その目が見れて良かった。
おそらく緊張しているナインを気遣ってくれたのだろう。ボスは出された紅茶を一口飲み、話を聞く態勢を取った。
ナインはゴーレム野の村から砂漠のオアシスまで、これまで見てきた風景とそこにあった困難などできるだけ細かく話した。話をしているうちに話が風景だけに収まらず、ナインはその妻と過ごした過去の日々についても話をして聞かせた。ボスはその惚気とも呼べるような昔話にも興味深そうに聞き入った。
ナインの話に時折ペンで相槌を打っていたボスだったが、やがてナインの話が終わると、満足したように文字を書いた。
『ナイン様は話し方がお上手ですね。それに、本当に貴重な経験をされているようだ。私に2本の足があれば、そのガイドブックの旅に参加させていただきたいぐらいですよ』
「失礼かもしれないですけど、ボスさんのその足は…」
『ああ、これですか。これは昔私が勇者だったころ、とあるモンスターを助けようとした罰として、人間によって焼かれてしまいました』
「え!?ボスさんは勇者だったんですか!?それに、人間によってって…」
『元、ですけどね。実は、私も過去にナインさんと同じく、勇者の身分でありながらモンスターに恋に落ちてしまったことがありまして。その時に反逆者として付けられた罰がこの足だったのです。愛する彼女を助けられるならこの両足ぐらいくれてやるぐらいの想いではあったのですが、不幸にも彼女は誰にも救われることなくそのまま命を落としてしまいました』
昔を懐かしむように話すボスの目には深い悲しみが映っていた。「もう何年も昔の話ですけれどもね」と先ほどまで聞き手だった好々爺の顔に影が落ちる。
『ところで、ナインさんはこの世界がまるでゲームのようだと思ったことはありませんか?自分以外の誰もが真剣に生きていないのではないかと錯覚したことはありませんか?』
「……それは…」
急に核心的なことを聞かれ、言葉に詰まる。
そんなナインの沈黙を肯定と受け取ったのだろう。ボスは書き続けた。
『500年以上前、この世界はモンスターと人間が手を取り合う穏やかな世界でした。それが、たった一度《世界の原石》の力によって何もかも変わってしまった。
魔王が一人の勇者によって討伐され、平和になった世界で、やがて人々は5つの領土を巡り人間同士で戦争を始めました。アマクロイス、カランドステラ、サムラクト、ターフロイデ、ナフド。この5つで不毛な領土争いが続く中、これ以上争いはいけないと歯止めをかけたのが、当時それぞれの領土を治めていた5人の王様です。彼らは《世界の原石》を使い、勇者の数を増やし、ありもしない“モンスターの凶暴化”をでっちあげました。愚かしくも人間は己の犯した過ちを大して償うこともせず、モンスターという明確な敵を作ることで、戦争を終結させたのです。これが、勇者とは名ばかりの、国の命令に従順な戦士たちの誕生です。結果、勇者によるモンスターの大量殺戮が世界中で起こりました。
そんな見せかけの平和のために、殺されなければならなかったモンスターたちのことを思うと今でも胸が痛みます。なにより、こんなバカげた時代がこなければ、きっと彼女があんな風に惨たらしく殺されることもなかった』
ナインたちがここに来る前に出会ったカーバンクル。人が好きだという彼女を見ていると、そんな夢のような時代が過去に本当にあったのだと今は信じることができる。
だが、こうしてボスからこの世界の成り立ちを聞いていると、人間の身勝手さに吐き気を催した。
ナインは勇者鍛錬所にいる間、この国の成り立ちについて詳しく聞かされたことはない。ただ、勇者は良いものだと刷り込まれただけだ。きっと、ナインでさえそうなのだから他の勇者も似たようなものだろう。
きっと勇者の誰もが、勇者の成り立ちなど関係なくこの世界を勇者として旅している。
思えば、聖剣を受け取るその日にも、何故勇者が素晴らしいのかについての詳しい説明はなかった。
きっとそんな説明が必要ない程、勇者の存在は強く時代に深く根付いてしまっている。
“こんなバカげた時代がこなければ、きっと彼女があんな風に惨たらしく殺されることもなかった。”
モンスターである妻を亡くしたばかりのナインに、この言葉が刺さらないはずもない。
まるでボスの黒い憎しみが伝染してしまったようだ。ナインはぐらぐらと揺れる思考を振り切るように、目で文字を追った。
『モンスターは人間を愛する。そうなるように、“できている”。なのに、人間はそんな彼らを裏切った』
先ほどまで無力な老人に見えていたのが嘘のようだ。足がないことも、喋れないことも、目が悪いことも関係ない。ボスが車いすに座っているその姿は、歴戦の戦士そのものだ。
『私はモンスターが好きです。そして、彼らを一時の享楽のためだけに殺戮を繰り返す勇者が……人間が憎い。貴方も同じ気持ちでしょう?ナインさん。貴方も、勇者によって愛するモンスターを殺された。ただでさえ短かったその寿命をも待ってもらえずに。違いますか?』
「………。」
『貴方という存在を知った時、きっと貴方とは良い友人になれると思いました。貴方と私はきっと同じものを見ているはずだ。是非、これからも世界を知って、どうかこの勇者塗れの世界を破滅へと導いてください』
ナインはここまできてようやく何故ボスが二人きりになることを希望したのかを正しく理解した。
ボスは同じ境遇のナインに対し、自分と全く同じ志を持つことを望んでいる。
もし《世界の原石》を現時点で自在に操れる人間がいたとしたら、それはナインに以外に他ならない。そんなナインが、人間側に付くことだけは何としても避けたいはずだ。
モンスター側からすれば、500年前の《世界の原石》の効果切れさえ起こせればいい。つまり、ナインさえ余計なことをしなければ、勝手に事が好転する。
勇者を辞めているとはいえ、ナインは人間だ。完全に信用することはできないのだろう。ゴークのおかげで軟禁することが不可能でも、ナインの意志だけはここではっきりさせたいようだった。
返答次第では、今後このモンスターの集落と敵対することもあり得る。
ナインは慎重に言葉を選んだ。
「俺は、俺のやりたいことをするだけです」
『貴方のやりたいことというのはガイドブックに描いてある景色を全て見る事でしたね。全て見た後、貴方はどうするおつもりですか?』
「…今はまだわかりません。でも、奥さんが遺してくれたこのガイドブックが、真っ黒なものを見るためのものではないことは確かです」
『私は真っ黒なものばかり見ていると?』
「……はい。それだけではないと、思いたいですが」
ナインは頷いた。それを見て、ボスは静かにペンを走らせる。
『ナイン様は、愛する妻を殺した人間へ復讐したいとは思わないのですか?』
その一文を見て、ナインはまるで時が止まったように動きを止めた。
口の中が酷く乾燥している。
紅茶を飲んだばかりのはずなのに嫌に喉がひりついた。
真っ黒なものを見るためではないと、そう言ったばかりなのに。
妻が亡くなったとの時のことを、鮮明に思い出してしまう。
『…その目が見れて良かった。貴方はやはり私の思った通りの人だ』
ボスはほっとしたように背もたれに背中を預けた。それを見て、ナインもハッと我に返る。
自分が今一体どんな顔をしていたかわからなかったが、ボスが安心した顔をしているということは、相当酷い顔つきだったのだろう。
「…すみません」
『何故謝るのですか?千里眼をもってしても分からない貴方の本心が少し垣間見えただけでも、私は嬉しいですよ』
シリアスな雰囲気は霧散され、またボスと世間話のような会話が一つ二つ続いた後、ナインはゴークたちの元に帰ることになった。
帰り際、車いすで見送りしてくれたボスへ半身を向ける。
「あの、さっきの質問なんですけど、ボスさんは、もしこの世界から勇者がいなくなったら、どうしますか?」
『……失礼ですが、その質問の意味を先に聞いても?』
「いえ、ただ聞いてみたかったので大丈夫です。特に意味はないので、忘れてください」
ボスがにこりと笑ったので、ナインも笑顔で返す。扉が閉じると同時に、ボスとの初面会は終幕した。