないための、ある種の作業であった。
ひたすらに文字を書き続ける彼女の姿は、狂気そのものに違いなかった。
『先生、蒼真さん、蒼真くん、蒼真さま、先生、蒼真さん、蒼真くん、蒼真さま、
先生蒼真さん蒼真くん蒼真さま先生蒼真さん蒼真くん蒼真さま先生蒼真さん蒼真くん蒼真さま先生蒼真さん蒼真くん蒼真さま先生蒼真さん蒼真くん蒼真さま先生蒼真さん蒼真くん蒼真さま先生蒼真さん蒼真くん蒼真さま先生蒼真さん蒼真くん蒼真さま先生蒼真さん蒼真くん蒼真さま――――――――――』
「あぁ先生……二人っきりだなんて、楽しみだなぁ……♡」
そして玲歌は妄想を広げ、甘美のあまり体を震わせる。
◆ ◆ ◆
『水無瀬家当主・水無瀬勝己 今葉蒼真殿へ
次週火曜日の授業は二時間延長して、十七時から二十二時まででお願いできるだろうか。早急に返事を頂きたい。
備考として記しておくが、その日私達は外出のため、翌日まで玲歌以外は不在だ』
そんなメールを受け取った男は、スマホをもつ手を震わせた。
「……教え子の家だってのに、二人だけで授業とか…………大丈夫なのかよ、これ」
彼は、自分を待ち受けているであろう出来事を可能な限り想像した。
――だが、それは的外れなものだった。
彼は水無瀬怜歌という人間そのものそのものを、甘く見ていた。