かけがえのないもの
「レギアさん、しっかりしてくださいっ!」
アストリックスは必死になってレギアに呼びかけた。すると身体をまったく動かすことなく、耳元で囁くレギアの声が聞こえてきた。
「……いいかい、勝負は一瞬だ。あたしがあんたの反気輪を破壊する。あんたは奴らに反撃をしてひるませたら、あたしの魔震環を破壊するんだ」
「そんなことが、できるんですか?」
「奥歯に収納珠が仕込んであって、最小限の武器だけはある。無防備になる攻撃の機会を狙え」
二人の囁きには気づいてない様子で、ジュリスは愉快そうな声をあげた。
「驚いたね、レギア! 君が他人をかばって傷つくような人間だなんて思いもしなかったよ。そんな美しい行動には……醜い死がお似合いさ!」
ジュリスがとどめの電撃を放つ。レギアが「今だ!」と言いながら、指先から発した光のナイフでアストリックスの首輪を切断した。
アストリックスは立ち上がると同時に爆発呼吸で、気力を急上昇させた。アストリックスは陸ダコの触手を引きちぎりながら、左手を自由にした。
「破ッ!」
左裏拳の一撃で電撃を弾き飛ばすと、アストリックスはすぐさま右手から気光弾を放った。驚きに包まれたジュリスが懸命に魔導障壁で防御する。陸ダコは負傷した苦痛からか、アストリックスから逃げ出していた。
「レギアさん!」
アストリックスはレギアの頭の環を掴むと、気力を込めて一端を溶かしてしまった。
「レギア! 貴様、どうやって?」
駆けつけたジュリアが憎悪むき出しの顔で口を開いた。レギアは少しよろめきながら立ち上がり、相手を睨みつけた。
「あたしが本当に何の装備も持たずに捕まるとでも思ったのかい? どいつもこいつも、とんだお人好しだ。あいにくとあたしは、騙されるのが嫌いな人間でね」
「貴様ァッ!」
ジュリアがレギアに槍を突き出す。しかしその槍はレギアに届く寸前で動きを止めた。
「あなたの相手は……わたくしが致します!」
その槍を掴んで動きを止めたアストリックスは、ジュリアに言い放った。
「生意気な小娘だよ!」
ジュリアが蹴りを放つが、それをなんなくかわし、逆にアストリックスは下段蹴りを見舞った。膝関節の横を蹴られたジュリアが顔をしかめて跳び下がる。アストリックスが追撃の跳躍をみせたところを、ジュリアの槍が連続攻撃を仕掛けてきた。
アストリックスは槍の穂先の攻撃を巧みに腕で捌いた。やがてその破れた腕の部分から、金属の手甲が露わになる。それは拳士が無手で武器と対峙する時に常備する、防具であると同時に拳士の武器でもあった。
槍を捌いてその間合いの懐まで入り込む。ジュリアの顔に焦りが見えた。が、その瞬間、アストリックスの背後から何かが飛来してきた。
「破ッ!」
回し蹴りの一閃で、その飛来物を破砕する。それは巨霊蜘蛛の吐き出した糸であった。隠れて襲撃してきた巨霊蜘蛛が、その姿を現した。
「巨霊蜘蛛の糸で絡めた後、遠間から槍で攻撃する――あざとい戦術ですわ」
アストリックスの言葉に、ジュリアが薄笑いを浮かべた。
「方法なんてどうだっていい! 目的を果たせればいいんだよ!」
僅かに怒りを含みつつ、アストリックスは静かに相手を見つめた。
「けれどあなたはそのやり方に慣れたせいで、自分の武技を腐らせてしまっている」
「な――なんだとおっ!」
怒りの声をあげたジュリアを無視し、アストリックスは巨霊蜘蛛を急襲した。軽々と跳躍を見せた後、アストリックスは踏みつけるような蹴りを蜘蛛に見舞った。
「彗星脚!」
アストリックスの足が、蜘蛛の頭部にめり込んだ。巨大な蜘蛛は微かに震えて後ずさった後、ピクリとも動かなくなった。
「貴様! わたしの使獣を!」
猛り狂ったジュリアが、槍の一撃を繰り出す。しかしその切っ先を体を開いてかわす。切っ先は空を切り、アストリックスは相手の槍を左手で掴んでいた。
ジュリアが慌てて切っ先を戻そうとする力に合わせてアストリックスは低い体勢を取りつつ懐に侵入する。右手の拳を耳あたりまで上げるようにして肘を突き出し、その肘の先端をアストリックスはジュリアの水月にめり込ませた。
「頂肘破撃!」
ジュリアの防御に使っている気力と、アストリックスの攻撃の気力のぶつかり合いで閃光がスパークする。低い呻き声をあげてジュリアが倒れ込んだ。
「姉さん!」
レギアと交戦していたジュリスが声をあげた。
「クソッ、姉さんを連れて退却するんだ!」
不意に、ジュリアの身体が消えていく。それは陸ダコが覆い尽くして保護色を使っているからだと判ったが、そのままジュリアは姿を消してしまった。
「――どうやら、危機は免れたようだね」
レギアが息を弾ませながら言った。負傷してる上に、かなり魔力を消耗したようだった。
「骸の奴、来るのが遅いんだよ」
レギアは文句ありげな表情を露わにしていたが、アストリックスはレギアを座らせると治癒術を施し始めた。
「レギアさんのおかげです。あんな風にかばってくれるなんて……ありがとうございました」
アストリックスは深々と頭を下げた。しかしレギアは嫌そうな表情で、手のひらをひらひらと振ってみせた。
「よしてくれ。あたしは自分が生き残るために、お前が戦闘力を取り戻すのが最善と判断しただけさ。礼を言われるようなことじゃない」
「いいえ」
アストリックスは顔を上げて首を振った。
「レギアさんは、わたくしにかけがえのないものをくれたのです」
アストリックスは晴れ晴れとした笑顔を見せた。
*
赤の月と青の月が静かに重なろうとしていた。二つの月が近づいていくごとに、月光は紫色へと変色していく。森の木々も岩肌も、妖しさを含むその光に照らされ、静かに夜のなかで息づいていた。
そのなかで、山の頂上付近から降りてくる巨大な影が一つ。
それは複数の足を動かして、奇妙なこすれる音をたてながら岩肌を降りてくる。やがてそいつは、中腹にある堂へと辿りついた。
そいつが開いた巨大な口から、だらだらと涎がこぼれ落ちる。そこから長い舌か、触手のようなものを延ばして、そいつは堂の扉を開けた。
その瞬間、扉のなかから一筋の閃光が射られ、巨大な身体を貫通して夜空に線を描いた。
巨怪な生き物は、紫の月に向かって雄叫びをあげた。
「――やれやれ、とんだ化け物じゃないか」
扉の中からゆっくりと姿を現したのは、『鉄の魔女』レギア・クロヌディであった。レギアは閃光を放った指先を構えたまま、不適な笑みを浮かべている。
月を隠していた雲が晴れ渡り、紫の月光が神獣ディーガルと呼ばれているその生物の巨体を浮かび上がらせた。
体長は30mにもなろうかという巨体で、それは奇怪そのものの形状をしていた。一番底辺はカブトガニのような甲羅と手足を持つ腹部があり、その上に無理矢理ザリガニを乗せたように持ち上がった上半身が延びてくる。巨大なハサミを持つ手は二本だが、それ以外にも細かいハサミ状になった手が八本も延びており、三角頭の口は大きく開閉して鮫のように並んだ鋭い歯を見せていた。
しかしそれ以上にこの生き物を奇怪にしているのは頭部の形状で、三角頭の頭部には目らしきものはなく、その代わりに中央部から人間の娘のようなものが『生えて』いた。他が赤黒い甲羅に覆われた全身のなかで、その部分だけが白い軟体でできており、腰から生えた娘状の突起は腕が胴体に溶け込んでおり、藻にも似た濃緑の髪は腰まで垂れ、虹彩のない目は真っ赤になって闇夜に輝いていた。
閃光で刺し貫かれたディーガルは、口を開いて吠え声をあげると、細い手を何本も延ばしてレギアに襲いかかった。
「――星光破!」
その刹那、横から跳躍してきたアストリックスが、頭部に拳を打ち込む。金髪を月光に煌めかせながら、アストリックスはさらに横蹴りを見舞いつつ離脱し、小高く延びた岩の頂点にすっと舞い降りた。
「キャアアァァァッ!」
ディーガルの頭部についている娘が悲鳴をあげた。その身悶えするさまにアストリックスは動揺して、その姿を凝視した。と、その瞬間、アストリックスの傍を閃光が走る。見れば、ディーガルが延ばしてきた腕を、レギアが撃ったのだった。
「擬態だ! 惑わされるな!」
レギアの言葉に、アストリックスは気持ちを持ち直して頷く。女性に見えるのはあくまで擬態であり、それは単なる触覚でしかない。魔獣のなかには人間の一部を擬態するものがあると知ってはいたが、アストリックスはその実在を目の当たりにして覚悟を決めた。
アストリックスは突然、右の掌を夜空に掲げた。
「星の光は、命の輝き!」
その瞬きを掴むように拳を握り込み、胸の前へと降ろす。
「多くの命を奪ったあなたは許されざる存在にして、この村の病巣。わたくしが除去いたします!」
アストリックスは決然とした表情で言い放つと、月光のなかを跳躍した。そのアストリックスを狙って、ディーガルの腕が襲う。ハサミを閉じた手は、細かい棘状突起が生えた刃物のようだった。
アストリックスは空中でその腕を受けると、それを抱え込みざま、蹴りを腕に放った。ディーガルの腕が、蹴りを受けたところからへし折れた。擬態の出す悲鳴ではなく、魔獣の口から雄叫びが放たれた。
「――やめろ! お前ら何をしている!」
ディーガルと戦う二人の傍に、村の男たちが現れた。その先頭にはグレグがいる。レギアはうろんな目つきで男たちを見た。
「見りゃ判るだろ、ディーガルを退治してるのさ」
「そんなことはお前たちに頼んでない! 余所者は消えろ!」
グレグは剣を抜いて後ろにいる二人を見やった。後ろの二人もそれにならい剣を抜く。三人はレギアに襲いかかろうとした。が、グレグたちは自らの足を止めるものに気づき、互いに顔を見合わせた。
「これは!?」
グレグが足元を見ると地面には霜が降りたように真っ白になっており、くるぶし近くまで氷に包まれて凍結していた。
「――氷結せよ、我が主に仇なす者たちよ」
木陰からゆっくりと姿を現したのは、ヒーリィであった。